ヴィクトル・ユゴー 「魔神たち」 Victor Hugo « Les Djinns » 詩法を駆使した詩句を味わう 2/2

第9詩節(1行8音節)になると、魔神たち(Djinnns)は悪魔(démons)と見なされ、私(je)は予言者(Prophète)に救いを求める。

その予言者とは、「魔神たち」が含まれる『東方詩集(Les Orientales)』の中では、マホメットのことだと考えられている。
また、「私(Je)」は剃髪(chauve)なのだが、それはメッカに向かう巡礼者たちが出発前に髪の毛を剃る習慣を前提にしている。
「魔神たち」の背景にあるのは、『千一夜(アラビアン・ナイト』の世界なのだ。

Prophète ! si ta main me sauve
De ces impurs démons des soirs,
J’irai prosterner mon front chauve
Devant tes sacrés encensoirs!
Fais que sur ces portes fidèles
Meure leur souffle d’étincelles,
Et qu’en vain l’ongle de leurs ailes
Grince et crie à ces vitraux noirs!

予言者よ! お前の手が私を救ってくれるなら、
夕方にやってくる不純な悪魔たちから、
私は剃髪の頭を地面にこすりつけよう、
お前の神聖な香炉の前で!
なんとなかして、この忠実な扉の上で、
消してくれ、奴らの火花散る息吹を。
なんとかして、空しいものにしてくれ、奴らの翼の爪が
ギシギシと音をたてようとも、そして、この暗いステンドグラスの窓で叫び声を上げようとも!

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ヴィクトル・ユゴー 「魔神たち」 Victor Hugo « Les Djinns » 詩法を駆使した詩句を味わう 1/2

ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)。日本では『ノートル・ダム・ド・パリ』や『レ・ミゼラブル』の作者として知られているが、ロマン主義を代表する詩人であり、フランスで最も偉大な詩人は誰かという質問に対して、ユゴーの名前を挙げる人も数多くいる。

無限ともいえる彼の詩的インスピレーションは驚くべきものだが、それと同時に、詩法を駆使した詩句の巧みさにも賛嘆するしかない。
そのことを最もよく分からせてくれるのが、« Les Djinns »(魔神たち)。

8行からなる詩節が15で構成されるのだが、最初の詩節の詩句は全て2音節、2番目の詩節の詩句は全て3音節。そのように一音節づつ増えていき、第8詩節では、10音節の詩句になる。その後からは、詩句の音節数が規則的に減り始め、最後は2音節の詩句に戻る。
つまり、詩句の音節数は、2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 10, 8, 7, 6, 5, 4, 3, 2と、規則的に増減する。

詩の内容も音節数の増減に対応する。
死んだ様な港町から始まり、一つの音が聞こえる。続いて、音節の数の増加に応じて音の大きさが徐々に強まり、10音節の詩句が構成する第8詩節で最も強くなる。
その後、8音節、7音節と減少していくにつれて、音も収まっていく。

ユゴー以外に誰がこれほどの詩的テクニックを駆使できるだろう。どんな詩人も彼と肩を並べることなどできない。
そのことは、第1詩節を見るだけですぐに分かる。8行全てが2音節の詩句で、韻を踏んでいる。 (しかも、ABABCCCBという韻の連なりは、15の詩節全てで繰り返される。)

Les Djinns

Murs, ville,
Et port,
Asile
De mort,
Mer grise
Où brise
La brise,
Tout dort.

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アンドレ・ブルトンとシュルレアリスム André Breton et le surréalisme 1/3

シュルレアリスムは、1914年に勃発した第一次世界大戦の時代、ヨーロッパ文明が危機的状況を迎えた時期に、若者たちが芸術の分野で開始した革命的な運動だといえる。
その運動の中心に位置し、シュルレアリスムを主導したのがアンドレ・ブルトンだった。

1924年に出版した『シュルレアリスム宣言』の中で、ブルトンは自分たちの芸術運動を次のように定義した。

シュルレアリスム。男性名詞。精神の純粋な自動作用。その作用によって、話し言葉や文字あるいはそれ以外の全く異なる方法を通して、思考の現実的機能を表現することを目指す。それは思考の口述筆記であり、理性によって行使されるいかなるコントロールもなく実践され、美学的あるいは道徳的ないかなる配慮もしない。

