
一見うまくやっているように見えながらも、どこか周囲の雰囲気になじめない。はっきりとした理由や特別な原因があるわけではないのに、漠然とした居心地の悪さを感じる。自分自身であることさえ、時に違和感を覚える。── そうした人々が、社会の中には一定数存在する。
彼らは、表面的には決して社会から排除されているわけではない。けれども心の奥では、自分の価値観と社会一般の価値観とのズレを常に感じている。そして、社会からの圧力に押しつぶされそうになる中で、周囲との温度差に擦り切れ、苛立ち、言葉にならない悪態をつき、時には自らの無力さに疲れ果てて、爆発しそうになることさえある。
「蜜柑」と「沼地」は、そうした人間を代表する「私」(わたくし)が、偶然に遭遇した出来事を語るという形式を取った短編作品である。
どちらの作品でも、起承転結のある物語が展開されるわけではない。「蜜柑」では、汽車の中で出会った少女の振る舞いを目撃した出来事が語られるのみであり、「沼地」では、展覧会で出会った美術記者とのやり取りが記されるにすぎない。
しかしそこからは、社会の一般的な価値観と葛藤する「私の肖像」が描き出され、その肖像を通して、「私にとって価値あるもの」が浮かび上がってくる。
「蜜柑」と「沼地」に共感を寄せる読者は、その「価値あるもの」を、芥川龍之介と共有することになる。
(1)葛藤
a. 「沼地」:新聞の美術記者からの揶揄

「沼地」において、「私」(わたくし)が葛藤する相手の態度と、それに対して「私」のとった行動を見ていこう。
「私」は、ある絵画展の一室で、他の誰からも評価されないような一枚の絵を前にして、大変に感激している。
そこに、「流行の茶の背広を着た、恰幅のいい、消息通を以て自ら任じている ―― 新聞の美術記者」が現れる。
そして、その絵が傑作だという「私」に対して、「傑作 ―― ですか。これは面白い」と皮肉を言い、「腹を揺(ゆす)って笑った」。 さらには、「気違いででもなければ、誰がこんな色の画を描くものですか。それをあなたは傑作だと云って感心してお出(い)でなさる。そこが大(たい)に面白いですね」と、追い打ちをかけ、「私の不明」をあざけようとする。
この記者は新聞という公の場所で活動する人間であり、個人というよりも、むしろ世論を代弁するといっていい。記者の仕草につられて二人の方を振り返った二、三人の観客は、そのことを具体的な形で示すために言及されている。
それに対して、「私」は孤立し、かつても記者から不快な思いをさせられたことがあるにもかかわらず、今回も、不快感を抱くことしかできず、何の行動にも出られない。
「私」にできる唯一の抵抗は、せいぜい、記者の顔をまともに見つめながら、昂然として「傑作です。」と繰り返すことだけだった。
ここからは、周囲とは異なる感覚を持ちながら、葛藤を避けるために、自分の感情を押し殺すしかない人間の姿が浮かび上がってくる。
b. 「蜜柑」:不可解な、下等な、退屈な人生に対する疲労と倦怠

「蜜柑」では、具体的に対立する相手は存在しない。ただ、「如何にも田舎者らしい娘」がいるだけである。しかも、その娘が、「私」(わたくし)に対して、何らかの攻撃をしかけてくることはない。

それにもかかわらず、娘が姿を現す以前から、空っぽの汽車の車室に座っている「私」の頭の中では、「云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落して」いる。
では、なぜそんな風に「疲労」と「倦怠」を感じ、娘に対しても不快感を抱くのだろう?
