ジャズの楽しさ 上原ひとみ Hitomi

ジャズはインプロヴィゼーション(即興)の音楽で、楽譜があったとしても、その時その場の雰囲気の中でインスピレーションが湧きだし、自由な演奏が繰り出される。

ジャズ・ピアニスト上原ひとみが、そんなジャズの本質を見せている場面がyoutubeにアップされている。
すでに1度紹介したことがあるのだが、少し別の映像を付け加えて、もう1度紹介したい。(ジャズの楽しさ インプロヴィゼーションとリズム感

彼女は最初の演奏にあまり満足できなかったらしく、同じ曲をもう1度弾き直す。そんな時、彼女の身体の中から音楽が流れ出している、といった感じがする。
その後、今まで一度も弾いたことがない曲「マイ・ウエイ」をたどたどしく弾き始めるのだが、途中から見事なインスピレーションへと進んでいく。

それからもう一つ。上原ひとみがピアノを弾く時はいつでも楽しそうだ。本当に心の底から演奏を楽しんでいる様子が感じられる。
ジャズの楽しさはこれだ! 彼女の演奏を聴いて思わずそう言いたくなる。

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アンヌ・シラ 今フランスで一番歌声が美しい歌手 Anne Sila  La plus belle voix de la France d’aujourd’hui

個人的に今のフランスで一番歌声が美しいと思える歌手はアンヌ・シラ(Anne Sila)。
フランスではよく知られているが、日本ではまったくといっていいほど無名なので、彼女の歌を少し紹介してみたい。

 S’il suffisait d’aimer

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他人に厳しく自分に甘い ラフォンテーヌの寓話 振り分け頭陀袋  La Fontaine La Besace

La Besaceとは、肩の前後に振り分けてかつぐ頭陀袋のこと。そのLa Besaceという題名を持つラ・フォンテーヌの寓話は、イソップの「ジュピターの二つの袋」の原典としている。そのおおまかな内容は以下のようなもの。

ジュピターが人間を造った時、二つの袋を担がせた。肩の前に掛かった袋には隣人の欠点が、後ろに掛かった袋には自分の欠点が入っている。そのために、他人の欠点はすぐに目に入るが、自分の欠点はなかなか見えない。

「他人に厳しく自分に甘い」といった意味の諺は日本にもある。例えば、「灯台下暗し」、「人の一寸(すん) 我が一尺(しゃく)」、「目はその睫(まつげ)を見る能(あた)わず」、など。

では、そうした教訓を核とする小話を、ラ・フォンテーヌはどのような寓話として語ったのだろうか。

Jupiter dit un jour : “Que tout ce qui respire
S’en vienne comparaître aux pieds de ma grandeur :
Si dans son composé quelqu’un trouve à redire,
Il peut le déclarer sans peur ;
Je mettrai remède à la chose.

ジュピターがある日こう言った。「息するもの全ては
偉大なわしの足下に出頭すること。
誰か自分の身体の作りに不平があるのであれば、
    恐れることなく申告するがよい。
    わしがそれを直してやろう。」

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高畑勲 「火垂るの墓」 とてもいい映画だけれど、見返すのが辛い

映画をはじめとする芸術を紹介している雑誌Téléramaの2024年10月24日の項目に、«Dix (très) bons films qu’on n’a pas du tout envie de revoir» という記事があり、その最初に高畑勲監督の「火垂るの墓」が紹介されている。
https://www.telerama.fr/cinema/dix-tres-bons-films-qu-on-n-a-pas-du-tout-envie-de-revoir-7022732.php

「火垂るの墓」を見たことがあれば、思わずうなずくことだろう。(Si vous avez déjà vu Le Tombeau des lucioles, vous ne pourrez qu’acquiescer.)


Dix (très) bons films qu’on n’a pas du tout envie de revoir

Ils ont beau être d’une grande qualité, impossible de les regarder de nouveau. Trop de larmes, trop d’angoisse, trop de violence… Voici nos (bonnes) raisons de résister à une seconde séance.