「自動」という意味は、人間が意識的に行うのではなく、ひとりでに行われることを意味する。「理性によって行使されるいかなるコントロールもない」という言葉は、考える内容が検閲によって削除されることなく、そのまま表現されることを強調している。

この定義の最後に、美学的な考慮も道徳的な配慮もないということが付け加えられている。しかし、それ以上に、表現されたものが理解されるかどうかということさえ、考えられているようには思えない。
実際、シュルレアリスムの作品は何が描かれているのか分からないことが多い。例えば、マックス・エルネストの「沈黙の目」を前にして、私たちは何を理解したらいいのだろう。

同じ困惑は、アンドレ・ブルトンの詩や散文作品においても湧き上がってくる。それらには一貫性がなく、要約することはほぼできない。
代表作である『ナジャ』や『狂気の愛』においても、シュルレアリスム論につながる記述、ドキュメンタリーを思わせる都市の中での散策、偶然出会った神秘的な女性との恋愛の顛末、「痙攣的な美」に関する言及、描写の代用となる写真や絵などが組み合わされ、混沌とした印象を与える。

そうしたシュルレアリスムについて、アンドレ・ブルトンを中心にアプローチしていこう。

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やる気はあるけれど、最初の一歩を踏み出せない

どんなことに対しても真面目で、やらないといけないことがあれば前向きに取り組もうと思っているのだが、気持ちだけが空回りして、いざ実行しようとすると、最初の一歩が踏み出せないタイプの人がいる。

そうした人は根が真面目なだけに、結果が出せないことに失望し、自分を責めることも多く、自己肯定感が低い。対人関係でも、どこか自信がなさげて、なんとなくおどおどした様子をしている。
その傾向がさらに強まると、攻撃性を自分自身に向け、物理的に自分を傷つけないまでも、精神的に自分を傷つけることはよくある。
そうした人たちの自己認識は、プライドが低く、自分のことがあまり好きではない、ということが多い。

ところが、彼ら、彼女たちと接していると、外見とは違い、プライドが高く、自己愛が強いと感じることがある。

そのズレを出発点として、やる気はあるのに一歩が踏み出せないという状態について考えてみたい。

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トラウマ 人はなぜ思い出したくないことを思い出すのか?

トラウマという言葉を使うと心理学的な外傷体験を考えることになるが、外傷とまでいわなくても、思い出したくないことがふと頭に浮かんできて、嫌な思いをすることは誰にでもある。

なぜ不快な思い出が甦るのだろうか。しかも、1度だけではなく、何度も何度も反復して甦る。時にはその思い出に心が掻き乱され、他のことが考えられなくなったり、夜眠れなくなることがあるかもしれない。

その原因を知りたくて、ジークムント・フロイトの精神分析理論を調べたりしたのだが、快楽原則、現実原則、抑圧、反復脅迫、死の欲動など理解しないといけない概念設定が多く、しかも、納得できる部分とそうでない部分がある。
そこで、自分なりに、「なぜ嫌な思い出が蘇ってくるのか」という問題を、なるべく簡潔に考えてみることにした。

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関係代名詞の罠 — 英語と日本語の語順

英語を勉強する時、日本人にとって一番大きな落とし穴になるのは関係代名詞だろう。

普通に考えれば、言葉は前から聞こえてきて、その語順で理解していく。読む時も同じ。
それなのに、英語の参考書には、、「関係代名詞を含んだ英文を正しい日本語にするには、後ろから戻り訳さなければならない」と書いてあったりする。
« I know the man who is standing under the tree. »を、「私はその木の下に立っている男を知っている。」と訳すことに誰も疑問を持たないし、こうした日本語に訳すことによって英文を理解しようとする。
教室では、英文を理解したことを確認する手段として使われる。

その結果、英語を読むときに、文章の後ろまで読み、前に戻る、などといった読み方をする癖が付いてしまう。
会話の時、言葉は前から順番に流れていくのであり、言葉が逆流することなどありえない。日本人にとって、聞き取りが苦手な理由の一つも、こうしたところに原因があるかもしれない。

そうした問題を頭に置きながら、関係代名詞について考えていこう。

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英語の進行形って何?

