日本の歴史 超私的概観 (7) 江戸時代 前期 美意識の形成

江戸時代前期には幕藩体制が確立し、儒教精神が武士だけではなく平民にまで浸透した。16世紀の戦国時代が終わり、社会全体が安定期に入る中で、人々の生活様式も変化し、それにともない文化的な表現も前の時代とは異なったものになっていく。

武士階級においては、幕府の圧倒的な支配の下で戦闘要員という本来の役割を果たす場がなくなり、藩主から俸禄を受領することで生計を立てる非生産者となる。
農民は幕府や藩からの様々な統制にもかかわらず、新田開発や治水・感慨事業、そして農業技術の向上により生産性を増し、農産物を商品として流通させることも可能になる状況が生まれた。
そうした動きに連動し、商業活動も活発化し、街道の整備や貨幣経済の発展にともない、大規模な商売で富を獲得するなどして、町人が経済の実験を握る状況なども生まれ始めた。

このように人々の生活が安定するに従い、京都の宮廷や武士階級だけではなく、都市の住民も、絵画や演劇、読み物などといった文化活動に参加するようになっていく。
江戸時代前期において、その中心は上方、つまり京都と大阪にあり、江戸は徳川幕府と関係するものに限られていたといってもいいだろう。

江戸時代というとどうしても江戸中心に考えてしまがちだが、大和朝廷以来の伝統を考えると、上方から江戸への移行が一気に行われたわけではないことは、むしろ自然なことだと言える。


A. 美意識の変遷

i. 武士の美意識

安土桃山時代、織田信長や豊臣秀吉といった大名たちは、次々に城を築き、内部には金碧(きんぺき)濃彩の障壁画を描かせた。
残念ながら信長の安土城は廃城されてしまったが、当時活躍した画家、狩野永徳の堂々とした屏風絵のいくつかは現代まで残されている。
金箔や金砂を背景に用いた「唐獅子図屏風」や「檜図屏風」は、武将たちの覇気と他を圧倒するほどのエネルギーがほとばしっている様をはっきりと伝わってくる。

江戸時代に入っても築城は続き、最も大規模なものは江戸城と城下町の大改修工事だった。
現在では江戸城は元の姿を留めていないが、同時代の作られた姫路城を見れば、荘厳さと優美さを合わせ持つ当時の城の偉容を偲ぶことができる。

また、徳川幕府の御用絵師となった狩野一族が大名たちのために金碧濃彩の障壁画を一手に引き受け、狩野永徳の伝統を受け継いだ。
ただし、1614-15年の大阪の陣の後では戦が収まり、平和の時代が訪れたのと合わせるかのように、絵画の表現から、枠をはみ出すようなエネルギー感は抑えられた。そして、黄金の下地はそのままだったとしても、木々の枝が枠の中に収まり、余白の暗示的な効果を求めた瀟洒で穏やかな表現が主流となっていく。

狩野永徳の「檜図屏風」と狩野探幽の「雪中梅竹遊禽図襖」とを比べてみると、同じ狩野派の絵画でありながら、時代が求める美のあり方が異なっていることをはっきりと感じ取ることができる。

ii. 朝廷と上方趣味人の美意識

武士の城に対して、宮廷では書院造の住宅や庭園に造形的な美を見出していた。

八条宮家の智仁(としひと)親王の発案で造営された桂離宮は、建築群と庭園から成り立っている。
御殿は書院造を基調に数寄屋風を取り入れ、茶室は草庵風。庭園は回遊式で、その景観は『源氏物語』の記述を再現したとも言われている。
このことは、京都に暮らす宮廷人や上層町衆が、平安時代の美を思わせる復古調の美に憧れを抱いていたことを示している。

後水尾上皇の指示によって造営された修学院離宮は、外にある山や樹木などを背景として取り入れる「借景」という手法が用いられた庭園であり、桂離宮とともに、王朝文化の美意識の到達点を示すものとされている。

