日本の歴史 超私的概観 (5) 鎌倉時代から江戸時代へ (その2)

安土桃山時代:1573年 – 1603年

室町時代の後期、各地を支配する領主が室町幕府の統制から自由になり、勢力争いを繰り広げる時期が、15世紀末から16世紀末まで約100年間続いた。
その戦国時代の最後に戦乱を制したのが、織田信長と、彼に続く豊臣秀吉だった。

しかし、安土桃山時代と呼ばれるその時期は30年程度で終わり、1600年の関ヶ原の戦いの後、1603年には徳川家康によって江戸幕府が開かれる。

その安土桃山時代、日本は初めて西欧と接触を持ち、その影響が天下統一に大きな役割を果たすことになった。
また、戦さの時代が終焉を迎えることで、例えば城の形体が、戦闘時の防御拠点となる山城(やまじろ)から、平地に築かれ、川や沼、人工的に造られた掘りなどを防御施設とする平城(ひらじろ)へと変わり、城下町が作られるなど、文化的な面でも大きな変化が見られるようになる。


A. 地方経済の発展と 戦国大名の乱立

室町時代の後期になると幕府の権威が揺らぎ、各地を支配する領主の権力が増大したが、その背景にあるのは土木技術の発展だった。

1)第1級河川で大規模な治水工事が行われ、下流の沖積層平野が広大な水田などの農耕地に作り変えられた。
開拓された新田に関しては、年貢を免除するなどの措置が執られることがあり、それがインセンティブとなって農業生産力が飛躍的に向上し、小農の自立を促すことにもつながった。

2)東北、関東、北陸、中国、九州には鉱山があり、その開発技術が発展することで、日本は世界で有数の金銀産出国となった。

3)築城技術が進歩し、豪華な城郭が建築されると同時に、各地で城下町も建設された。

織田信長を始め、伊達政宗、武田信玄、黒田長政、加藤清正たちは、こうした土木工事を主導した領主であり、そこで得た富を用いて戦国武将としての力を蓄えていった。


B. 西欧の世界進出の中で

日本にとっての外国とは古代以来ずっと中国大陸の歴代の国家だったが、1492年のいわゆるコロンブスのアメリカ大陸発見以来ヨーロッパが大航海時代を迎え、日本もヨーロッパの世界戦略の中に巻き込まれていく。

ヨーロッパ人にとって、日本は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』(1299)で語られた黄金の国ジパングと見なされていた可能性がある。
しかも、1399年に完成したと推定される金閣寺を見てもわかるように、当時の日本は実際に大量の金を産出していた。

1543年、種子島に一艘の明国船が漂着し、その船に乗っていたポルトガル人によって火縄式の鉄砲が伝えられた、と言われてきた。
現在では、それ以前、16世紀初頭にはすでに火縄式鉄砲がすでに日本各地に持ち込まれていたという説が有力になっているのだが、いずれにしても、当時鉄砲は種子島と呼ばれ、西洋の武器と認識されていた可能性が大きい。

1549年にはフランシスコ・ザビエル一行が薩摩半島に上陸。その後、大名の島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ると、京都で天皇や幕府の足利将軍との謁見を試みるなど、九州を中心に日本各地で精力的な布教活動を行った。

諸大名たちは、少数の例外を除き、本心からキリスト教に改宗することはなく、西洋の軍需技術の習得や海外貿易から得られる富を目的とし、キリスト教の布教を公認、あるいは推進したと考えられる。

16世紀後半にはポルトガル、スペイン、オランダなどの船舶が相次いで来航する一方で、1582年には日本からも少年使節団をローマに派遣し、キリスト教文明に直接触れる機会を求めるなどすることで、ヨーロッパとの接触を深めていった。

こうした西欧との接触が媒介となり、戦乱の時代に終止符が打たれ、織田信長による天下の統一がなされたと考えることができる。
信長はそれまでの日本の戦闘方式を革新し、武士たちの果たし合いのような戦いが続く中で、大規模な鉄砲隊を用い、集団的な戦闘様式を導入した。
その結果、西洋式の軍事技術が日本のそれを圧倒し、織田信長に勝利をもたらしたと考えられる。

