
夏目漱石の『夢十夜』(1908年)は、題名の通り、10の夢から構成される短編小説集である。そのうちの4編は「こんな夢を見た」という言葉で始まり、「夢」で見た出来事が語られているという印象を読者に強く刻みつける。
ここで注意したいのは、夢はしばしば、荒唐無稽な出来事が現実の秩序とは無関係に展開する非現実的なものと考えられがちだが、しかし、実際には極めて直接的で生々しい体験だとということだ。現実であれば、見たくないものは目をつぶれば見えず、耳を塞げば声も音も聞こえない。しかし夢の中では、私たちの意志では何ひとつコントロールできず、そこから逃れるには目を覚ますしかない。「夢」とは、私たちの内的な体験そのものなのである。
一方で、目が覚めた後に語られる夢には、「見た」という表現が示すように、生の体験とのあいだに距離があることが前提となっている。「見る」ためには、何らかの距離が必要だからだ。したがって、夢を語るという行為は、現実感覚を取り戻した意識が、夢の非現実性に戸惑いながら、内的な世界を再構成しようとする試みであると言える。

第六夜の夢では、鎌倉時代の仏師・運慶が明治時代に姿を現し、鑿(のみ)をふるって仁王像を刻む。にもかかわらず、周囲の誰もその異常さに驚こうとはしない。その驚きのなさが、「夢」の世界であることを示している。
語り手である「自分」は、その世界の中で、運慶に倣い、木材に仁王像を彫ろうとする。しかし、うまくいかず、「明治の木には仁王が埋まっていない」と悟り、そのことで「運慶が生きている」理由を理解する。
その内的な体験は、何を語るのだろう。
短い夢なので、朗読を聞きながら全文を読んでみよう。

第六夜
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い青空まで伸びている。松の緑と朱塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障にならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中でも車夫が一番多い。辻待をして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間を拵えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫るのかね。へえそうかね。私ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折って、帽子を被らずにいた。よほど無教育な男と見える。
運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔の辺をしきりに彫り抜いて行く。
運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って賞め出した。
自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と云った。
運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。
道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽に挽かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html)
(1)リアルな構成要素
どれほど不思議な夢であっても、その中に登場する個々の構成要素は、現実的なものであることが多い。というよりも、夢とはそもそも、現実の事物や出来事を素材として成り立つことが多い。
第六夜の夢でも、運慶や明治の人々は非現実的な存在として描かれてはいない。
a. 運慶

運慶は鎌倉時代前期に活躍した実在の人物であり、最も名前の知られた仏師の一人と言ってよいだろう。1203年、快慶とともに制作した東大寺南大門の「金剛力士立像」(仁王像)の名を知らない者は、明治時代においても、そして21世紀の現在においても、ほとんどいないはずである。

その運慶が仁王像を彫る姿には、何ひとつ不自然なところがない。彼が作業をしている山門の描写はごく自然であり、装束に関しても、「烏帽子」(えぼし)という被り物や、上下で一対となる着物の一種である「素袍」(すおう)などが具体的に言及されており、運慶の姿はありありと目に浮かぶ。
そうした意味において、運慶は極めてリアルな存在であり、夢幻的な要素は何も見られない。仏師は、明治時代の人々の前でさえ、「不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。」それはまさに、時代を超えた天才芸術家の姿として、ごく自然に受け入れられる光景である。
繰り返しになるが、運慶の非現実性を作り出しているのは、「何となく古風である」や「その様子がいかにも古くさい」といった山門や装束に関する描写を通して、過去の人間が現在にいることは本来ありえないという認識が読み手に喚起される点にある。
b. 明治時代の人々
明治維新以降、文明開化と呼ばれる西洋化の波が押し寄せ、人々の生活様式も急激な勢いで近代化された。そうした中では、欧米の科学技術や文化を積極的に受け入れることが急務とされると同時に、近代以前、つまり江戸時代まで続いた日本の伝統とどのように向き合うのかという課題も、必然的に提示されることになる。
運慶の仕事を見ている見物人たちは、そうした時代に伝統と近代化の狭間で生きる人々を代表している。