朝廷のある京都では、上層町人の中からも、洗練された趣味を持つ人々が現れた。
その中心的人物が、本阿弥光悦(1558–1637:ほんあみ こうえつ)である。

本阿弥光悦は刀剣の鑑定を専門としていたが、書道、陶芸、庭園の設計などにも優れ、彼を中心とした茶会は、現代で言えば美術・工芸・文学のサロンのような役割を果たしていたと考えられている。

本阿弥光悦のネットワークに集った貴族、豪商、高位の武士、学者、画家、著名な茶人たちの中には、俵屋宗達(生没不明:たわらや そうたつ)もいた。
彼は京都の絵師であり、俵屋という絵画工房で屏風絵や料紙の下絵など、紙製品の装飾を手がけていた。
宗達が料紙にデザイン性豊かな絵を描き、その上に本阿弥光悦が書を加えたコラボレーション作品は、江戸時代初期に活躍した趣味人たちの洗練された美意識を今に伝えている。


日本の伝統的な絵画技法には遠近法や明暗法がなく、俵屋宗達の絵画も対象をリアルに再現するのではなく、現代のグラフィック・アートのように、非常にデザイン性に富んだものであった。
また、最初に塗った墨や絵具が乾かないうちに、その上に水気の多い墨や絵具を落とし、滲みやむらを偶発的に生じさせる「たらし込み」と呼ばれる技法も生み出した。

俵屋宗達のデザイン性は、17世紀後半になると、尾形光琳(おがた こうりん:1658–1716)によってさらに発展させられることになる。
光琳は京都の高級呉服商に生まれ、小袖や蒔絵などから王朝以来の優れたデザインに親しんでいたと考えられる。その後、俵屋宗達の模写なども行い、時代の趣味を吸収し、非常に活き活きとしたリズム感のあるイメージを作り出していった。


宗達や光琳を先頭に、平安王朝以来の装飾美術の伝統に新しい感覚を加えた画風は「琳派」と呼ばれ、江戸時代後期まで引き継がれていくことになる。

iii. 町人の美意識

江戸時代全般を通して、政治的な権力は常に武士階級が握っていたが、商業活動では町人が台頭し、それに伴い文化においても町人が重要な役割を果たすようになった。

17世紀前半、武家は狩野派、上方の裕福な階級は宗達や光琳の絵画に自分たちの美意識を見出したが、一般の町人たちはより自分たちに近い素材を求めた。
風俗画は、そうした市民たちの要求に応える絵画だと言える。そして、多くの場合、題材となったのは芝居小屋や遊里の情景だった。

作者不詳の「彦根屏風」は寛永年間(1624〜44)の前半の作品で、京都の六条柳町にあった遊里の一室に集まる遊女や遊び人たちが細密に描かれ、当時の遊郭の様子を生き生きと伝えている。

やや時代が下り、寛文(1661–73)期になると、複数の人物が描かれる集団的肖像画ではなく、一人の女性だけに焦点を当てた「寛文美人図」も作成されるようになる。

こうした美人画は上方を中心に、主に京都で描かれたと考えられるが、一部には江戸の美女を取り上げた作品もあった。

そして、時代が下るにつれ、文化の中心も、幕府が置かれ、新興の町人たちが台頭する江戸へと移行していった。
その傾向を体現する画家が、菱川師宣(ひしかわ もろのぶ:1618?–1694)に他ならない。

師宣は江戸に出て挿絵画家として活動を始め、墨摺りの木版画で描いた「衝立の陰」などの春画で人気を博した。
その後、肉筆の美人風俗画にも手を染め、「見返り美人図」といった傑作を生み出すことになる。

このようなスタイルで美人画の原型を作り出した菱川師宣は、自らを浮世絵師と呼び、彼に続く浮世絵師たちの元祖となった。
そして、浮世絵は、肉筆のものから1枚刷りの版画へと進み、さらには彩色を施すようになり、浮世絵版画として、江戸だけでなく日本中で人気を博するようになっていく。