信長に続いた豊臣秀吉は、全国の統一を果たすとともに、租税賦課の条件を明確にするために全国で戸口調査を行った。さらに、刀狩りなどを通して身分制度を固定化するなど、国内統治の整備を進めた。
しかし彼の眼は国内に向けられるだけではなく、海外にも向けられた。
最大の目標は、大陸の大国である明を征服することだったが、その前提として、1590年以降、スペインの支配下にあったフィリピンに入貢を促したり、二度にわたり朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)するなどした。

江戸時代の初期に鎖国政策が行われ、西欧との接触が制限されることはあるが、基本的には1500年代から、日本は欧米の世界戦略の中に巻き込まれていったのだった。


C. 築城と桃山美術

織田信長が築いた安土城は、残念ながら火災で焼失してしまったが、当時の資料によって、次のことが知られている。

a. 小高い丘の上にそびえる山城で、七階立て。天守の外部は五重になり、非常に奇抜な構造をしていた。

b. 天守内部の襖絵は、狩野永徳(かのう・えいとく)の作で、地には金がふんだんに施されていた。

屏風絵における金碧(きんぺき)濃彩の画法は、土木技術の発展によって金銀が大量に産出された時代を背景にしている。

1574年に織田信長が上杉謙信に贈ったと言われる「洛中洛外図屏風」でも、金色の雲が全体を覆い、金が大量に用いられている。
そして、その中に、京都市内の神社や武家屋敷、2800人を超える人物が描かれ、京都全体を把握しようとする狩野永徳の視線が感じられる。

狩野永徳の他の作品、例えば「唐獅子図屏風」を見ても、堂々とした獅子の姿がいかに戦国武将の好みに合っていたかを、想像することができる。


威風堂々とした精神の一方で、千利休が主導した「佗び茶」の精神も深められた。

簡素で質素な「わび」の精神は、例えば、妙喜庵の、わずか二畳に切り詰められた茶室によっても表現されている。

また、陶工・長次郎の黒茶碗なども、装飾性がなく、どこか不完全な印象を与える作りがなされ、「佗び茶」の精神に相応しいものになっている。

こうした表現は、武将たちが好んだ華やかな表現とは明確な対照をなすが、しかし、その二つの表現がともに安土桃山時代の美を形作っている。

長谷川等伯の水墨画「松林図屏風」は、日本で最高の水墨画ともいわれる作品だが、静謐な森林の雰囲気を漂わせながら、同時に、力強い松の勢いも感じられ、安土桃山時代の二つの美意識が見事に融合した代表的な例となっている。


ポルトガル、スペインなどの外国船が日本に来航し、交易が盛んになるに従い、絵画の素材としても西洋が取り上げられるようになる。

狩野内膳の「南蛮人渡来図屏風」では、全体に金地が用いられた当時の金地著色の屏風画だが、その右側には、日本の港に入港した南蛮船の様子が描き出されている。
教会と思われるいくつかの建物は、日本建築の屋根の形をしている。その姿は、この時代の和洋折衷を表していて、日本がヨーロッパと接触した最初期の状況を再現しているといえる。

キリスト教を伝導する宣教師たちが運営する神学校(セミナリオ)では、信徒への体系的な教育が行われていたが、絵画も教えていたことが知られている。

「洋人奏楽図屏風」は、遠近法を使った構図や優雅に寛ぐ貴族らしい人々を描いた題材であり、ヨーロッパ中世の絵画を思わせる。しかし、神学校で教育を受けた日本人によって描かれたと推定され、日本人による最初の洋画の一つである。

フランシスコ・ザビエル一行が1549年に渡来してからわずか50年あまりで、すでにこうした洋風な絵画表現が行われるようになったことは、織田信長を初めとする武将たちが、どれほど積極的に海外交易を推し進めたかということの、一つの現れでもある。


安土桃山時代と呼ばれる時期はわずか30年程度だが、政治だけではなく、人々の生活の上でも、芸術的な分野でも、非常の大きな役割を果たした時代だった。
その時代に捲かれた種が江戸時代の初期に開花を始めたとしたら、その二つの時代の間にあるのは断絶ではなく、継続であるといえる。

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