一方には車夫たちがいる。
人力車は江戸時代には存在せず、明治時代になってから使われるようになった乗り物であり、車夫たちは明治という時代の一端を象徴する存在だと考えることもできる。
しかし、彼らは同時に、近代化から取り残された人々の代表でもある。
明治政府によって四民平等が謳われ、国民皆学の制度の下で多くの人々が学校教育を受けるようになったが、そこから取り残される人々もいた。彼らは純朴で無邪気である一方、学問的な教養には欠けることもある。
「大きなもんだなあ」から始まる運慶の彫刻に関する4人の言葉は、素直さから無知まで、様々な側面を示している。
とりわけ4人目の男は、仁王と日本武尊の強さを比較するといった、学問的にはまったく意味を成さない言葉を発する。そして、「尻を端折はしょって、帽子を被かぶらず」にいる姿も含め、「自分」の目には、「よほど無教育な男」のように見える。
帽子に関して言えば、江戸時代までは帽子が存在しなかった。従って、帽子は近代化を象徴しているのであり、帽子を被らない男は、近代化から取り残された存在だということになる。

その対極に位置するのが「自分」である。
「自分」は語り手でもあり、車夫の一人を「よほど無教育な男」と見なしていることからもわかるように、車夫たちとは異なる教育を受けた人間であると推測される。
もしかすると、帽子をかぶっていたかもしれない。
また、仁王、すなわち金剛力士は仏教における守護神であり、日本武尊は九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えぞ)を討伐した建国神話の英雄であることも知っていただろう。だからこそ、「どちらの方が強いのか」といった素朴な比較が無意味であることを、知的に判断したに違いない。
さらに「自分」は、運慶の彫刻の本質について説明を受けると、すぐに理解することができる。しかも、運慶を真似しようと考え、実際に彫刻に取りかかる。
こうした点から見ると、「自分」は頭で理解し、それを実行に移すことができる実用的な人間であり、近代的な精神を備えた人物といってよいのかもしれない。
最後に、「自分」と車夫たちの対比とは別に、若い男が登場する。
この男は、運慶の彫刻を理解し、それを「自分」に伝える役割を果たしている。そして、「自分」の先導者となり、最終的には、「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」という認識へと導いてくれる。
その男は、ある意味で「明治時代に甦った運慶その人」といってもよいのかもしれない。しかし彼の言葉には何ら不自然なところはなく、あくまで明治の人間としてリアルに描かれている。
(2)「夢」を作り出す仕掛け
では、リアルな登場人物とリアルな出来事からなる物語が、「夢」であるという印象をどのように生み出すのだろう。
第六夜の冒頭には、「こんな夢を見た」という言葉はなく、「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいる」と云う、時代小説であればいかにもありそうな情景から始まる。
しかし、東京・文京区にある護国寺が江戸時代に建立された寺院であることを知っていれば、そこに鎌倉時代の仏師である運慶がいることは本来ありえない、と気づかされる。
一方で、護国寺の歴史について知らなければ、ある寺で運慶が金剛力士像を彫っているという光景は、時代小説の一場面としてごく自然に受け取られるだろう。
そのため、夢の語り手である「自分」は、運慶がいる場所を「鎌倉時代と思われる」と述べた直後に、「ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である」と続けることで、あえてその非現実性に触れ、読者を現実とは異なる世界=夢の世界へと引きこんでいく。
さらに、夢であるという印象を強調するために、運慶が明治時代に現れていることの不思議さにも言及する。
自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
「自分」は不思議だと感じつつも、その場にとどまり、運慶の仕事を眺めている。もしそれが現実であれば、目の前の状況に対してもっと強い疑問や混乱が生じるはずである。だが、そうはならず、そのまま受け入れている。とすれば、それは現実ではなく、「夢」ということになる。
そして、そのことを確かめるのが、「第六夜」の夢の最後に語られる次の言葉である。
それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
鎌倉時代の仏師・運慶が明治時代にまで「生きている」と言い切るこの言葉は、ここまで語られてきた出来事が夢であることを、改めて確認させるものだといえる。
物語を構成するそれぞれの場面は、ごく日常的な光景にすぎない。しかし、そうした何気ない出来事を「夢」の世界として成立させるための仕掛けが、このように巧みに組み込まれているのである。
(3)運慶は生きている
「自分」は、明治時代の知識人であり、実践的な行動力も備えている。すなわち、文明開化の中で近代化された精神を持ち、西洋文明を積極的に受容してきた存在だと考えられる。