B. 文芸と芸能

i. “憂き世”という現実

1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いて以後、約100年の間に、農業の生産性が格段に向上し、産業や商業も活性化する中で、幕藩体制が整備されていった。身分制度が固定化され、幕府が推し進めた儒教教育の強化により、「親に孝、君に忠」といった言葉に代表される精神性が、武士だけではなく平民の間にも浸透した。

そうした社会的に安定期を迎えた時代には、人々の生活は自由で活気にあふれているように見えるが、実際にそこに生きる多くの人々は、息苦しさを感じていたに違いない。
性と金銭だけがものを言う浮世草子を数多く手がけた井原西鶴(1642-1693)でさえ、現実生活は疎ましいものだという認識を示している。

望姓(もとで)持たぬ商人(あきんど)は、ずいぶん才覚に取り回しても利銀にかきあげ(借りた元手の利子に吸い上げられ)、皆人奉公(ひとぼうこ)になりぬ。よき銀親(かねおや)の有る人は、おのづから自由にして、何時(いつ)にても見立ての買置、利を得ること多し。                  『西鶴織留(おりどめ)』

貧しい環境にある者は、どんなに才覚に長けていたとしても富を得ることはできず、奉公人になるしかない。その反対に金持ちの親を持てば、自由に金を使うこともでき、富は自然に集まってくる。それが資本主義の原理であり、個人の才能や努力は意味を持たない。

そこから、「さりとてはままならぬ世上沙汰、見るにつけ聞くにつけ、うとまし」(『西鶴織留』)といった嘆きも生まれてくる。この世は”憂き”世なのだ。

この時代の作家たちは、憂き世という現実認識から出発し、それぞれの気質に応じて、作品の方向性を定めていく。

井原西鶴は、憂き世を逆手に取り、主人公が自分の才覚により物質的快楽 — 性的欲求と金銭欲 — を満足させる浮世草紙を量産した。

人形浄瑠璃や歌舞伎の作者である近松門左衛門(1653-1724)は、儒教道徳的な建前を熟知した上で、その建前とは正反対の情を美しく詠ったり、建前をそのまま受け入れる作品を書くなどし、舞台の上で繰り広げられる見世物の世界を作り出すことで、大衆の人気を博した。

松尾芭蕉(1644-1694)は、あたかも出家者のように俗世間を離れ、わずか17文字の中に宇宙全体を包括するような俳諧の世界を作り出した。

ii. 憂き世を浮世に変える — 井原西鶴

井原西鶴は、厳格な身分制社会が儒教倫理によって精神的にも厳格に規定された現実社会を十分に理解した上で、あえて社会規範が機能しない世界を創造した。

性の追求の舞台は遊郭。
外部の世界の身分は意味を持たず、金だけがものをいう、そのアンチ現実社会、すなわち浮世の中で、西鶴の主人公たちは、情ではなく性的快楽を求め、獲得した数だけが金銭の額と同様の価値を持つ。

『好色一代男』の主人公は、京都の裕福な町人の子として生まれた世之介(よのすけ)。
彼は7歳で腰元に声を掛け色始めをしたのを皮切りに、各地を遍歴して回る旅を通して自分の性的体験を語ったり、京都六条三筋町の遊女2代目吉野、大坂新町の夕霧、江戸吉原の4代目高尾など、当時名を馳せた遊女たちの話を断片的につなぎ合わせて、物語を展開していく。
そして最後には、「好色丸 (よしいろまる) 」という船に乗り、女護島(にょごがしま)へと出航する。
その間に経験した総数は、男色も含め、「たはぶれし女3742人、少人のもてあそび725人」!まで膨れ上がっていた。

仏教でも儒教でも性欲はタブーであり、世之介が性的快楽を追求する姿は、不道徳そのものだといえる。その意味で非現実的な物語であるが、だからこそ、現実社会で果たされない欲望が実現する様を描いているともいえる。
そこはまさに浮世なのだ。

