アンドレ・ブルトン ナジャ André Breton Nadja シュルレアリスム的語りの方法

アンドレ・ブルトンの『ナジャ(Nadja)』がシュルレアリスムを代表する文学作品であり、ブルトンの代表作の一つであることは、広く認められている。

『ナジャ』の中心を占めるのは、ブルトンが1926年10月4日にパリの街角で偶然出会ったレオナ・デルクール(https://fr.wikipedia.org/wiki/Léona_Delcourt)との交流を記録したかのように語られる部分。
彼女は自らをナジャと名乗り、アンドレ・ブルトンだと思われる「私(je)」を、現実でありながら現実を超えた独特の世界=超現実へと導くミューズの役割を果たす。

10月5日の記述では、ナジャが「私」にシュルレアリスム的な語りの方法を伝える言葉が記録されている。
シュルレアリスムの定義はしばしば専門用語が用いられ、一般の読者の理解を拒むような説明がなされることが多いのだが、このナジャの言葉はいわゆる専門的な解説とは対極にあり、すっと理解できる。

Un jour, dis quelque chose. Ferme les yeux et dis quelque chose. N’importe, un chiffre, un prénom. Comme ceci ( elle ferme les yeux) : Deux, deux quoi ? Deux femmes. Comment sont ces femmes ? En noir. Où se trouvent-elles ? Dans un parc… Et puis, que font-elles ? Allons, c’est si facile, pourquoi ne veux-tu pas jouer ? Eh bien, moi, c’est ainsi que je me parle quand je suis seule, que je me raconte toutes sortes d’histoires. Et pas seulement de vaines histoires : c’est même entièrement de cette façon que je vis.

いつでもいいので、何か言ってみて。目を閉じて、何か言うの。何でもいいわ。一つの数字でも、名前でもいいの。例えばこんな感じ。(彼女は目を閉じる) 二。ニの何? 二人の女。彼女たちどんな人? 黒い服を着ている。どこにいるの? 公園の中・・・。それから、二人は何しているの? ねえ、とても簡単よ。なぜあなたもこんな風に遊ばないの? えーと、私は、こんな風に、自分に話しかけるの。一人の時にね。自分に向かって、色々な話をするの。つまらない話ばかりじゃないわ。本当にこんな風にして、私は生きてるの。

ナジャの言葉の核心は、いつでもいいから「ある日(un jour)」と、何でもいいから「何か(quelque chose)」にある。

私たちは普通、予め何を話すか考え、相手と自分の関係を測り、時には自分の言葉がどのように受け取られるのか予測した上で話を始める。つまり、言葉を話すのは、非常に意識的な作業なのだ。

それに対して、アンドレ・ブルトンは、「自動筆記(écriture automatique)」という手法を導入し、意識の働きを排除して、あたかも言葉がひとりでに連なっていくかのような文章を生み出そうとした。
『シュルレアリスム宣言』におけるシュルレアリスムの定義を参照すると、「思考の書き取りであり、理性によって行使されるいかなるコントロールもなく実践され、美学的あるいは道徳的ないかなる配慮もしない」とされている。

ナジャの言葉は、そうした「思考の書き取り」の実践法を伝えている。
目を閉じて、「二」と言う。そして、後は自由な連想に従う。
ただそれだけのことであり、とても簡単な「遊び」にすぎない。少なくとも、ナジャにとっては。

もし意識が働くと、これは話すべきではないとか、このように話したら相手によく思われるかもしれないとか、何らかの配慮が働く。
しかし、それでは自由が奪われてしまう。
シュルレアリスムが目指すのは、意識が課す束縛から自由になることにつきる。

ブルトンは、ナジャの言葉に注を付け、それがシュルレアリスムの極致だと明かす。

Ne touche-t-on pas là au terme de l’aspiration surréaliste, à sa plus forte idée limite ?

ここで触れられているのは、シュルレアリスムが切望する最終的な段階、その最も強烈な極限的思考ではないだろうか。

最終的な段階(le terme)、極限的思考(idée limite)という言葉は厳めしい様相をしているが、要するに、« un jour, dis quelque chose »というナジャの言葉に促され、連想の赴くままに言葉を紡いでいけば、そこにシュルレアリスムが実現すると考えていい。

そして、そのように考えると、精神分析学の始祖フロイトの自由連想法、つまり、意識を介入させず、無意識のうちに何気なく心に浮かんだ事柄とか感情をそのまま言葉にするように促す心理分析的技法との関係も見えてくる。

ナジャの簡単な遊びは、シュルレアリスムの複雑化された理論を通すことなく、私たちにシュルレアリスムの技法がどのようなものか、わかりやすく教えてくれる。

ナジャは最後に、「本当にこんな風にして、私は生きてるの(c’est même entièrement de cette façon que je vis.)」と言う。
シュルレアリスムとは、意識の制御から自由になった「生」の表現だと考えていいだろう。

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