
織田信長と豊臣秀吉によって戦国時代にほぼ終止符が打たれ、戦国大名が各地で勢力を振るった時代から、再び幕府が全国を支配する中央集権制度が確立する時代へと移行する。
その過程において最も大きな転機となったのは、1600年に起こった関ヶ原の戦いだった。
豊臣秀吉の死後、徳川家康を総大将とした東軍と、毛利輝元を総大将とした西軍が、現在の岐阜県に位置する関ヶ原を初めとして各地で戦闘を繰り広げ、最終的に東軍が勝利を収めた。
その結果、強大な権力を掌握した徳川家康は、1603年、京都の朝廷から” 征夷大将軍 “に任命され、江戸に幕府を創設する。

江戸時代の前期、幕府が最も力を尽くしたのは、徳川家が代々世襲する将軍が、各地の藩を統治する大名たちと封建的主従関係を結び、”幕藩体制”と呼ばれる支配体制を確立することだった。
徳川政権が採用した様々な施策は、政治体制だけではなく、庶民の日常生活や精神性、そして芸術の分野にも大きな影響を及ぼし、私たちが現在 “日本的”と感じる多くの要素の源になっている。
A. 幕藩体制の確立
徳川家は諸大名を支配する地位にあったが、しかし、形式的にはあくまでも一大名であり、その筆頭に位置する存在にすぎなかった。幕藩体制とは、各地の大名たちがそれぞれの藩を独自に統治し、幕府は「公儀」として藩を統治するという政治形体なのだ。
そのシステムの中で、徳川家が将軍職を維持し続けるためには、財政的な基盤を持ち、明確な支配制度を構築する必要があった。

経済的な基盤としては、幕府の直轄領から得られる収入があった。
年貢収取の対象となる田畑が各地にあるだけではなく、京都、大坂、長崎など重要な都市、佐渡や伊豆の金山、石見の銀山、足尾の銅山などは天領と呼ばれる直轄地であり、幕府に主要な財源をもたらした。
諸藩の大名たちに対しては、” 朱印状 “を与えて藩における統治権を保障する一方、城の建築や治水工事などの大規模な土木建築工事を行わせた。
江戸城、彦根城、丹波亀山城、駿府城、名古屋城など多数の城の建造のために諸大名が普請に動員され、各藩の財政を逼迫させることになった。
農地開拓については、戦国時代から大名たちが競うように各地で取り組み、米の増産に努め、人口の増加にもつながったのだが、そうした開拓は江戸時代初期にも続けられた。
河の浅瀬や沼などで埋め立てや干拓が行われるだけではなく、内陸部の荒れ地でも新田の開拓が行われた。
その結果、開発が遅れていた東北、関東、中国、九州でも農地が増大したのだが、他方で、河川の普請や改修などの大規模な土木工事は、藩の財政に大きな負担をかけるものだった。
こうした経済政策だけではなく、諸大名の間に格差をつけ、それを制度化するという方策も行われた。大名は3つのカテゴリーに分類される。
a. 親藩:御三家(尾張、紀伊、水戸)をはじめとする徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩の大名家
b. 譜代大名:関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた大名家
c. 外様大名: 関ヶ原の戦い以降、徳川家に仕えた大名家
将軍職につけるのは御三家のみ。幕府の要職につくことができるのは譜代大名。
その役割分担により政権内での権力構造が決まり、徳川家の独裁が制度的にも確立した。
以上のように、江戸時代の初期、徳川家が諸大名たちの上に君臨する封建制度を支えるための経済的、政治的システムが形作られていった。
B. 身分制度
幕藩体制の中、幕府は社会的な人間関係を様々な形で規制していく。
i. 公家と武士

1615年に制定された「禁中並公家諸法度(きんちゅう ならびに くげ しょはっと)」と「武家諸法度」のうち、前者は天皇、公家、高位の僧侶に対する規制、後者は大名の行動規範を定めるものだった。
「公家諸法度」の第一条では、「天子が身に付けなければならない第一は学問である」とされ、別の項目では、年号の制定に関して、「改元は漢の年号から良いものを選ぶべきだが、今後は日本の先例に従ってもよい」とされる。
僧侶の装束については、「高官が身に付けるべき紫色の衣を与える場合、それに相応しい住職であることを判断した上でなければならない」とされる。
朝廷に任命されたはずの徳川家の征夷大将軍が、朝廷や寺院に関する規制を定めるということは、武士と貴族の権力構造が完全に逆転したことを示している。
「武家諸法度」は武士に関するもので、第一条には、「武士は文武両道を専ら心がけるべき」とあり、その後、「酒宴や遊興を慎み節度ある生活を送るべき」といった行動規範が記される。
さらに、参勤交代の定めや、「築城だけではなく修理の場合でも幕府に報告しなければならない」といった制度的な規定も示されている。
ii. 平民
平民に関しては、しばしば”士農工商”という身分制度があったとされてきたが、その名称は単に職業を示すものであり、社会的な上下関係を指すものではないと考えられるようになっている。

