
日本のことを少しだけでも勉強しようと思った時、自分がほとんど何も知らないことに気付かされた。
知っていることといったら、学校で習った何人かの人物の名前やいくつかの出来事くらい。例えば、「1192(いい国) つくろう 鎌倉幕府」といった感じ。
最近の学説によれば、源頼朝が全国に守護・地頭を置き、実質的な支配を開始したのは1185年なので、「1185(いい箱)つくろう 鎌倉幕府」と言われるようになったらしい。
しかし、鎌倉時代が日本の文化においてどのような意味を持ったのかといったことに関しては、あいかわらずわからないままだ。
歴史に関するもう一つの傾向は、小説や芝居などで取り上げられたヒーローの個人的な物語を通して、自分たちの生き方の参考にするといったもの。
例えば、ある時期、坂本龍馬に脚光があたり、「死ぬ時はたとえどぶの中でも前向きにたおれて死ぬ」といった言葉だけが一人歩きしたことがある。
その時、幕末について少し語られることはあったとしても、明治維新が現代の日本のあり方にどのような役割を果たしたのか、私はまったく知らないままでいた。
そのような状況の中で自分の無知を自覚するにつれ、過去の日本が現在の日本にどのような痕跡を留めているのか知りたくなり、少しずつ調べてみることにした。
旧石器時代
ホモ・サピエンスは約30万年前から20万年前にアフリカで誕生したというのが、現在の定説。
その後、5万年前以降にアフリカを出て、ヨーロッパ、アジア、シベリア、オセアニア、アメリカへと拡散していった。
日本列島にやって来たのは、4万年前から3万年前だと考えられている。

ホモ・サピエンスが日本に移入してきたルートには3つの可能性がある。
i. サハリンから北海道に至る「北海道ルート」:
4万~3万年前は氷河期であり、海抜が現在よりも80メートルほど低く、サハリンと北海道は大陸と地続きだった。そのために、陸路で渡ってきたと考えられる。
ii. 台湾から琉球列島を北上する「沖縄ルート」
iii. 朝鮮半島から対馬を経て北部九州へ至る「対馬ルート」
この二つのルートは海路であり、すでに航海技術が発達していたことがわかる。
この時代の遺跡は数が少なく、生活様式などについてはまだほとんど解明されていないというのが実情らしい。
縄文時代:前17000年頃(諸説あり)— 前1000年頃(諸説あり)

縄文人の祖先は、2万~1万5000年前に大陸から日本列島に渡来し、小集団を形成して暮らしていた。
ただし、縄文時代という時代区分は日本固有のもので、世界史的には新石器時代に分類される。

生活様式の特徴は以下のようなもの。
縄文土器
非定住狩猟採集社会
大型の磨製石斧、石槍、石鏃など、 新しい道具の出現
少し以前までの定説では、縄文人は弥生人に駆逐されたと言われることが多かった。
しかし、現在では、狩猟採集生活を送っていた縄文人の系統と、北東アジアに起源を持ち、日本列島に稲作文化をもたらした渡来人の系統が混ざり合った、という説が有力になっている。
さらに、古墳時代にも東アジアの集団が渡来し、縄文・弥生系統の人々と混ざり合い、現在の日本人の起源になったと主張され始めている。
弥生時代:前1000年頃(諸説あり) — 紀元後200年中頃

大陸から九州北部に水稲耕作がもたらされ、定住が始まり、社会生活に大きな変化がもたらされた。

弥生時代は、1884年(明治17年)に東京都の弥生町遺跡で発見された土器が「弥生式土器」と呼ばれたことから付けられた時代の名称。
A. 歴史的視点

歴史的には、弥生時代中期の紀元前150年頃から、中国の歴史書に、「倭(わ)」や「倭人(わじん)」といった記述が見られるようになった。

『後漢書』東夷伝には、紀元後57年、博多湾の沿岸にあったとされる倭奴国(わのなのくに)の首長が、後漢の光武帝から「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」という金印を送られたという記述が残されている。
B. 日本神話の起源
奈良時代(紀元8世紀)初期に編纂された『古事記』や『日本書紀』の中で語られる神話の中で、ヤマト朝廷の起源として設定された時代が、弥生時代だった。
この点は、日本の歴史を考える上で、非常に重要なポイントになる。

『日本書紀』には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に、三種の神器とともに、稲穂を授け、地上に降臨させたという記述がある。
ちなみに、現在の天皇制においても、皇位継承の印として三種の神器(鏡、剣、玉)が継承されている。

『古事記』でも『日本書紀』でも、初代天皇である神武天皇が、大和国・橿原宮(かしはらのみや)において即位した紀元前660年1月1日 (旧暦)を以て、日本が建国されたとしている。
その記述に基づき、旧暦の1月1日を新暦に換算した2月11日が、1873年(明治6年)から「紀元節」として祝われ、第二次世界大戦後に「建国記念の日」とされた。
古墳時代:200年中頃 – 600年頃

