SNSで流れてくる情報に容易に動かされる現代社会において、最も必要とされるのは、「判断力」の育成だといえる。たとえAIで精巧に作られた情報に接したとしても、正しく判断すれば、真偽はそれなりに推測できるはずである。

16世紀フランスの思想家ミッシェル・ド・モンテーニュは、「子どもの教育について」というエセーの中で、様々な知識に触れる必要性を説きながら、その目的は知識を通して「判断力を形成すること」だと言った。
教師は、生徒に、全てのものを濾し布に通すようにさせ、単なる権威や信用だけを頼りにしたものは、頭の中に何も残っていないようにさせてください。(中略)生徒には多様性のある判断を提示してください。生徒は、選択できるのであれば、選択するでしょう。できなければ、疑いの状態に留まるでしょう。愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。 (モンテーニュ『エセー』)
この言葉は、21世紀の情報社会にそのまま当てはまる。フェイクの情報や陰謀論が大量に流通し、一部の人々はそれを容易に信じ、拡散する。彼らは受け取った情報をそのまま「確信し、決めてかかる。」
では、「確信し、決めてかかる」ことなく、判断力を養うためにはどうしたらいいのだろう?
そのヒントを丸山真男の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)から得ることができる。
丸山は古典を読む際の注意事項として二つの項目を挙げるのだが、それこそが、判断力を養う際の基礎になる。
その二つとは、 「先入観の排除」と「早呑込みの危険性」。

私たちは自分たちがある先入観を持ち、それに従った早呑込みをしがちなことに気付くことが少ない。
その点について、丸山は次のような言葉で注意を促す。
私たちは、どんなに自分では「自由」に思考していると思っても、現代の精神的空気を肺の奥底まで吸いこみ、現代の思考範疇をメガネとして周囲を眺め、手近なところでいえば、現代の流行語を十分な吟味(ぎんみ)なしに使って、物事を論じております。(『「文明論之概略」を読む』上、p. 9. )
私たちはどうしても「同時代のメガネ」を通して物を見る。まず最初にこの自覚が必要とされる。
一つの事に対して、賛成の立場を取るにしても、反対であっても、その軸は現代の枠内で設定されている。その枠を自覚しないままだということは、結局、”メガネ”を”裸眼”だと誤解することになりかねない。
その上で、丸山は古典を読む際の心構えとして、まず最初に「先入観の排除」を挙げる。
思想的古典に直接向き合って、そこから学ぶだめにまず大事なのは、先入観をできるだけ排除して虚心坦懐に臨(のぞ)む、ということです。(先入観を一切排除するのは事実上不可能なので、「できるだけ」としか言えません。)先入観というのは裁判でいう”予断”に当たります。つまり当該の思想家なり著書なりにたいして”あらかじめ”抱いているイメージであり、そのイメージと離れがたく結び付いた期待感や嫌悪感です。(『「文明論之概略」を読む』上、p. 13. )
先入観を持っていると、それに応じた理解の仕方しかできない。先入観、予断に適合するものは受け入れ、そうでないものは排除する。
一つ例を挙げてみよう。
ある日本人がフランスに留学し、「あなたは中国人ですか?」と尋ねられ、失礼なことを言われたと感じたという。
その際、なぜその質問が「失礼」なのかと自問することなく、嫌な思いを抱いたままに終わる。つまり、そのことに対して「十分な吟味」をせず、自分の先入観に気付くことがない。
こうした状態は、無自覚で無意識的なために、理性的な判断を妨げることにつながる。そして、そこから「早呑込みの危険性」が発生する。
さて、古典を読む際に、先入観とならんで最大の敵は、「早呑込み」の理解です(そうして多くの場合、早呑込みは先入観と結び付いています)。その意味では、一をきいて十を知るという私たち日本人の世界に冠たる”カン”のよさは、古典とじっくりと対面する場合にはかえってマイナスに働くことが少なくありません。ある命題に出会うと、すぐに連想が働いて、ああ、例の”あれ”だな、と早合点し、あるいはその命題の提出者の心事に憶測を働かせて、奴は”結局”ここを狙っているなという風に、一か二のあたりでもう十の見当をつけてしまいます。(『「文明論之概略」を読む』上、p. 17. )
早呑込みとは、全てを自分の持つ先入観で解釈しているにもかかわらず、それを自分の主体的な判断だと思い込む傾向のこと。
自分では偏見にとらわれることなく、自由に考え、判断していると思い込んでいる。しかし、「疑いの状態に留まる」こともなく、「一をきいて十を知る」つもりで即断する。
そのことは、決して判断力を養うことにはつながらない。というよりも、その逆に、偏見を強め、現実に基づいた論理的な思考力を鈍らせる方向に働いてしまう。
丸山真男が古典の読み方について語ることは、SNSやYouTubeで拡散される情報に対して私たちが取るべき姿勢がどのようにあるべきなのか、教えてくれる。
そして、私たちは、モンテーニュの「愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです」という言葉をたえず思い出すことで、流れてくる情報をそのまま信じるのではなく、一つ一つをその都度判断する習慣を身に付けることができるだろう。
人間であろうと、AIであろうと、フェイクをいくらでも作り出し拡散する現代社会。そこにおいてこそ、判断力を養うことがとりわけ必要とされる。
そのためにも、「先入観の排除」と「早呑込みの危険性」を常に頭に入れておきたい。