実際には、戦国時代以前から、各地の大名の下で兵士として戦に参加した者たちは、平時には農民であることが多く、武士と農民の間の境はかなり曖昧なものだった。
そうした状況は1580年代に豊臣秀吉が行った「太閤検地」や「刀狩」によって変化し始め、二つの職業(身分)は分離され、固定化されるようになっていく。
江戸時代になると、兵農分離の政策はさらに強化され、武士たちには、”苗字帯刀”といった特権が認められ、着物や髷の結い方なども特別なものになり、他の身分とは明確な違いが設けられた。
そのような政策により、武士は社会的に上位に置かれ、支配階級として君臨し、親子代々受け継がれる世襲制の職業となった。
武士階級は全人口の約6%を占めていたといわれている。

その一方で、武士階級以外の人々の約80%は農民だったと考えられ、農民からの年貢が支配階級の経済活動を支える中心となっていた。
また、交通や産業が発達し、経済活動の活発化にともない、町に住む商人や職人の数も増大した。町人たちは、自分たちの能力や働きによって富を蓄えることができたため、時代が進むに従い支配者層に接近する者も出現した。
ただし、農民と町人の間に上下関係は存在せず、江戸時代の身分は、武士と平民という二つの階級に分かれていたことになる。
C. 仏教と儒教
江戸時代に武士と平民を確実に把握するために幕府が用いたのが仏教の制度的な機能だった。また、儒教的な倫理観を人々の心の中に植え付けることに成功した。
i. 仏教の本末制度と檀家制度
江戸幕府は、仏教教団に幕藩体制のような中央集権的な関係を適用し、それぞれの宗派に関して、1つの”本山”を定め、それ以外の寺社は本山の下に置かれる”末寺”とするという、「本末(ほんまつ)制度」を設けた。
その結果、それまでは独立した寺も一つの宗派の系列に入ることになり、僧侶の任命や位階、色衣の着用、年貢の徴収などについても本山からの指示に従うことになり、全国にある寺院が最終的には幕府の統制下に置かれることになった。

さらに、「檀家制度」が始められ、全ての国民が一つの末寺に所属することになる。
興味深いことに、檀家制度の始まりは、キリスト教の禁止と関係する。
戦国時代末期に日本に入ってきたキリスト教に関しては、織田信長の例を見てもわかるように、ポルトガルやスペインから武器を輸入し、金銀を中心とする商業活動を活発化するために、利用されてきた側面がある。
しかし、江戸時代に入り幕府はキリスト教を禁止する方向に傾き、1612年には直轄地における教会の破壊と布教の禁止を命じた。その動きが諸大名にも伝わり、各藩でキリスト教を禁止する動きが広まった。
その際、武士や平民といった身分にかかわらず、全ての人々はキリスト教徒ではないという証拠として、寺から証文を受け取る必要があった。(寺請制度)
そして、証文を得るためには、各自が一つの寺に所属すること、つまり”檀家”になることが求められた。現在でも続く檀家制度の始まりである。
そのようにして、人々は藩や檀家になった寺に所属するという意識を持ったのだが、江戸幕府や本山に属するという意識はなかった。
しかし、制度上、幕府は、檀家制度を通して、本山から末寺、末寺から檀家へという段階を経て、全ての民を統制下に置くことが可能になったのだった。
ii. 儒教、朱子学(宋学)の倫理
日本の宗教については、日本古来の神道と聖徳太子の時代に国家宗教として導入された仏教が複雑にからみあっているのだが、江戸時代にはその上に儒教の強い影響が加えられた。
徳川家康が1613年に作成させたキリスト教徒追放令の中では、外来のキリスト教と対立するものとして、神道、仏教、儒教の融合したものが日本の正当な宗教であるとした。
そして、江戸幕府は、その中でも儒教、とりわけ朱子学(宋学)を奨励した。

儒教は、紀元前500年頃に孔子が提唱したとされる教えを中心にして、人間の持つ優れた特性を尊び、各種の人間関係を円滑に保つことを説いた。
人間の尊ぶべき徳性は “五常” と呼ばれ、「仁、義、礼、智、信」が挙げられる。
1.仁 — 人を思いやり、慈しむこと。
2. 義 — 利益を追求するのではなく、正義に基づいた行いをすること。
3.礼 — 礼儀をわきまえなさい。
4.智 — 物事の道理をよく理解していること。
5.信 — 人を信じ、誠実であること。
人間関係に関しては、 “五倫”が重んじられる。
1. 父子の親 — 父子の間は親愛の情で結ばれていること。
2. 君臣の義 — 君主と家臣はお互いに慈しみの心を持ち、守るべき正しい道義をつくすこと。
3. 夫婦の別 — 夫と妻はそれぞれ定められた役割を果たすこと。
4. 長幼の序 — 歳を重ねることが尊いことであり、年少者は年長者を敬い、従うこと。
5. 朋友の信 — 友人とは信じ合える関係を結ぶこと。
こうした 「五常五倫」の倫理観は、たとえ建前だとしても、現在の日本でも人々の心の中にしっかりと根付いている。

