
江戸幕府は初期に開始した鎖国政策を継続していたが、19世紀に入ると、西欧諸国によるアジアへの植民地政策に対応を迫られるようになった。
一方では、圧倒的な軍事力を持つ欧米列強に対して断固たる拒否を貫き、攘夷、すなわち夷人(いじん)を攘(はら)い、外国勢力を排除しようとする主張があった。
もう一方では、妥協的な態度を取り、何らかの条約を結ぶという現実主義的な立場があった。
こうした対立が、最終的に江戸幕府を倒し、明治維新をもたらした一つの要因になる。
国内に目を向ければ、幕府および諸藩の財政は恒常的に逼迫しており、農民に対しては年貢を、商人に対しては上納金を過重に課すことで財源の確保を図った。
しかし、その結果として農民一揆が頻発し、都市部においても打ちこわし等の破壊的な民衆運動が勃発するなど、社会的混乱が継続的に生じていた。
このような情勢下において、薩摩藩や長州藩などの一部有力藩では、有能な下級武士を登用し、内部改革に着手することで藩政の再建を図った。
これにより、これらの藩は次第に政治的・軍事的な実力を蓄積し、幕府に対抗し得る勢力として台頭していくこととなる。
明治維新後、国家形成の主導的役割を担ったのは、こうした改革過程において頭角を現した若年層の下級武士たちであり、彼らは新政府の中枢を構成することとなった。
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