その理由は、いつも「卑俗な現実」に取り囲まれて、「私」は「憂鬱」に陥っているからに他ならない。
(前略)あの小娘が、あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持ちで、私の前に坐っている事を絶えず意識せずにはいられなかった。この隧道(トンネル)の中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋っている夕刊と、── これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。私は一切がくだらなくなって、読みかけた夕刊を抛(はふ)り出すと、また窓枠に頭を靠(もた)せながら、死んだやうに眼をつぶって、うつらうつらし始めた。(「蜜柑」)
汽車と娘と夕刊は、「不可解な、下等な、退屈な人生」の象徴であり、「私」はそうした人生の中で憂鬱になり、倦怠している。
その「私」の象徴として、駅には籠に入れられた犬が置かれていた。
檻(おり)に入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、吠え立てていた。(「蜜柑」)
小娘の描写が悪意に満ちているのは、この子犬のような「私」が、「不可解な、下等な、退屈な人生」に対してすることができる、せめてもの悪態だと言っていい。
それは油気のない髪をひっつめの銀杏返(いちょうがえし)に結って、横なでの痕(あと)のある皸(ひび)だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照(ほて)らせた、如何にも田舎者らしい娘だった。しかも垢(あか)じみた萌黄色(もえぎいろ)の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下った膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱(だ)いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事そうにしっかり握られていた。私(わたくし)はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁(わきま)えない愚鈍な心が腹立たしかった。(「蜜柑」)
この激しい嫌悪感は、具体的な一人の少女に向けられているのではなく、「私」と社会全体とのズレに由来し、その摩擦に擦り切れそうな「私」の心の声を表現している。
そのように考えると、「蜜柑」における対立は、「平凡な出来事」に満ちた「卑俗な現実」と「私」の間にあるということが明確になる。
c. 「沼地」と「蜜柑」の違い
「沼地」における対立は、終始平行線のままであり、「私」と「記者」との関係にも変化は見られない。

これに対して「蜜柑」では、ある種の「逆転」が生じる。そして、まさにその逆転こそが「蜜柑」の核心を形作っている。しかも、その逆転は一つにとどまらない。
第一の逆転は、本来であれば卑俗な現実の象徴であるはずの小娘が、美を生み出す存在へと変貌することにある。
しかし、それだけでは終わらない。明確には描かれていないものの、もう一つの逆転が存在する。それは、「私」自身に関わる逆転である。
「私」は当初、小娘を見下していた。だが、その娘が美の側へと移行したとするならば、それに伴い、「私」は逆に卑俗な現実の側へと追いやられることになる。つまり、蜜柑を懐に抱える娘を外見だけで判断し、「平凡な記事」で伝えられるような社会の出来事と同一視していた「私」は、「沼地」の例に照らせば、美術記者と何ら変わらないということになる。
こうした逆転を前提としているからこそ、「蜜柑」の最後に描かれる「私」の意識の変化は、重要な意味を帯びてくるのである。
私は昂然(こうぜん)と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘はいつかもう私の前の席に返って、不相変(あひかはらず)皸(ひび)だらけの頬を萌黄色(もえぎいろ)の毛糸の襟巻に埋(うず)めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。(「蜜柑」)
この場面でも、娘の外見は以前のままであり続けている。にもかかわらず、彼女はもはや別人となっている。とすれば、その変化は「私」の意識の中での変身、つまり「私」自身が再び逆転し、「卑俗な現実」とは反対の側へと移ったことを意味する。
このように、「蜜柑」は二重の逆転に基づく展開を持ち、「沼地」の単純明快な構造とは対照をなしている。
(2)「沼地」 生命の絵画
「沼地」の「私」は、展覧会場で、誰も評価しない油絵を「発見」する。その「発見」という言葉は、一般的な評価としては決して高くない作品に価値を見出したという意味で使われている。
観賞に値しないという評価は、その絵が展示されている場所によって具体的に示される。
この画だけは思い切って彩光の悪い片隅に、それも恐しく貧弱な縁(ふち)へはいって、忘れられたように懸かっていたのである。(「沼地」)