こうした儒教の伝統の中で、12世紀になり、南宋の時代を生きた朱熹 (しゅき、1130 – 1200)が、形而上学的な思索を付け加え、あらゆる次元における上下関係を正当化する理論を展開した。
朱熹が切り拓いた学問である朱子学には、形而上学的なレベルと倫理学なレベルがある。
形而上学的なレベルでは、全ての根源である「太極」を始まりとし、「太極」から「理」、「理」から「気」、「気」から「個」へと段階的に下ることが「天道」だとする。
倫理学なレベルでは、人間が取るべき行動=「人道」は、「天道」がスムーズに行われることを助けることとされる。
具体的に言えば、万物に上下の関係があるのと同じように、人間社会にも上下関係がある。従って、上にいる君主と下にいる家臣の関係、父と子の上下関係は当然存在すべきものであり、君主に忠誠を尽くすこと、親に孝行することが人の道であり、その”人道”を守ることが”天道”に従うことである。
こうした論理で個人の「修身」と社会の「天下太平」とが連続する朱子学の理論は、支配者にとって最適の思想となる。

江戸時代初期、徳川家の学者として重用された林羅山(はやし・らざん:1583-1657)は、この朱子学の理論に基づき、「上下定分の理(じょうげていぶんのり)」を提唱した。
天が上にあり地が下にある関係が絶対的な真理であることを疑うことはできない。同様に、君臣、父子、夫婦、兄弟、武士と平民、それらの上下関係も変えることができない絶対的な真理と考えられる。
林羅山は、その真理に基づき、日常生活における人々の実際的な行動規範として「存心持敬(そんしんじけい)」を説き、私利私欲をおさえ、上位の存在に対して常に尊敬する心を持つことが重要であると説いた。
この林羅山の学説に、江戸幕府が、封建制度の中において身分の上下関係を確立するために最適な倫理観を見出したのは自然なことだといえる。
実際、林羅山は、徳川家康以下、秀忠、家光、家綱という4代の将軍に仕え、江戸幕府の統治制度や各種の儀礼の制定にかかわり、朱子学の精神性を日本人の心に根付かせることに貢献することになった。
そうした儒教的な倫理観は、禅宗の僧侶たちにも取り入れられ、武士階級だけではなく、農民や町人にも浸透していった。
例えば、曹洞宗の僧侶、鈴木正三(しょうさん、1579 – 1655)は、仏法と世法は同一であり、どちらにおいても「正直の道」を守ることが重要だとする。
世法、つまり日常生活では、儒学の「五倫」を守り、人としての道を正しく生きることが説かれる。
仏法、つまり世俗を超えた精神世界では、禅的な世界観に基づき、全てが儚く過ぎ去る空しいものであることを悟り、天然自然のままに生きることを説く。
このように、世法は儒教、仏法は禅的な思想に基づき、「正直の道」が説かれる。
鈴木正三の「辛苦の業をなして心身を責める時、この心に煩いなし」といった教えは、倫理に反することなく人と接し、一生懸命に働くことで社会に貢献するといった考えを、武士、農民、商人、職人といった社会階層を超え、あらゆる社会階層の中に根付かせていくことになる。
D. 遊里 — 身分制社会の余白

儒教的な精神性が身分制度の根幹をなし、上下関係を重視し、君に忠、親に孝といった倫理観が武士や平民の間に行き渡るようになった時代、どこかで”建前”とは異なる価値観を持った場所も必要とされる。
徳川幕府がそうした空間として設定したのが、遊里(ゆうり)だったと考えられる。
実際、各所の遊女が特定の地域に集められ、京都では島原、大阪では新町と曾根崎新地、江戸では吉原に遊里が作られ繁盛した。長崎に作られた丸山遊郭は、外国人を対象とした唯一の遊里だった。
ちなみに現在では吉原だけが話題になるが、江戸時代の中期までの中心は上方であり、大阪の遊女の数は吉原の倍以上だった。
遊女たちの出身階級は一般的に低かったと考えられる。江戸時代に人身売買は禁じられていたので、表向きは親が給金を前倒しで受け取り、証文を交わして”奉公”に出す体裁をとり、身売りされた。
しかし、遊里の中では、外部での身分の上下とは関係なく、遊女の容姿と才覚によって、遊里内での厳格な階級を上昇することが可能だった。
最も格の高い「太夫(たゆう)」になるためには、容姿だけではなく、客との関係を維持する知性や、歌舞音曲(かぶおんぎょく)、茶道や華道をこなし、和歌や俳諧を詠むことなどが求められた。

他方、客の方でも、外の世界の身分を離れ、金銭の額が上下を決める世界を享受することができた。
従って、遊里は身分制社会の中で下位に置かれる町人が、金さえあれば自由に振る舞うことができる空間だった。
儒教の倫理観とは相容れない遊里が、近松門左衛門の心中物や、井原西鶴の金銭と好色をテーマとする読み物、そして浮世絵に素材を提供し、町人文化を開花させたのだった。