では、そうした近代的な人間が、非近代を象徴する鎌倉時代の仏師から、いったい何を学ぶのだろうか。
「自分」が実用的な人間であることは、仁王像を彫ろうとする際に用いようとした木材からも読み取れる。
道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽に挽かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。
この一節からわかるように、木材はもともと薪にするつもりで、嵐で倒れた木を人に頼んで切ってもらったものだった。つまり、彫刻とは何の関係もなく、実用を目的としたものだった。 従って、明治の木に仁王が埋まっていないのは、当然のことといえる。
逆に言えば、運慶の木には仁王が埋まっている。では、それは何を意味するのだろう。
若い男の言葉は、最初、暗示的である。運命の鑿(のみ)と槌(つち)の使い方は、「大自在の妙境に達している」というのだ。その様子は、「自分」の目には次のように映る。
運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。
「自分」は、こうした運慶の動作を無遠慮で無造作だと思う。それにもかかわらず、素晴らしい鼻や眉が次々と形を成していく。まさにこれこそが、「妙境」に他ならない。
その秘密が、若い男によって解き明かされる。
なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない。
ここで語られる「秘密」、つまり「眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」という説明は、近代化された科学的思考とは正反対のものであり、東洋思想的、あるいは日本の自然観に則した思考といえるかもしれない。
科学的思考においては、対象を分析し、最も適切な方法を検討し、綿密な計画を立てたうえで、慎重に作業を進めていく。その根底には、主体と客体を分離し、主体が客体に働きかけるという構図がある。
彫刻のような芸術作品を制作する場合でも、芸術家はまずどのような姿を表現するかという構想を固め、それに基づいて素材に働きかけ、思い通りの作品に仕上げようとする。
運慶の「妙境」は、それとはまったく異なる。仏師は主体的な創造主ではなく、すでに木の中に埋まっている仁王の姿が現れるための補助役にすぎない。だからこそ、無造作に見えるほど「大自在」に鑿をふるう。その身振りに合理的な根拠を求めても無意味であり、ただ「そうだ」としか言いようがない。
そうした非合理的な思考に対して、近代化された「自分」でも直感的に「そんなものか」と思うことはできる。そして、「はたしてそうなら誰にでもできること」などと思い、実際に試してみる。そこにいるのは、実験精神を持つ典型的な近代人だといえる。
しかし、その近代人がいくら仏師の行為を模倣したとしても、木の中から仁王が浮かび上がってくることはない。なぜなら、「自分」が用いる木は、薪として準備された実用的なものであり、自然の中に宿る仁王とは無縁のものだからである。したがって、何度木材を変えて彫ったところで、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」という結論にしか至らない。その悟りは、きわめて当然の帰結だといえる。
ただし、「自分」が悟ったことは、それだけにとどまらない。
ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
この二つの文をつなぐ「それで」という言葉は、きわめて重要な意味を含んでいる。
仁王が明治の木に埋まっていないという否定的な認識に至ったからこそ、護国寺の山門で仁王を刻んでいる運慶が、本当に「生きている」とされる理由が、「ほぼ」ではあるが理解できたのだ。
そのとき「自分」は、「運慶的な世界観」もまた失ってはならないものだと、確かに確認していたに違いない。明治の木に仁王が埋まっていないのだから、なおさら、現代において運慶が「生きていてくれなければならない」のだ。
しかし、それ以上に重要なのは、運慶がかつて制作した仁王像をただ見るだけで、制作の現場に立ち会わなければ、仁王が木の中に埋まっており、運慶はそれを掘り出しているだけなのだということを、決して理解することはできないという点である。
「それで」という接続詞は、「自分」のそうした思いを、さりげなく、しかし確かに伝えているのである。
(4)文明開化の日本
「運慶が今日まで生きている」という驚異こそが、第六夜の「夢」の核心にほかならない。「夢」でなければ、鎌倉時代の仏師が明治時代に「生きている」などということはありえない。そしてこの「夢」が読者に伝えるのは、文明開化を経た近代日本においても、運慶の彫刻に象徴される非近代的な世界観が存続すべきものであり、そして実際に「夢」の中ではそれが存続している、という点である。
こうした夢が、『夢十夜』が出版された明治後期、日本の近代化が進行し、江戸以前の伝統的な社会が大きく変容した時代において、どのような意味を持っていたのだろうか。
a. 「近代」対「伝統」という単純な対立構造の拒否