さらに、描いたのは無名の画家、つまり評価されていない画家であり、描かれた対象も、一般的には美しいと感じられないもの、「ただ濁った水と、湿った土」、「その土に繁茂(はんも)する草木(そうもく)」だけだった。
しかも、植物を描きながら、画家は緑色を使わない。
その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱(おううつ)たる草木を描きながら、一刷毛(ひとはけ)も緑の色を使っていない。蘆(あし)や白楊(ポプラア)や無花果(いちじゅく)を彩(いろど)るものは、どこを見ても濁った黄色(きいろ)である。まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。(「沼地」)
緑を使わないだけではなく、黄色を主調としているのだが、その黄色も「濁り」、「重苦しい」。
この描写において、芥川龍之介が具体的にどのような絵画を思い描いていたのかは定かではない。しかし、大正時代の絵画であることは確かであり、1915年(大正4)に第一回展覧会を開催した画家グループ「草土社」の作品が念頭にあった可能性は考えられる。
草土社の中心人物は、芥川と同じ1891年(明治24)生まれの岸田劉生(りゅうせい)であり、当時の彼は赤土や草を好んで写生し、自らを「写実的神秘派」と称していた。


「沼地」の美術記者は、濁って重苦しい黄色に対し、「気違いででもなければ、誰がこんな色の画を描くものですか」と、侮蔑的な言葉を投げかける。
それに対して「私」はそこに「恐ろしい力」を感じる。
殊に前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせるほど、それほど的確に描(か)いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝(くるぶし)が隠れるような、滑(なめらか)な淤泥(おでい)の心もちである。私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を掴つかもうとしている、傷(いたま)しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚(こうこつ)たる悲壮の感激を受けた。(「沼地」)
この一節は、芥川龍之介にとっての芸術とは何かを、非常に簡潔に、しかも的確に私たちに示している。
- リアルさ、生(なま)の感触、生命感を伝える表現
- その感覚を捉えようとする芸術家の苦しみ
- 芸術家の表現から受け取る観客の感覚 (文学の場合であれば読者)
「私」は、描かれた土の上を実際に歩くようにして、その土の感触を感じ取る。そこでは五感が連動する。土を見ながら(視覚)、足を踏み出す時の「ぶすり」という音が聞こえ(聴覚)、土に足が埋まる時の「滑な淤泥の心もち」(触覚)が呼び起こされる。
芸術家の苦しみは、そうした自然を掴もうとするところにある。なぜなら、リアルを芸術表現の中で再現することは、決して容易ではないからだ。
「私」は、「この小さなカンヴァスの中に、恐しい焦躁と不安とに虐まれている傷しい芸術家の姿」を見出す。
芸術家とは、それほどの「焦躁と不安」にとらえられながら、自然そのものを捉えようと努める存在なのだ。
そして、そのようにして表現された作品を前にして、見る目と感じる心を持った鑑賞者は、狂気に陥るほどの苦しみの中で生み出された芸術家の表現から、「恍惚たる悲壮の感激」を受け取ることになる。
さらに、その感激の内実については、「沼地」の最後の部分で、より具体的に読者に伝えられる。
私は全身に異様な戦慄(せんりつ)を感じて、三度(みたび)この憂鬱な油画を覗いて見た。そこにはうす暗い空と水との間に、濡れた黄土(おうど)の色をした蘆(あし)が、白楊(ポプラア)が、無花果(いちじゅく)が、自然それ自身を見るような凄じい勢いで生きている。(「沼地」)
「生きている」。その生命感こそが、「私」を感激させ、全身に異様な旋律を走らせる本質なのだ。
「沼地」は、このような芥川龍之介の芸術観を、「私」に起こったある日の出来事を通して私たちに伝えている。
(3)「蜜柑」 空から降る蜜柑の絵
「蜜柑」が逆転の構図の上に成り立っていることはすでに述べたとおりだが、その逆転は汽車の進行方向を通して感覚的に伝えられている。
a. 後ずさりする光景
「私」は、「横須賀発上り二等客車の隅」に腰を下ろしている。「横須賀発の上り」であれば、鎌倉を経て東京へと向かう列車だろう。
いずれにしても、客車の中で「私」は疲労と倦怠に包まれ、新聞を読む気にもなれない。
そうした中で汽車は駅を出発し、進行方向に向かって走り出す。そのとき、通常の感覚であれば列車は前へと進んでいると感じられるはずだ。
しかし、憂鬱に捉えられている「私」にとっては、目に映る風景が後ずさるように感じられる。

やがて発車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛(くつろ)ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへていた。(中略)
