飛鳥・藤原の宮都 日本国誕生の舞台  世界文化遺産登録に寄せて

2026年6月、ユネスコの諮問機関が「飛鳥・藤原の宮都」の世界文化遺産への登録を勧告したというニュースが流れた。対象となるのは飛鳥時代の宮殿や仏教寺院の遺構、墳墓などで、「文化的伝統や文明を伝承する物証として無二、あるいは少なくとも稀有な存在」との評価を受けたという。

世界遺産への登録を推進する側からは、以下のような趣旨が発表されている。

『飛鳥・藤原』−この言葉から多くの方が連想されるのは「日本の心のふるさと」です。これは、この地で東アジアとの政治的・文化的交流によって中央集権体制に基づいた宮都が誕生し、日本国誕生の舞台となったから、そして、その歴史の舞台が、1300年以上も経た現在も、田園景観の中に良好に伝えられてきたからです。
https://asuka-fujiwara.jp/asuka-fujiwara/

こうした言葉を読むと、なんとなく納得するところもあるのだが、具体的に掘り下げてみると、例えば「日本国誕生の舞台」という言葉が本当は何を意味しているのか、はっきりとわからなかったりする。

それに、そもそも飛鳥時代とはいつ頃のことで、その前はどの時代だったのか、あるいは藤原京がいつ・どこに存在したのか、すぐに答えられる人はそれほど多くないのではないだろうか。

しかし、少し調べてみると、現在の日本の骨格が飛鳥時代に出来上がったことが見えてくる。この時代を知ることは、まさに「今」を理解することにつながっているのだ。

これから少しだけ、飛鳥時代へとワープしてみよう。

続きを読む

「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 3/3 

雄略朝と舒明朝の二重化作業

雄略天皇に象徴される古代の王権と、舒明・斉明天皇の御代との重ね合わせは、『万葉集』に収録された一つの和歌の存在によって、当時の人々に強く意識されていたことが示唆される。

『万葉集』巻九は、「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天の下知らしめしし大泊瀬幼武(おおはつせのわかたける)天皇の御製歌一首」(9-1664)として、雄略天皇の歌を冒頭に掲げて始められている。

この歌では、今夜は鹿が鳴かず、眠っていると詠まれている。一般に、鳴く鹿は愛する人を求める心を象徴するものと考えられるため、鳴かない鹿が静かに眠る姿は、愛がすでに満たされている状態を示すと解釈できる。したがって、ここに描かれる雄略天皇は、武勇に秀でた君主としてではなく、愛を詠う歌人としての姿で捉えられていることになる。

続きを読む

「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 2/3 

(3)大泊瀬稚武天皇と雄略天皇

「籠もよ み籠持ち」の長歌には、「雜歌/泊瀬朝倉宮 御宇 天皇代〔大泊瀬稚武天皇〕/天皇御製歌」という題詞が付けられている。

御宇(ぎょう)の「御(ご)」は尊敬を表す接頭語であり、「宇(う)」は本来「覆うもの」を意味する語で、そこから転じて「天下を覆い治める」、すなわち「統治する」という意味を持つようになった。したがって、御宇(ぎょう)とはここでは、天皇が天下を治めることを意味し、この長歌が大泊瀬稚武天皇の御代の歌として位置づけられていることを示している。

その天皇名「大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)」のうち、「泊瀬」は、現在の奈良県桜井市周辺に比定される地名であると考えられている。これを前提とすれば、「大泊瀬稚武」という名は、「大泊瀬」と「稚武(わかたける)」という二つの要素に分けて理解することも可能であろう。その場合、この名称は、泊瀬を拠点とする稚武(わかたける)という人物像を示すものと解釈することができる。

ただし、「大」という語が具体的に何を意味するのかについては明確ではなく、宮殿の規模を直接示すものと断定することはできない。地名的修飾、尊称、あるいは他の王との区別を意図した表現である可能性も考慮する必要がある。

そして、「稚武(わかたける)」という名称は、その音形が「ワカタケル」であること、また「武」という漢字が用いられていることの両面において、五世紀に活動した人物との関係を強く想起させる。この点は、金石文資料に見える「ワカタケル大王」との比定が有力視されていることとも関わっており、記紀における大泊瀬稚武天皇像を考えるうえで重要な手がかりとなっている。

続きを読む

「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 1/3

日本の歴史を振り返る際、8世紀初頭に成立した『古事記』と『日本書紀』を欠かすことはできない。というのも、これらは現存する日本最古の文字史料だからである。さらに、同じ世紀の後半に成立した『万葉集』を含め、これらの文献は、「日本」という国家意識を最も直接的に反映した、きわめて貴重な資料であるといえる。