明治維新の前年である1867年に生まれた夏目漱石は、当時最も欧米文化に精通した知識人の一人だった。初めに漢文学に親しんだが、大学では英文学を専攻、その後イギリスに留学して西洋文化を身体で吸収した。小説家になる前には、東京帝国大学で英文学の講義を担当している。
このような経歴を持つ漱石だからこそ、文明開化によってもたらされた欧米化の波を、当時の日本人がいかに受容すべきかという問題に、誰よりも深く直面していたといえるだろう。
その結果、夏目漱石の精神的な葛藤は、しばしば「近代」に対する批判と解釈され、運慶をめぐる夢も「近代批判」として読まれることが多い。単純化すれば、「明治の木は悪であり、運慶の彫刻こそが真に価値あるものだ」という視点である。
しかし、文明開化を批判し、過去の伝統に回帰すればよいとするような単純な発想では、漱石が直面していた問題は解決できない。
1911年(明治44年)に行われた「現代日本の開化」と題する講演で、漱石は、「外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが」と述べ、自国でしか通用しない視点への皮肉を語っている。つまり、文明開化を経た時代において、単に近代化を拒否し、自国の伝統に回帰するという考え方は、漱石にとって退けるべきものでしかなかった。
b. 外発的な文明開化に対する空虚感

漱石にとって問題だったのは、日本の近代化が自主的なものではなく、外から押しつけられたものであり、そのために、自らのペースで十分に咀嚼・吸収することができなかったという点にある。
「現代日本の開化」では、「内発的」と「外発的」という対比を用いて、明治期の文明開化が「他の力でやむをえず」推し進められたものであると指摘されている。
西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾つぼみが破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。
「外発的な開化」では、新たに取り入れた事象を十分に咀嚼することができないという問題が、次に語られている。
今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針(はり)でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である。
「のそりのそり」と「ぴょいぴょい」、「十尺」と「一尺」という対比は、近代日本における開花の問題点を鋭く浮き彫りにしている。明治時代の日本は、欧米文化を取り入れることに忙殺され、そこに十分な余裕がなかった。
ただし、ここで重要なのは、このような状況が決して外国文化の受容そのものを拒否する態度ではなかった、という点である。
実際、日本の伝統とされるものの多くは、もともと中国大陸から渡来したものである。たとえば仏教も、6世紀に日本へと移入された際には、受容か拒否かをめぐって大きな論争を巻き起こした。その意味では、飛鳥時代にも一種の「文明開化」があったと言えるだろう。
しかし、それ以降の約1300年の間に渡来した文物は、ゆっくりと時間をかけて日本文化の中に吸収され、日本の伝統の中核を形づくってきた。漱石の言葉を借りれば、大陸文化は「十尺」の各段階を踏む余裕をもって消化されてきたために、「内発的な開化」のかたちを取るに至ったのだといえる。
これに対して、「外発的な開化」にはその余裕がなく、結果として文化の消化不良を引き起こす。欧米文化を深く理解していた夏目漱石だからこそ、表面的な文明開化に安易に満足することなく、伝統と近代化の狭間にある葛藤を明晰に分析できたに違いない。
こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐いだかなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草(たばこ)を喫すっても碌ろくに味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨(うま)そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸(ひさん)な国民と云わなければならない。
「空虚の感」「不満と不安の念」、こうした感情こそが、夏目漱石が近代化する日本に対して抱いた思いにほかならない。
他方で、近代化に安易に満足する風潮に対しては、「ハイカラ」「虚偽」「軽薄」「生意気」などと断じ、外発的な開化をあたかも内発的なものと錯覚している、あるいはそう思わざるをえないとすれば、「日本人はずいぶん悲酸(ひさん)な国民である」と嘆いている。
『夢十夜』が出版された1908(明治4)年に撮影された二つの情景を見ると、ハイカラと日常の対比がはっきりと見えてくる。