徐(おもむろ)に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎって行くプラツトフオオムの柱、置き忘れたような運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云っている赤帽 ―― そう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。(「蜜柑」)
「私」の意識は、汽車の進行に合わせて前へと進むのではなく、出発を予測した時点からすでに「ずるずると後ずさり」しており、実際に列車が動き出してからも、目に映る光景は「未練がましく後へ倒れて」いくように感じられる。
b. 方向の逆転
このように、前進ではなく後退するような方向感覚は、汽車が最初のトンネルに入った瞬間、突如として逆転する。
その転換はまず、客車の中にいる小娘の存在を忘れようとして新聞を広げたとき、そこに差しかかる光の変化を通じて感知されるのである。
(前略) その時夕刊の紙面に落ちていた外光が、突然電燈の光に変って、刷(すり)の悪い何欄(なんらん)かの活字が意外なくらい鮮(あざやか)に私の眼の前へ浮んで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道(トンネル)の最初のそれへはいつたのである。(中略)
私は隧道へはいった一瞬間、汽車の走っている方向が逆になったやうな錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へほとんど機械的に眼を通した。(「蜜柑」)
汽車に乗ったのは、「ある曇った冬の日暮」で、太陽の光は弱く、新聞の活字もよく見えなかったに違いない。トンネルに入ると外光が消え、車内の電灯の光に切り替わる。そのおかげで、「意外なくらい鮮に」活字が読みやすくなる。
この逆転の結果、汽車の進行方向が変わったかのような感覚が生じる。
トンネルに入る前、「私」は汽車が前に進むというよりも、風景が後ろへと退いていくように感じていた。しかし、トンネルに入ると外は真っ暗になり、風景が見えなくなる。そのために、今度は汽車が前へと進んでいく感覚へと切り替わる。
この転換が、「私」にとっては「方向が逆になったやうな錯覚」として認識される。
ここでいう「錯覚」とは、動きが後退ではなく前進として感じられるという意味である。
c. 自然の匂
次のトンネルに入ろうとする時、「私」の正面に座っていた小娘が、いつのまにか隣に移動し、閉まっていた窓を開けようとして、窓の戸を下げる。
そして、汽車の中に蒸気の黒い煙が流れ込んでくるにもかかわらず、彼女はそのまま窓を開けてしまう。その結果、もともと喉の弱かった「私」は、激しく咳き込むことになる。
これは、娘が蜜柑を弟たちに投げる前の出来事ではあるが、すでにこの場面において、価値観の逆転を促す要素が潜んでいると言える。
小娘は私に頓着(とんじゃく)する気色(けしき)も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返(いちょうがえし)の鬢(びん)の毛を戦(そよ)がせながら、じっと汽車の進む方向を見やっている。その姿を煤煙(ばいえん)と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなって、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷(ひやや)かに流れこんで来なかったなら、やうやく咳(せ)きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、また元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。(「蜜柑」)
まず注目すべきは、少女が「汽車の進む方向」に目を向けているという点である。
その姿は、汽車の外の光景が後ろ向きに倒れていくように感じていた「私」の意識と、鮮やかな対照をなしている。
そして、「方向が逆になったやうな錯覚」は、単なる錯覚ではなく、「私」が本来意識を向けるべき方向が、汽車の進行方向であることを示しているのである。
もう一つ注目すべきは、少女と自然との関係である。
醜い身なりをし、「二等と三等との区別さへも弁えない愚鈍な心」を持つと思われた田舎娘を叱りつけず、窓を閉めようとしなかったのは、「土の匂いや枯草の匂いや水の匂い」が車内に流れ込んできたからだ。
この出来事は、「蜜柑」の全体的な構造とは直接関係しないようにも思われるが、「沼地」を視野に入れるならば、自然の生命力が「私」の行動に何らかの影響を与えたと捉えることもでき、興味深い。
土、水、草といった自然の「匂い」は、実のところ、田舎娘の「匂い」だったのかもしれない。
さらに、自然の力は、光にも影響を及ぼしている。
先ほど見たように、最初のトンネルに入る際には、冬の夕暮れの外光は弱く、車内の電灯の光の方がむしろ鮮やかであった。
それに対して、二つ目のトンネルを抜け出る時には、車内はまだ暗く、窓の外が「見る見る明くな」っていく。娘が窓から外に首を出す場面とは直接的な因果関係はないものの、象徴的な次元においては、その光の源が娘であると読み取ることも可能だろう。
d. 降り注ぐ蜜柑