英語だけ勉強していると気付かないのだが、他の言語を勉強していると、進行形が英語特有の動詞の表現方法であるを知り、驚いてしまう。少なくとも、フランス語などヨーロッパ系の言語には進行形という形は存在しない。

だからこそ、英語の進行形とは何なのか知りたくなってくるのだが、少し調べただけで、解説があまりにも複雑で、何が何だかわからなくなりそうになる。現在進行形は何となくわかるとしても、現在完了進行形って何だろう? それが未来完了進行形とか過去完了進行形とかになり、その細かな用法やニュアンスが説明されると、ますます混乱してしまう。

そこで、原点に戻って考えてみることにした。
いわゆる進行形と呼ばれるのは、be+動詞のing形

動詞のing形には、現在分詞と動名詞という二つの用法がある。

動名詞というのは、動詞を名詞的に使う用法。
例えば、« He is good at playing tennis. »
前置詞 at の後ろは名詞が来るため、動詞playにingを付けて名詞として扱う。

進行形の場合には、be+現在分詞
現在分詞は過去分詞と対比され、現在分詞は動詞を能動的な意味、過去分詞は受動的な意味にする。
opening (開く): opened(開かれた)
そして、be+現在分詞(ing)は進行形になり、be+過去分詞(ed)は受動態になる。

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愚か者だけが、確信し、決めてかかる(モンテーニュ)

自分が当たり前だと思っていることについて質問され、時に意表を突かれることがある。最近そうしたことが重なり、ふと、「愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。」というモンテーニュの言葉を思い出した。
(参照:モンテーニュ 子供の教育について Montaigne De l’Institution des enfants 判断力を養う


一つ目は、フランス語の鼻母音のリエゾンに関する質問。

« Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir ! » (Baudelaire, « Harmonie du soir »)

不定冠詞のunは鼻母音で、発音記号で書けば、[ œ̃ ]になり、[ n ]の音はしない。しかし、ここでは後ろに続く単語 ostensoir が母音 [ o ]で始まるために、[ œ̃ no ]と[ n ]の音がする。カタナカで書いてしまうと「ノスタンソワール」。

この詩句を読んでいる時、「鼻母音でNの音はしないはずなのに、なぜ次にNの音でリエゾンするのか?」と問われ、その場で立ち往生してしまい、答えることができなかった。
自分では習慣的に [ no ]と読み、疑問に思ったことがなかったので、不意打ちを食らったという感じだった。

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英語の時制の基本的な概念をマスターする — 日本語の時間表現との違い

英語の勉強を始めた頃、過去と現在完了の違いがよくわからなかったし、過去完了はなんとなくわかるけれど、未来完了はうまく理解できなかった。
その時、なぜだろうと考えることはなく、過去と現在完了の使い方は一緒に使う副詞で区別するとか、未来完了は難しいとか思ったりしただけだった。

しかし、今になってみれば、その原因が英語と日本語の時間表現に関する根本的な違いにあることがわかる。
では、その根本的な違いとは何か? 

日本語では、現在は「る、ます」で、過去は「た、ました」で表現すると言われる。
では、未来はどうだろう。外国人に日本語を教える教科書には、日本語に未来形はないと書かれている。実際、« I’ll go tomorrow.»という未来形の英文を日本語に訳そうとすると、「明日行くだろう。明日行きます。」くらいになる。「行くだろう」は推測、「行きます」は意志の表明であり、未来を示すわけではない。

同じ教科書で、「ます」は非過去、「ました」は過去と説明されている。しかし、「た」は本当に過去だろうか?
「この本を読み終わっら、そっちに行くよ。」この場合、「た」は過去ではなく、時間としては未来に置かれる。とすると、「た」に関する認識にも問題がありそうだ。

このような例を見ると、日本人は母語として日本語を使いこなしているのだが、日本語についての理解は怪しいということがわかってくる。
そして、日本語の時間表現についてよくわかっていないために、英語の時間表現を学ぶ際に、どのようなことに注意をしないといけないのかもはっきりとしない。その結果、ただ規則を覚えようとして、はっきり理解しないままになってしまっているのではないか。

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