3世紀前半に奈良県の纏向(まきむく)遺跡に巨大な前方後円墳が造られて以降、巨大な古墳が造営されるようになり、古墳時代の始まりとされる。
その過程で、 首長である”大王”を中心としたヤマト王権が体制を整えていく。
A. 卑弥呼と邪馬台国

『魏志倭人伝』によれば、2世紀後半、倭国(わこく)では小国が互いに戦い、大いに乱れた(倭国大乱)。その後、3世紀前半、「倭国の女王」と称された卑弥呼(ひみこ)を擁立した連合国家が成立し、国が安定したという記述がある。
卑弥呼が治めた約30カ国からなるとされる倭国の都・邪馬台国(やまたいこく)に関しては、実在した痕跡が発見されていない。そのために、近畿地方にあったのか、北九州にあったのか、現在でも定説がない。
卑弥呼や邪馬台国について、『古事記』や『日本書紀』に全く記述がない点にも注目したい。
そのことは、卑弥呼が天皇系の系列に加えられず、邪馬台国がヤマト王権と直接的に関係付けられなかったことを示していると考えられる。
B. 考古学的視点
考古学的には、古墳群の発掘から、4世紀中頃までに、奈良盆地を中心とした豪族勢力がヤマト王権へと次第に成長し、畿内から北九州までの広い領域を統治するようになった考えられている。
その過程で、ヤマト王権と各地を支配する大小の部族勢力との間には、数多くの衝突が起こったに違いない。
C. 神話的視点

それらの戦いに関しては、『古事記』や『日本書紀』で語られる、日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲(くまそ)征討や東国征討といった神話的・英雄伝説的な物語に反映している、と考えることができる。
4世紀後半から5世紀前半にかけては、応神(おうじん)天皇の各地への行幸、仁徳(にんとく)天皇が宮居を難波(なにわ)に定めたといったエピソートなど、天皇の行為によって倭国が統一されていく過程として描かれるものもある。
(ただし、この時代にはまだ天皇という呼称は使われていなかったために、後の時代の創作という可能性も大きい。)
D. 仏教伝来

歴史的に最も注目すべきことは、仏教の伝来。
538年あるいは552年、百済(くだら)の聖王(せいおう)から、仏像や経典などがヤマト政権に贈られ、仏教が伝来したとされる。
その後、大王の仏教帰依について、物部守屋(排仏派)と蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化。最終的には、聖徳太子は蘇我氏側につき、587年に崇仏派が勝利した。
その結果、仏教は、古来の神々とともに、信仰の対象となった。
仏教は、その後の日本の精神文化だけではなく、仏像、仏画、建造物などの美術、政治や社会生活など、あらゆる方面に深い影響を及ぼすことになる。
また、漢字は仏教伝来以前にもすでに知られていたが、仏典などを読むことを通して、漢字が日本に定着する大きな役割を果たした。
飛鳥時代:592年 – 710年
ヤマト政権は、隋や唐の制度を取り入れながら、大王(天皇)と有力豪族を中心とする権力構造を作り上げていく。
A. 朝貢外交

ヤマト政権の政策は、中国大陸の技術や政治制度を積極的に学び、国家の形を整えることだった。
そのために、隋と、その後に続いた唐に、数多くの遣隋使、遣唐使を派遣した。

607年の派遣に関しては、聖徳太子の命を受けた小野妹子をはじめとする遣隋使が、隋の皇帝に、「日出(いず)る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。」などと記された国書を送ったことで知られている。
この「日出る処」という表現から、現在の英語やフランス語で使われることがある、Land of the Rising Sun, Pays du Soleil Levantといった表現が生まれた。
他方、国の名称に関していえば、当時のヤマト政権は、中国の歴史書に倣い、「倭(わ)」と自称していた。
「日本」という名称が初めて使われたのは、702年からだとされている。
『続日本紀』には、702年の遣唐使が、唐側の用いた「大倭国」という国号を退け、「日本国」を主張したと記されている。
B. 政治制度
i. 聖徳太子の改革
600年代の初期、聖徳太子の下で、冠位十二階(603年)や十七条憲法(604年)が制定され、大王・王族中心の国家体制の基礎が築かれた。
十七条憲法の第1条「和を以て貴しと為す(わをもってたっとしとなす)」や、第2条「篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬(うやま)へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。」という言葉で表現される精神性は、現代の日本の心性の根底にも横たわり続けている。
ii. 律令制度
645年に始まる”大化の改新”から701年に制定される”大宝律令”までの期間に、唐の制度に倣った律令制度が導入され、中央政府(朝廷)が豪族たちの支配する諸地域を直接統治する官僚制度が確立していった。