“Le Tombeau des lucioles”, d’Isao Takahata (1988)

Un dessin animé tragique, c’est surprenant. En inaugurant le genre, Le Tombeau des lucioles devrait faire date », écrivait Bernard Génin à la sortie du film en France, en 1996. L’ex-spécialiste du cinéma d’animation à Télérama avait vu juste : le chef-d’œuvre d’Isao Takahata a tellement « fait date » qu’on n’a rien oublié de son réalisme quasi documentaire sur le Japon en ruine de 1945, ni de sa poésie déchirante. Et qu’on n’a jamais pu le revoir depuis, tant les malheurs de Sato, l’adolescent orphelin, et de sa petite sœur, Setsuko, nous ont laissés inconsolables. — S.D.(Samuel Douhaire)

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二種類の自己愛 ルソー 『エミール』 Jean-Jacques Rousseau Émile Livre IV “amour de soi” et “amour-propre”

人間は一人で生きることはできない。よほど例外的なことがなければ、必ずなんらかの集団の中で生きる。
そして、人とのかかわりの中で、自分らしい生き方をしたいという気持ちと同時に、自分のしたいことだけしていたら人からどのように見られているのだろうといったことも気にかかる。
自己認識は決して他者と無関係でいられない。

自己愛に関する考察も、他人とのかかわりの中で自分がどのように振る舞うべきか、という問題につながる。
17世紀のフランスでは、人間の本質は理性にあると考えられた時代であり、複雑な人間関係が織りなされた社会の中で、理性によって感情をコントロールすることが求められた。その際、自己愛は感情の基底をなすものであるからこそ、最も用心すべきものとして考察の対象となった。

それに対して、18世紀後半になると、人間の本質は理性から感情へと位置を移動させられる。考えることよりも感じることが、人間の根底にあると見なされるようになったのだった。
その移行を最も明確に言葉にしたのが、ジャン・ジャック・ルソー。
ルソーは、自己愛に関して、amour de soiとamour propreという二つの言葉の言葉を使い、それらを対照的なものとして定義した。

例えば、『人間不平等起源論』では、二つの自己愛を明確に対立させている。

Il ne faut pas confondre l’amour-propre et l’amour de soi-même, deux passions très différentes par leur nature et par leurs effets.
L’amour de soi-même est un sentiment naturel qui porte tout animal à veiller à sa propre conservation, et qui, dirigé dans l’homme par la raison et modifié par la pitié, produit l’humanité et la vertu.
L’amour-propre n’est qu’un sentiment relatif, factice, et né dans la société, qui porte chaque individu à faire plus de cas de soi que de tout autre, qui inspire aux hommes tous les maux qu’ils se font mutuellement, et qui est la véritable source de l’honneur.

Jean-Jacques Rousseau, Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes

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自己愛 ラ・ロシュフコー 箴言 La Rochefoucauld  Maxime 2/2

(5)自己愛の捉えがたさ

Il est tous les contraires : il est impérieux et obéissant, sincère et dissimulé, miséricordieux et cruel, timide et audacieux. Il a de différentes inclinations selon la diversité des tempéraments qui le tournent, et le dévouent tantôt à la gloire, tantôt aux richesses, et tantôt aux plaisirs ; il en change selon le changement de nos âges, de nos fortunes et de nos expériences, mais il lui est indifférent d’en avoir plusieurs ou de n’en avoir qu’une, parce qu’il se partage en plusieurs et se ramasse en une quand il le faut, et comme il lui plaît. 

自己愛は、対立するもの全てである。高圧的であり、従順。誠実であり、感情を偽る。慈悲深く、残酷。内気であり、大胆。自己愛は、多様な気質に従って、異なる傾向を持つ。それらの気質が自己愛を方向付け、自己愛をある時には栄光に、別の時には財産に、さらに別の時には快楽に捧げる。自己愛は、私たちの年齢、富、経験に応じて、向かう先を変化させる。しかし、複数の傾向を持とうと、一つだけの傾向だろうと、そうしたことには無関心だ。なぜなら、必要な時に、好きなように、複数に分かれたり、一つに集まったりするからだ。

もし自己愛が明確な形をしていれば、私たちはすぐにそれとわかる。しかし、自己愛は変幻自在に姿を変え、しかも、正反対の感情を通して現れることがある。
それが、tous les contraires(全ての対立するもの)の意味することだ。

différentes(異なる)、diversité(多様性)という言葉も、自己愛の変幻自在さを示す。
人々の多様なtempéraments(気質)に応じて、自己愛のinclinations(傾向)も様々に変化する。そのために、ある時の自己愛はla gloire(栄光)に向かい、別の時はles richesses(財産)やles plaisirs(快楽)に向かったりする。

nos âges(私たちの年齢)、nos fortunes(富み)、nos expériences(人生経験)の違いによっても、自己愛の向かう先は変化する。
しかし、それらが複数だろうと、一つだろうと、自己愛にとってはどうでもいい。なぜなら、全ては自己愛の思いのままなのだから。

要するに、私たちが何を望み、どんなことを行うにしても、どこかに自己愛が潜んでいる。例えば、相手に対してimpérieux(高圧的)な態度を取る場合も、相手にobéissant(従順)な時も、どちらにしても、相手を通して自分を愛するという自己愛に源を発していると、ラ・ロシュフコーは考える。

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Video Art of Kei Kanamori(金森慧)

The organization that hosts the Academy Awards in the United States selects the “Student Academy Awards” every year, and this year, Kei Kanamori’s Origani was chosen for the Silver Award. It is an outstanding film that skillfully uses origami to evoke a sense of Japanese beauty, making you lose track of time while watching it.