こうした前段階を踏まえたうえで、「蜜柑」のクライマックスとなる場面が描き出される。
汽車がトンネルを抜け、ある貧しい村の踏切にさしかかると、「頬の赤い三人の男の子」が立っている。そして、汽車に向かって手を挙げ、大声で何かを叫びかける。
するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思うと、たちまち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑(みかん)がおよそ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。(「蜜柑」)
この光景が現実的でないことは明らかだ。
走る汽車の窓から一人の少女が五つか六つのミカンを、同時に、あるいはほとんど間を置かずに投げ、それらすべてが正確に少年たちの上に届き、しかも宙に留まっているなどということは、ありえない。
つまり、「暖かな日の色に染まっている蜜柑がおよそ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た」という美しい情景は、「私」が心に思い描いた「1枚の絵画」にほかならない。
そのことを際立たせているのは、引用したこの一文が、日本語を母語とする者にとっては不自然に感じられず、そのまま理解できてしまう点である。だが実際には、この文は日本語の特性を巧みに活かし、空から落ちてくる蜜柑の印象を最大限に引き出している、特別な表現だと言える。
この場面のハイライトは、娘が電車から投げた数個の蜜柑が、子どもたちの頭上に降り注ぐ光景である。
一方には、「霜焼けの手」という娘の過酷な現実が、確かに存在している。だが、他方で、「わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報い」ようとして投げられた蜜柑が、宙を舞っている。
しかも、それらの蜜柑は、「心を躍らすばかり暖かい日の色に染まっている」。
ここでは、その情景が、一枚の絵画のように、鮮やかに描き出されているのである。
日本語の特性が活かされているのは、この蜜柑が、まるで天から降り注いでくるかのような印象を作り出している点にある。
英語のように主語と動詞の関係が厳密に定まる言語とは異なり、日本語では、一文の中で視点を変化させても意味の混乱を生じにくく、主語と述語の関係が文中で変化しても問題が起こらないという特性をもっている。
ここでは、その日本語の特性を巧みに活かすことで、視点が「私」から子どもたちへと自然に移動している。
たとえば、「私」は、娘が手を伸ばして左右に振ったと「思う」。この時点では、あくまで「私」の視点から描かれており、蜜柑は「上から下へ」落ちていくように見える。
しかし、文の後半に入ると、視点は子どもたちの側へと移り、蜜柑が「空から降って来」るという印象が立ち上がる。
同じ場面を描いていても、「下に落ちる」のと「上から降り注ぐ」とでは、受ける印象はまったく異なる。
「子供たちの上へばらばらと空から降つて来た」と記されることによって、蜜柑を見上げる子どもたちの驚きや喜びが、ひしひしと伝わってくるのである。
e. 一瞬の定着
弟たちが見送ってくれたことへの感謝の気持ちを込めて、姉が投げた蜜柑が、空から弟たちの上に降り注ぐ。その美しい光景が生み出す人間的な愛の心が「私」に伝わったからこそ、「私」はその光景に深く心を動かされる。
暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落(らんらく)する鮮(あざやか)な蜜柑の色と ーー すべては汽車の窓の外に、瞬(またた)く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。(「蜜柑」)
この一節では、「私」の心に降り注ぐ蜜柑の映像が焼きつけられることが中心となっているため、視点は「私」に置かれている。そのため蜜柑についても、「乱落」という語が用いられ、上から下への落下として描かれている。
「私」は車窓から、日が暮れかけた薄明かりの中で、小鳥のような声を聞き(聴覚)、鮮やかな色彩を目にして(視覚)、心を動かされる。
ここでとりわけ注目すべきは、この情景が実際には一瞬の出来事にすぎないにもかかわらず、「私」の心の中には、「切ないほどはっきりと」「焼き付けられた」という点である。
言い換えれば、現実世界の「一瞬」が、心の中では時を超えて、天から降り注ぐ蜜柑の絵として、鮮明に定着したのだった。

もちろん、この一瞬を体験したからといって、卑俗な現実が劇的に変わるわけではない。それが変わらないままであることは、小娘が「私」の横から元いた正面に席を変え、以前と同じように三等切符を握りしめていることからも、明確に示されている。
「私」はこれからも、「卑俗な現実」に取り囲まれ、「疲労」や「倦怠」を感じ、「憂鬱」に苛まれながら生きていくことになるだろう。
しかし、ここで重要なのは、かつて「不可解な、下等な、退屈な人生」の象徴のように思われたその娘――「私」の顔を煙で包み、息もできないほど咳き込ませたその娘が、蜜柑の光景を生み出す存在でもあると「私」が知ったことに他ならない。