とりわけ、大化の改新で中心的な役割を果たした大海人皇子(おおあまのみこ)は、後に天武(てんむ)天皇(在位:673年- 686年)として即位し、律令制の改革を推進し、中央集権体制を強固なものにした。
歴史上初めて「天皇」と称したのは、天武天皇だったと言われることが多い。
大宝律令は制度改革がほぼ整ったことが証となる。
大宝律令の制定によって、天皇を中心とし、官僚機構に基づく、中央集権体制が確立したといえる。
他方で、唐とヤマト政権における律令制度との違いに注目すると、日本的な精神性の一面が見えてくる。
唐では、どの身分の人間でも、科挙の試験に合格することで、官僚として採用された。
ヤマト王権の律令制度では、氏族制が併用され、朝廷で高い身分を持つ一族や地方豪族などが特権的な地位に付くことが可能な制度だった。
律令制度であったとしても、個人の能力ではなく、血統が有利に働く家族主義的な制度は、現在の日本でも、例えば政治家の世襲などといった形で継続している部分がある。
C. 朝鮮半島との関係

古墳時代以来、奴国(なこく)の豪族たちは朝鮮半島と密接な関係にあり、百済(くだら)との良好な関係も続いていた。
6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島では、百済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)の三国が抗争を激しくする中、618年に中国を統一した唐が朝鮮半島に進出。
663年、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ:現在の錦江河口付近)で、唐・新羅連合軍と、1度は滅ぼされた百済との間で戦いが勃発する。

この”白村江の戦い”において、倭国は百済への救援を選択するのだが、敗北に終わる。
その結果、倭国内部の危機感が高まり、唐との友好関係の回復が模索され、律令国家体制の確立に向けた動きが加速した。
D. 仏教美術
仏教は日本の美術に大きな変化をもたらした。
その中心となるのは仏教寺院と仏像。渡来人によって制作されたものだと考えられるが、日本の美的感覚の基礎を形作るものであり、現在でも高く評価されている。
その代表は、法隆寺。
聖徳太子ゆかりの寺院であり、607年に建立された。



創建時に収められた薬師如来像、その後に収められた釈迦三尊像、百済観音像なども、飛鳥時代の美意識を今に伝える貴重な文化遺産となっている。



E. 和歌
「万葉集」は奈良時代末期に成立する和歌集だが、実質的に制作された時期は、舒明天皇(629年即位)の治世から奈良時代の759年に至る、約130年の間だと考えられている。
その中でも、645年の大化の改新の時代は、和歌の成立にとっても、大きな改革の時代だった。
その時代には文字の使用が普及し始め、それまでは口伝えで伝承されてきた歌が、万葉仮名と呼ばれる文字で書かれるようになった。
それとともに、都と各地の国府の交通網が整備され、朝廷と地方の間で歌が流通するようになった。万葉集に宮廷人の歌だけではなく、地方の庶民の歌が数多く収録されているのは、文字使用の効果に他ならない。
ここでは飛鳥時代を代表する歌人として、額田王(ぬかたのおおきみ)と柿本 人麻呂(かきのもとのひとまろ)を取り上げてみよう。

額田王と大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)と間に交わされた贈答歌は、”秘められた恋”をテーマとして歌われたもの。
額田王:
茜(あかね)指す 紫野(むらさきのの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
(茜色の光に満ちている紫の野、天智天皇の御領地を示す標識の立てられた野で、番人が見ているかもしれません、あなたがお袖を振ってらっしゃるお姿を。)
大海人皇子:
紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも
(紫のように美しいあなた。あなたのことを憎く思うのなら、どうして人妻のあなたをこんなにも想うことがあるでしょうか。)
今は天智天皇の後宮に入っている額田王だが、かつては天智天皇の弟である大海人皇子と結ばれていた。その二人が、天皇の目を忍んで歌でやり取りする、といった風に作られている。
しかし、宮廷人たちが薬草の採集をした後の宴会で、余興として詠まれた歌だったことを考えると、実際の恋愛感情というよりも、”秘められた恋”を歌うことで宴会を盛り上げる役割を果たしたのだと考えられる。

柿本人麻呂の「淡海(あふみ)の海」は、近江の海(琵琶湖)の自然の情景に託して過去を偲ぶ心情を詠う。
淡海の海(み) 夕波(ゆうなみ)千鳥(ちどり) 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
(近江の海(琵琶湖)の夕方、波の上を飛ぶ千鳥たちよ、お前が鳴くと 私の心はしんみりとし、ここに都があった昔のことが自然に思い出される。)
「近江の海、夕波千鳥」という最初の部分では、夕焼け空の下、琵琶湖のほとりに波が立ち、その上空を飛ぶ千鳥が鳴いている、といった映像が描き出される。
そして、千鳥に向かい「お前」と呼びかけることで、人麻呂自身の心の内をその情景に投影する。千鳥は昔のままに鳴いているけれども、かつてここにあった都はもうすでにない。
その対比によって、失われた愛しいものをしみじみと思う気持ちが表現されている。
このように見ると、日本の和歌の中心的なテーマとなる恋と自然が、7世紀に詠われた和歌の中にすでに成立していることが理解できる。