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金銭の追求に関しては、商家がその舞台として設定された。
たとえば『日本永代蔵』は、30章から成る短編を集めた浮世草子である。そこには、個人の知恵や才覚、欲望を抑えて倹約に努めることで富を得る者、あるいは放蕩や驕りによって破産してしまう者など、まるで実在したかのような商人たちの姿がリアルに描かれている。
そのリアリティの裏付けとして、三井八郎右衛門といった実在の人物がモデルとされている点も指摘されている。

しかし、『西鶴織留』の中で西鶴自身が記しているように、現実の世界では個人の能力が意味を持たず、生まれた環境によってすべてがあらかじめ決定されてしまう。この世は、疎ましく、ままならぬ“憂き世”なのである。

そうした視点に立てば、「倹約の神のお告げに従って、金銀をためねばならぬ。これこそは、両親以外で命の親と呼べるものなのだ」とする『日本永代蔵』の世界も、現実そのものというよりは、才覚による富の獲得が可能な“もう一つの現実”、つまり現実の制約から解き放たれた「浮世」であることがわかる。
それはちょうど、『好色一代男』において性の追求が儒教的な倫理を超越した「浮世」であったのと同様である。

iii. 義理と人情の見世物 — 近松門左衛門

近松門左衛門の作品は、大きく二つの系統に分類される。

一つは「世話物」と呼ばれるもので、現代的な庶民生活を背景にした恋愛悲劇が中心となる。愛し合う男女が最終的に心中へと至る物語が多く、そこでは、儒教的な「義理」によって課されるさまざまな障害が、恋愛を妨げれば妨げるほど、かえって人情の深さや切なさが際立って描き出される。

もう一つは「時代物」と呼ばれ、過去の伝説や歴史上の公家・武士を題材とした作品群である。こちらでは、儒教的な倫理観に則った義務や忠義が、登場人物たちの行動を強く規定し、物語の核心をなしている。

時代物の代表作として知られる『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』は、1715年に大阪の竹本座で初演された人形浄瑠璃である。1717年までの3年間にわたって上演され続けたという記録が、その圧倒的な人気を物語っている。その人気の要因は、人情を乗り越えて義務を貫くという、儒教的な倫理観に基づいたドラマ構造にあると考えられる。

物語の舞台は主に中国大陸。時代背景は、明(みん)がモンゴル系の遊牧民族・韃靼(だったん)によって滅亡の危機に瀕していた時代である。主人公・和藤内(わとうない)は、中国人の父と日本人の母の間に生まれた人物で、明王朝の復興を志す実在の英雄・鄭成功(ていせいこう)をモデルにしている。

物語では、和藤内が長崎に逃れてきた明皇帝の妹・栴檀女(せんだんじょ)から祖国の危機を知らされ、父がかつて仕えていた明への忠義を果たすべく、父母とともに中国へと渡る。そこで彼は、父の前妻の娘・錦祥女(きんしょうじょ)の助力と、その夫・甘輝(かんき)の協力を得て、韃靼軍に勝利し、ついに明の再興を成し遂げる。

このような展開からも明らかなように、本作の主題は「君に忠」である。しかし、その忠義は単なる理想論ではなく、人間の深い感情や複雑な人間関係を超えて貫かれるべき義務として、数々の劇的なエピソードを通して力強く描かれている。

『国性爺合戦』でまず観客を驚かせるのは、現在の感覚からすれば目を背けたくなるような衝撃的なエピソードである。

物語の冒頭、韃靼軍によって明の皇帝が殺され、なんとか宮廷を脱出した妃も、港で命を奪われてしまう。そのとき妃は臨月であった。そこで彼女に付き従っていた忠義の家臣・呉三桂(ごさんけい)は、王家の血を守るために決断を下す。死んだ妃の腹を割き、まだ生きている胎児を取り出し、自分の子どもをその代わりに殺して妃の腹に納めるのだ。