「蜜柑」を締めくくる最後の一文は、「私」の心の中に起こった変化を伝えている。
私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生を僅(わずか)に忘れる事が出来たのである。(「蜜柑」)
「私」が絶えず違和感を感じ続けている周囲の世界が、たった一つの出来事で変化することなどありえない。「蜜柑」は、そんな劇的な変化を物語る作品ではない。
蜜柑の光景は、「私」が汽車に乗っている間に偶然目撃した、ほんの些細な出来事にすぎない。だが、その出来事は、「僅かな」時間とはいえ、「鮮やかな蜜柑の色」の光で「私」の心を照らしてくれた。
もしかすると、それが一瞬であるからこそ、より強い印象を残し、記憶に深く刻み込まれるのかもしれない。
こうした観点視から見ると、「蜜柑」の基本構造である「逆転」は、憂鬱な「私」の中に起こったこの変化を準備するために設定されたと考えることができる。
私たちの肖像
「蜜柑」と「沼地」は、一見すると身辺雑記のようであり、「私」が体験した出来事を簡潔に記述した作品のようにも見える。
実際、1919(大正8)年に雑誌『新潮』5月号に掲載された際には、「私の出遭った事」という総題のもと、「一、蜜柑」「二、沼地」という二部構成で発表された。
ただし、雑誌掲載時には各作品の末尾に数字が記されており、「沼地」に付された「六、九、三」は大正6年9月3日、「蜜柑」の末尾の「八、四、三」は大正8年4月3日を示しているとされ、これらはそれぞれの原稿が書き上げられた日付であると考えられている。
つまり、2年の歳月を隔てて書かれた2つの作品が、「私の出遭った事」として一つにまとめられているのである。

「蜜柑」を「沼地」よりも先に配置したのは、冒頭に「横須賀発上り二等客車」が出てくるからだと考えられるかもしれない。
芥川龍之介の私生活を知る読者であれば、当時の彼が神奈川県横須賀にあった海軍機関学校で英語教官を務めていたことから、「私」=芥川という図式を自然に想起させられるだろう。
このようにして、読者は作品の語り手を作者本人と重ね合わせるよう巧みに導かれているのではないだろうか。
菊池寛は、1922(大正11)年の『新潮』7月号において、「芥川氏の『蜜柑』という作品がある。私は、あの題材を芥川氏から口頭で聴いたとき、すでにその感動に打たれた」と回想している。
芥川がどのような意図で菊池に作品の梗概を語ったのかは定かではないが、「私の出遭った事」を実体験の記録として印象づける方向に働いたことは、疑いようがない。
蜜柑が天から降ってくる場面からも明らかなように、「蜜柑」は決して「私」の体験をリアルに語る小説ではない。にもかかわらず、フィクションであることを忘れさせ、まるで実際の出来事のような印象を読者に与える。そのため、強いリアリティをもって読者に迫ってくる。
そのリアリティ、つまり生(なま)の感覚が、作者・芥川と作品の中の「私」を近づけるだけではなく、「私」と「私の出遭った事」の読者を接近させることにもつながる。
「沼地」で、美術記者が無名の画家を揶揄する言葉に対して、「私」が激しく憤慨する場面は、作者と読者、画家と鑑賞者が同じタイプの人間であることを、私たち読者に伝えている。
そのリアリティ、つまり生(なま)の感覚は、作者・芥川と作品中の「私」とを近づけるだけでなく、「私」と「私の出遭った事」の読者をも接近させることにもつながる。
「沼地」において、美術記者が無名の画家を揶揄する言葉に対し、「私」が激しく憤慨する場面で、「私」は画家と鑑賞者が同じタイプの人間であることを、ふと漏らす。その言葉を聞き逃さないようにしよう。
私は悚然(しょうぜん)として再びこの沼地の画を凝視(ぎょうし)した。そうして再びこの小さなカンヴァスの中に、恐しい焦躁(しょうそう)と不安とに虐(さいな)まれている傷(いたま)しい芸術家の姿を見出した。
「もっとも画が思うように描けないと云うので、気が違ったらしいですがね。その点だけはまあ買えば買ってやれるのです。」
記者は晴々した顔をして、ほとんど嬉しそうに微笑した。これが無名の芸術家が ―― 我々の一人が、その生命を犠牲にして僅(かずか)に世間から購(あがな)い得た唯一の報酬だったのである。(「沼地」)
「私」にとって、無名の芸術家とは、「我々の一人」である。そして、この「我々」とは、生を捉えようともがき、焦燥と不安に苛まれる存在であり――「蜜柑」に倣って言えば、「卑俗な現実」に疲労と倦怠を感じる、憂鬱な気質を持つ者たちのことだと言える。
この関係は、芥川と「私の出遭った事」の読者である私たちとの間にも当てはまる。すなわち、「蜜柑」と「沼地」という作品の向こう側には、作者(=芸術家)である芥川龍之介が、こちら側には私たち読者がいる。
そして、芥川もまた、「我々の一人」なのである。
このように考えると、芥川が探究した生の表現、そして一瞬にして過ぎ去る美の光景の記憶は、そのまま私たち自身の探究であり、私たち自身の記憶ともなる。
芥川龍之介が描き出した芸術家の肖像は、彼と同じ気質を持つ読者一人ひとりの肖像でもある。
Youtubeで二つの作品の朗読を聞くことができる。
文学作品を目で読むだけではなく、耳から取り込むことで、日本語の音やリズムを感じながら、作品を鑑賞することができる。