ちなみに、古代において日本列島の有力な部族集団を統合していた政治的主体は、中国王朝を頂点とする東アジア交流圏の中で、「倭」という名称で認識されていた。
その国号が「倭」から「日本」へと転換していくのは、7世紀後半、天武天皇が編纂を開始し、持統天皇が689年に施行したとされる「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を含む、天武・持統政権期の国家制度整備の過程においてであると考えられている。
また、国外においては、702年(大宝2年)の遣唐使が、唐側で用いられていた「大倭国」という国号を退け、「日本国」を称したことが、現存史料に確認できる最古の「日本」という国名の使用例であるとされている。

この国号の変更は、天武天皇が先代の天智天皇から平穏に皇位を継承したのではなく、天智天皇の第一皇子である大友皇子との間で、672年に「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれる内乱を戦い、激しい争いの末に皇位を獲得したという事情と、無関係ではない。

中国の史書が、それぞれの王朝の正当性を確立するという視点から編纂されるのと同様に、天武天皇が「国史」の編纂を命じたことを出発点として成立した『古事記』や『日本書紀』は、天武天皇に始まる王統を揺るぎないものとして位置づけることを、重要な目的としていたことは確かである。『万葉集』もまた、その思想的文脈の中に位置づけることができ、その精神が最も直接的に表現されている文献であるといっても過言ではない。

その精神は、『万葉集』に多く見られる「大君(おほきみ)は神にしませば(皇者神)」という表現によって、端的に示されている。すなわち、天皇は神としてこの世に現前する存在であり、いわゆる現人神(あらひとがみ)として捉えられているのである。

天武天皇や持統天皇たちは、自らの王統が神に連なる一族であることを、史書や和歌という形で記録させることによって、皇位継承の正当性と安定性を確保しようとしたのだと考えられる。

続きを読む

日本の歴史 超私的概観 (9) 幕末から明治へ  植民地化の危機を前にして 

江戸幕府は初期に開始した鎖国政策を継続していたが、19世紀に入ると、西欧諸国によるアジアへの植民地政策に対応を迫られるようになった。

一方では、圧倒的な軍事力を持つ欧米列強に対して断固たる拒否を貫き、攘夷、すなわち夷人(いじん)を攘(はら)い、外国勢力を排除しようとする主張があった。
もう一方では、妥協的な態度を取り、何らかの条約を結ぶという現実主義的な立場があった。
こうした対立が、最終的に江戸幕府を倒し、明治維新をもたらした一つの要因になる。

国内に目を向ければ、幕府および諸藩の財政は恒常的に逼迫しており、農民に対しては年貢を、商人に対しては上納金を過重に課すことで財源の確保を図った。
しかし、その結果として農民一揆が頻発し、都市部においても打ちこわし等の破壊的な民衆運動が勃発するなど、社会的混乱が継続的に生じていた。

このような情勢下において、薩摩藩や長州藩などの一部有力藩では、有能な下級武士を登用し、内部改革に着手することで藩政の再建を図った。
これにより、これらの藩は次第に政治的・軍事的な実力を蓄積し、幕府に対抗し得る勢力として台頭していくこととなる。

明治維新後、国家形成の主導的役割を担ったのは、こうした改革過程において頭角を現した若年層の下級武士たちであり、彼らは新政府の中枢を構成することとなった。

続きを読む

日本の歴史 超私的概観 (8) 江戸時代 後半 幕藩体制の揺らぎ 外国文化の足音

江戸時代の後半、幕藩体制の土台が揺らぎ始めると同時に、鎖国を続けていた日本にも、少しずつ外国文化の影響が入り込んでくるようになった。

幕藩体制について言えば、商業活動の活発化は、幕府や藩の経済だけでなく、武士たちの社会的な立場をも危うくすることとなった。
江戸時代前半には幕府が藩を支配する封建体制が確立し、武士の兵士としての役割は終わりを迎えていたが、彼らの主な収入源は農民から取り立てる年貢に限られ、自ら商売などをして収入を得る道は閉ざされていた。
その一方で、町人の経済力は増大し、武士階級が町人階級に依存するような状況さえ生まれ、幕藩体制は次第に弱体化していった。

外国文化の影響について見ると、当時の人々の暮らしの中に直接入り込むことはほとんどなかったものの、学問や芸術の世界ではその影響がはっきりと現れていた。
特に絵画の分野では、古くから続く日本独自の表現方法に新しい風が吹き込み、大きな変化が生まれたことは注目に値する。

続きを読む

日本の歴史 超私的概観 (7) 江戸時代 前期 美意識の形成

江戸時代前期には幕藩体制が確立し、儒教精神が武士だけではなく平民にまで浸透した。16世紀の戦国時代が終わり、社会全体が安定期に入る中で、人々の生活様式も変化し、それにともない文化的な表現も前の時代とは異なったものになっていく。

