愚か者だけが、確信し、決めてかかる(モンテーニュ)

自分が当たり前だと思っていることについて質問され、時に意表を突かれることがある。最近そうしたことが重なり、ふと、「愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。」というモンテーニュの言葉を思い出した。
(参照:モンテーニュ 子供の教育について Montaigne De l’Institution des enfants 判断力を養う


一つ目は、フランス語の鼻母音のリエゾンに関する質問。

« Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir ! » (Baudelaire, « Harmonie du soir »)

不定冠詞のunは鼻母音で、発音記号で書けば、[ œ̃ ]になり、[ n ]の音はしない。しかし、ここでは後ろに続く単語 ostensoir が母音 [ o ]で始まるために、[ œ̃ no ]と[ n ]の音がする。カタナカで書いてしまうと「ノスタンソワール」。

この詩句を読んでいる時、「鼻母音でNの音はしないはずなのに、なぜ次にNの音でリエゾンするのか?」と問われ、その場で立ち往生してしまい、答えることができなかった。
自分では習慣的に [ no ]と読み、疑問に思ったことがなかったので、不意打ちを食らったという感じだった。

その後、色々と調べてみたのだが、なかなか答えが見つからない。実は今でもこれといった回答ができるわけではない。

そうしているうちに、次のことに思い当たった。ボードレールの有名な詩の題名 « Parfum exotique »でも、umは鼻母音[ œ̃ ]で、次に母音[ e ]が続く。しかし、こちらはリエゾンせず、[ œ̃ e ]と発音される。つまり、[ m ]の音はせず、カタナカで書くと、「エクゾチック」。

現在もその理由をはっきりと説明することは私にはできないままでいる。しかし、質問されたことによって、今まで普通に行い、何も考えないでいたことを、考え直すきっかけになった。
確信し決めてかかっていた愚かな自分がつまずくことで、疑うことの大切さを再確認した。そんな気持ちになったのだった。


しかし、次の質問を受けた時、愚かな自分がすぐに変わるわけではないことを思い知ることになった。

パスカルの有名な言葉 « Le moi est haïssable. »(「私」という存在は憎むべきもの。)を説明している時、moiの前に定冠詞 le があるのはなぜかと質問された。

その質問は、「moiは代名詞 je の強制形なのだから、代名詞のはず。としたら、代名詞になぜ冠詞が付くのか?」というごく自然なものだった。

それに対して私は、パスカルの言葉にあまりにも馴染みすぎていたために、不意打ちを食らったような感じで、「なぜ?」に適切に答えることができなかった。その時もやはり、確信し決めてかかる愚かな私だったのだ。

私が考えていたのは、« Le silence éternel de ces espaces infinies m’effraie. »(この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる。)という言葉を紹介し、無限の彼方にいる神の存在を絶対的なものと考え、その絶対的存在と比較して人間という存在の弱さを自覚することを促すパスカルの思想を解説することだった。(この言葉に関する読解には様々なものがあり、これは私が考える解釈にすぎない。)
そうした思考の流れがあり、ごく自然で素直な文法的な質問に対して、「冠詞を付けなければ代名詞のままになってしまうので、冠詞を付ける。」といった適当な回答をしてしまったのだった。

その時、moiは代名詞だけではなく、性数不変の名詞でもあるという説明をしていれば、質問に対する誠実な答えをすることができていた。
しかも、パルカルの意図をよりよく説明することもできた。
パスカルは、« je suis haïssable »の jeを強制形にし、moiを使ったわけではない。もしそうだとしたら、「私は憎むべきもの。」という意図で発せされたことになってしまう。そうではなく、le moiという名詞を使うことで、一人一人の人間の「私という存在」が憎むべきものだという意味が明白になる。

そのように説明することで、日本語ではしばしば「〈私〉とは憎むべきものだ。」と訳される言葉を、フランス語で読む意義も明らかにすることができたはずだった。

そうした機会があったにもかかわらず、確信し決めてかかる愚か者であったために、質問に対して適切に対処できなかったのだった。


愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。

たとえ愚か者から完全に脱却できないとしても、この言葉を心のどこかに留めておきたい。

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