この二つの側面こそが、夏目漱石が「開化」に対して抱いた感情に他ならない。別の言葉で言えば、「ハイカラ」に対する嘆きの反響として感じられる「空虚感」が、漱石の内的な体験なのだ。
c. 運慶の存在

「夢」が私たちの内的な体験そのものであるとするならば、運慶の夢もまた、漱石自身の内的体験の一端を語っていることになる。
その夢の中で、明治の木と運慶の彫刻とのあいだに、何らかの解決が提示されるわけではない。すなわち、近代日本における外発的な開化をいかに乗り越えるべきかという具体的な方策は示されていない。
それは、「現代日本の開化」の最後で漱石が述べた次の言葉とも呼応している。「ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申した通り私には名案も何もない。」 これこそが、漱石の偽らざる本音なのだろう。
「明治の木には仁王は埋まっていない」という悟りは、外発的な文明開化が「虚無」であるという認識と呼応している。しかし、だからといって、「あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ」という運慶の彫刻観に、そのまま立ち返ればよいというわけではない。合理的な精神から見れば、こうした発想には根拠がなく、荒唐無稽なものに映るだろう。そのような信念のもとに鑿を振るってみたところで、決して運慶の仁王像のような眉や鼻が浮かび上がることはない。それは、「自分」の試みが無駄に終わるという挿話によって、象徴的に語られることだ。
そうした中で、「名案も何もない」と語る漱石は、夢の中で「運慶は今日まで生きている」と感じる。それは、論理的根拠のない妄想かもしれない。だが、内的な体験としては極めてリアルであり、そこに漱石にとっての「真実」がある。「木の中に仁王が埋まっている」と直感的に感じる「自分」が、確かに存在しているのである。
そして、そのような「自分」がいるからこそ、文明開化に対して空虚さを覚えることになる。逆に言えば、その「自分」がいなければ、明治の木を薪として使用することで満足していただろう。
そのように考えるならば、「生きている運慶」は、夏目漱石自身の内的体験として確かに存在していたと言える。そして、その存在によってこそ、漱石は、近代化という「開化」が外発的なものであるという認識を保つことができたのである。
さらに、その視点を外に向けるならば、「生きている運慶」は、日本人が「悲酸な国民」とならないための、一つの気づきをもたらしてくれる存在でもある。
漱石が第六夜の夢に託したのは、まさにそのような思いだったのではないだろうか。
夏目漱石の『六番目の夢』の分析は、大変興味深く、示唆に富んでいます。夢の中でも幻想的な要素と深遠な現実の要素が共存し、その混交が伝統と近代性の間の緊張関係を如実に示している点が特に印象的です。明治という時代の只中に「生き続ける」運慶の姿は、時の流れに抗い、失われるべきではないものを美しく象徴しています。近代とは必ずしも古の感性を消し去るものではなく、むしろ対話していくべきものであるということを、改めて気づかせてくれます。
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