武士階級においては、幕府の圧倒的な支配の下で戦闘要員という本来の役割を果たす場がなくなり、藩主から俸禄を受領することで生計を立てる非生産者となる。
農民は幕府や藩からの様々な統制にもかかわらず、新田開発や治水・感慨事業、そして農業技術の向上により生産性を増し、農産物を商品として流通させることも可能になる状況が生まれた。
そうした動きに連動し、商業活動も活発化し、街道の整備や貨幣経済の発展にともない、大規模な商売で富を獲得するなどして、町人が経済の実験を握る状況なども生まれ始めた。

このように人々の生活が安定するに従い、京都の宮廷や武士階級だけではなく、都市の住民も、絵画や演劇、読み物などといった文化活動に参加するようになっていく。
江戸時代前期において、その中心は上方、つまり京都と大阪にあり、江戸は徳川幕府と関係するものに限られていたといってもいいだろう。

江戸時代というとどうしても江戸中心に考えてしまがちだが、大和朝廷以来の伝統を考えると、上方から江戸への移行が一気に行われたわけではないことは、むしろ自然なことだと言える。

続きを読む

日本の歴史 超私的概観 (6) 江戸時代 前期 封建制度の確立

織田信長と豊臣秀吉によって戦国時代にほぼ終止符が打たれ、戦国大名が各地で勢力を振るった時代から、再び幕府が全国を支配する中央集権制度が確立する時代へと移行する。

その過程において最も大きな転機となったのは、1600年に起こった関ヶ原の戦いだった。
豊臣秀吉の死後、徳川家康を総大将とした東軍と、毛利輝元を総大将とした西軍が、現在の岐阜県に位置する関ヶ原を初めとして各地で戦闘を繰り広げ、最終的に東軍が勝利を収めた。
その結果、強大な権力を掌握した徳川家康は、1603年、京都の朝廷から” 征夷大将軍 “に任命され、江戸に幕府を創設する。

江戸時代の前期、幕府が最も力を尽くしたのは、徳川家が代々世襲する将軍が、各地の藩を統治する大名たちと封建的主従関係を結び、”幕藩体制”と呼ばれる支配体制を確立することだった。

徳川政権が採用した様々な施策は、政治体制だけではなく、庶民の日常生活や精神性、そして芸術の分野にも大きな影響を及ぼし、私たちが現在 “日本的”と感じる多くの要素の源になっている。

続きを読む

日本の歴史 超私的概観 (5) 鎌倉時代から江戸時代へ (その2)

安土桃山時代:1573年 – 1603年

室町時代の後期、各地を支配する領主が室町幕府の統制から自由になり、勢力争いを繰り広げる時期が、15世紀末から16世紀末まで約100年間続いた。
その戦国時代の最後に戦乱を制したのが、織田信長と、彼に続く豊臣秀吉だった。

しかし、安土桃山時代と呼ばれるその時期は30年程度で終わり、1600年の関ヶ原の戦いの後、1603年には徳川家康によって江戸幕府が開かれる。

その安土桃山時代、日本は初めて西欧と接触を持ち、その影響が天下統一に大きな役割を果たすことになった。
また、戦さの時代が終焉を迎えることで、例えば城の形体が、戦闘時の防御拠点となる山城(やまじろ)から、平地に築かれ、川や沼、人工的に造られた掘りなどを防御施設とする平城(ひらじろ)へと変わり、城下町が作られるなど、文化的な面でも大きな変化が見られるようになる。

続きを読む

日本の歴史 超私的概観 (4) 鎌倉時代から江戸時代へ (その1)

平安時代の後半、平家や源氏といった武士団が勢力を拡大し、源平の合戦を経て、12世紀後半になると源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでに至った。
その後、江戸幕府が崩壊する1868年までの約700年間、武士階級が政治の支配権を握ることになる。

その間、天皇家を中心とした貴族たちは京都に留まり、名目上は天皇が国家を支配し、武家の棟梁は征夷大将軍といった称号で朝廷に仕えるといった政治体制が取られた。
政権は鎌倉幕府から室町幕府、信長や秀吉の時代を経て江戸幕府へと移行したのだが、形式上は朝廷と武家による権力の二重構造が継続されたのだった。

その一方で、時代と共に農民や商人といった庶民の勢力が拡大し、文化の担い手は、京都の宮廷や寺院だけではなく、武士階級へ、そして一般の民衆へと広がっていった。
平安時代の公家文化が、鎌倉時代に入ると禅の影響を強く反映した武士の文化を生みだし、最終的には江戸時代の町人文化の中で成熟したといってもいいだろう。
私たちが現在日本の伝統と見なすものは、こうした歴史の流れの中で徐々に生み出されて来たものに他ならない。

ここではまず最初に、鎌倉時代と室町時代を通して、平安時代から何が変化し、何が新たに産み出されたのか、見ていくことにする。

続きを読む