アメリカのアカデミー賞を主催する団体が「学生アカデミー賞」を毎年選出していて、金森慧(Kanamori Kei)の「Origani」が今年度の銀賞に選ばれた。
折り紙を巧みに使い、日本的な美を感じさせる素晴らしい映像作品になっていて、時間を忘れて見入ってしまう。

(Attention : Please click “Read more (続きを読む)” located below the video . Without doing so, you cannot view the YouTube video.
注意:「続きを読む」をクリックしてページを開かないと、youtubeビデオを見ることができない可能性があります。)

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自己愛 ラ・ロシュフコー 箴言 La Rochefoucauld Maxime 1/2

17世紀フランスの宮廷では外見が全てだった。
そのことは、ルイ14世の時代に活躍したシャルル・ペローが語る「長靴をはいた猫」を思い出すとすぐに推測がつく。
主人公は貧しい粉屋の息子だが、猫の知恵によって貴族の服を手にいれ、それを着ることで、王女と結婚することが可能になる。
宮廷社会では、服という外見が身分の保証となった。

そうした外見の文化を生き抜いていくためには、外見の裏に隠された内心を読み取ることが必要になる。
ラ・ロシュフコーは1665年に上梓した『箴言集(Maximes)』のエピグラフとして、「我々の美徳は、大部分の場合、偽装された悪徳である。」という一文を掲げた。
そして、美徳と見える振る舞いを促す原動力として、自己愛(l’amour-propre)を置いた。

次のような箴言は、私たちの心にもすっと入ってくる。
「自己愛は、この上もなく巧みに人をおだてる。」(L’amour-propre est le plus grand de tous les flatteurs.)
「私たちの自己愛にとって耐えられないのは、意見を否定されることよりも、趣味を否定されることだ。」(Notre amour-propre souffre plus impatiemment de la condamnation de nos goûts que de nos opinions.)
こうした箴言は現代のキャッチコピーと似たところがあり、何も考えなくてもすっと理解でき、時には誰かに伝えたくなる。とても魅力的な言葉だ。

ただし、時間をかけて考えた上で納得するではなく、反射的に好き嫌い、納得するしないが決まる。そのために、前提となる思考が見えてこないという問題がある。

ここでは、1659年に発表された比較的長い考察を取り上げ、ラ・ロシュフコーが自己愛についてどのように語っていたのかを、少し時間をかけて読み、考えていきたい。

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自己愛の罠 パスカル パンセ Pascal Pensées

« Le moi est haïssable. » (私という存在は憎むべきものだ)というパスカルの考えは、現代の日本では否定される傾向にある。
子供たちだけではなく、大人に対しても、自分を否定的に捉えず、自己肯定感を保ち、前向きに生きることが推奨されている。
自分を愛すること、自己愛は、自分を支える柱であり、自己否定していては楽しくないし、生きていけなくなってしまう。
そうした考えが、現代社会の主流になっている。

そうした中で、La Misère de l’homme sans Dieu(神なき人間の悲惨)などと言い、人間という存在の卑小さを前提とした17世紀フランスの思想を読む価値などあるのだろうか?

そんな疑問に答えるために、パルカルの『パンセ(Pensées)』の中に収められている、自己愛(amour-propre)に関する一節を取り上げてみよう。

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自分の顔はどんな顔?

「最近、自分の顔が自分だと思えない時があるけれど、なぜ?」という質問を受けた。確かに、鏡に映った顔を見ながら、自分がこんな顔をしていたのかなあ、などと思うことがある。
そこで、自分で自分を認識するとはどういうことか、少しだけ考えてみた。

私たちは五感を使って外の世界を感じている。それらの感覚の中で、触覚、味覚、臭覚では、自分を感じ取ることはできない。
手で自分を触った時、触られていることは感じる。自分で自分を触っていることは分かる。しかし、手の感触だけで、自分自身を触っているのか、他の人を触っているのかは分からない。
自分を舐めたときの味も、自分の匂いも、他の人とはっきりと区別はつかない。

ということは、自分を自分だと感じ取る感覚は、聴覚と視覚ということになる。
そして、この二つで感じ方に差があることに、私たちは気付いている。
自分の声の録音を聞く時、なんとく違和感を感じる。自分の声ではないような感じがする。
鏡に映った自分や、写真の中の自分を見る時、多くの場合、それが自分だと分かる。声と同じような違和感を感じることは少ない。
その違いはどこから来るのだろう?

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