この行動は、現代の倫理観では到底受け入れがたいものだが、当時の儒教的な価値観では、「君に忠」を体現する極限の行為として称賛された。我が子への自然な愛情よりも、君主への忠義を優先する——それが正しいとされていた時代だったからこそ、こうしたエピソードも観客に感動を与えることができたのである。

この物語の中心にも、前述のエピソードと同様、驚くべき「忠義の論理」が据えられている。

和藤内とその両親は、明の再興を目指すため、味方を求めて甘輝の城を訪れる。甘輝は留守にしており、彼らを迎えたのは甘輝の妻・錦祥女だった。彼女は和藤内の父と中国人の先妻の間に生まれた娘、つまり和藤内の異母姉である。

この城には、甘輝の不在時には誰も入城させないという厳しい決まりがあったが、和藤内の母が縄で縛られるという屈辱を受け入れることで、特別に中へ入ることが許される。錦祥女は父の願いを受け入れ、夫である甘輝の説得を約束する。そして、交渉の結果を堀に流す粉の色で伝えることになる。白は味方、赤は敵——。

やがて帰還した甘輝は、もし味方になるなら、それは妻の情に引きずられた結果だと思われると考え、「妻を殺して味方になる」と言い放つ。しかし、和藤内の母がそれを止めたため、甘輝は味方にはならず、錦祥女は赤い粉を堀に流す。

赤い合図を見た和藤内たちは、城を攻める決意を固める。城内に踏み込んだ彼らの目に映ったのは、自らの身体に刃を突き立て、血を流して倒れている錦祥女の姿だった。彼女は、父の命に従い、そして祖国・明への忠義を貫くために、自分の命を賭けて夫を説得しようとしたのだ。

それを見た和藤内の母もまた、義理の娘の忠義に報いるべく、自ら命を絶つ。二人の極限的な行動に心を打たれた甘輝は、ついに考えを変え、和藤内たちとともに韃靼との戦いに身を投じる決意をする。

このように、家族への情や命そのものよりも、主君や祖国への忠義が優先される価値観は、現代の私たちには理解しがたい。しかしだからこそ、当時の観客が深く信じていた朱子学的倫理観の強さが、こうした物語を通して浮かび上がってくるのである。

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ところが、大変興味深いことに、同じ近松門左衛門の劇であっても、「世話物」では倫理ではなく、情(じょう)が美しく描き出されている。

その代表作である『曽根崎心中』は、1703年に竹本座で初演された人形浄瑠璃であり、醤油屋の奉公人・徳兵衛と遊女・お初の悲恋が語られる。

二人は恋仲で将来を誓い合っていたが、徳兵衛は店の主人から姪との結婚を迫られ、正直に「他に想う人がいる」と打ち明ける。しかし、主人は納得せず、徳兵衛の継母に大金を渡して勝手に話を進めてしまう。
このような状況は、店の主人には忠義を尽くし、親には孝行するのが当然とされる儒教的道徳と、お初との恋という「情」との板挟みとなり、その葛藤のなかで、どちらに対しても誠実であろうとする徳兵衛の善良さが際立ってくる。

この徳兵衛の善良さをさらに強調するのが、親友だと思っていた九平次とのエピソードである。
継母から金を取り戻し、主人に返そうとするが、その途中で九平次に出会い、彼を助けるために金を貸してしまう。ところが、約束の日を過ぎても金は返されず、そればかりか、親友だったはずの男は「徳兵衛が店の金を使い込んだ」と言い張り、徳兵衛は悪者にされてしまう。

そんな徳兵衛を、お初は自分が働く天満屋にかくまう。しかし、お初自身も遊女であり、その店に縛られた身であって、自由はない。
お初は徳兵衛に、「この世で結ばれることが叶わぬのなら、あの世で夫婦になろう」と迫る。そして二人は店を抜け出し、曽根崎の森で心中する。

善良な二人が死を余儀なくされるのは、雇い主に対する義務が恋愛の障害となるからである。もし義務のために恋愛を諦めれば、それは儒教精神に則った行動となる。その観点からすれば、情を優先することは、道義上許されない行為と見なされるだろう。
しかし、それは建前に対する本音のあらわれでもある。

主人公たちが善良であり、二人の情が純粋であればあるほど、観客は徳兵衛とお初に強く感情移入し、彼らの心中が美しい結末であると感じたに違いない。
しかも、死の美化は、武士道における「君主への忠誠のために死を選ぶ行為」とも通じている。
だからこそ、竹本座の観客たちは、『曽根崎心中』にも『国性爺合戦』にも熱狂したのであろう。

iv. 俗世からの離脱 — 松尾芭蕉

井原西鶴も近松門左衛門も、いずれも上方の創作家であった。これに対して、松尾芭蕉は伊賀に生まれ、三十歳頃まではその地の殿様に仕えていたが、やがてその身分を捨てて江戸に移り、俳諧師としての生活を始めた。
しかし、江戸に定住したというよりは、旅を重ね、各地のパトロンの世話になりながらも、俗世間とは一線を画すような一生を送った──そう言うほうが、芭蕉の人生観には近いといえるだろう。

『おくのほそ道』の冒頭では、人生そのものが旅であり、すべてが時の流れとともに移ろいゆくものだという認識が示されている。

月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人なり。
                               『おくのほそ道』

また、死の前日に詠まれた次の句には、旅を住み処とした芭蕉の世界観が凝縮されている。

旅に病んで 夢は枯野(かれの)を かけ廻る

実際、芭蕉は病の床に伏しながらも、夢の中ではなお、枯れた野原をさまよい歩き続けている。それがこの句の第一義的な意味である。
しかしその認識は、人生そのものにまで及ぶと考えてよいだろう。

現実世界は、井原西鶴が「さりとてはままならぬ世上沙汰、見るにつけ聞くにつけ、うとまし」と記したような、憂き世である。
その中で生きる限り、義理を果たすか、人情に身を任せるか、どちらかを選ばざるをえない。
だが、芭蕉はそのいずれからも身を遠ざける道を選んだ。隔離された病人のように隠遁し、世間一般から見ればただの「枯れ野」にしか見えないような世界に、心を遊ばせながら旅を続けたのである。

旅の目的地があるとすれば、それは、古代から詠まれてきた歌枕の地である。
芭蕉が詠う自然の景物は、決して自然そのものではなく、すでに和歌によって憧れの対象となった情景や名所であり、現実でありながら現実ではないものだといえる。
そして、そのようにして憂き世にある事物は、現実でありながら、現実を超える存在となる。

その方法は、弟子の服部土芳が芭蕉の言葉として伝えている「物の見へたる光、未だ心に消えざる中に言いとむべし」(『三冊子』)という一句からもうかがい知ることができる。

物とは、そこに在る現実の事物である。その存在(の光)が心の中で消えぬうちに言葉で捉えると、次のような句となる。

五月雨を 集めて早し 最上川

荒海や 佐渡によこたふ 天河
                       『おくのほそ道』

東北地方の旅の途中、芭蕉は実際に最上川や佐渡を目にしたであろう。そういう意味では、これら二句は、現実の情景を描いた「写生」の句と呼んでもよい。
しかし、そうした現実を超えて、「集めて早し」や「よこたふ」といった表現によって、時間の流れが“瞬間”に凝縮され、“永遠の現在”へと昇華されている。

このようにして松尾芭蕉は、憂き世の倫理も情も超脱し、「風雅」の世界を築き上げていったのである。


1603年に徳川家康が幕府を開いてから、およそ100年が過ぎる頃までには、幕府が諸藩を完全に掌握する中央集権体制が確立し、儒教的精神が人々の間に浸透していった。そのような社会の中で、文化的にも京都や大阪を中心に新たな美のかたちが開花した。

やがて次の時代になると、その流れを引き継ぎつつも、政治だけでなく文化の中心も江戸へと移り、さらに外国文化の影響も受けながら、より新しい時代を迎えることになる。

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