陰謀論を信じること

陰謀論を信じ、客観的な事実に基づいた証拠を示されても、決してその輪から抜け出せない人たちがいる。
2016年頃には「ポスト真実」という言葉が盛んに使われ、「客観的な事実ではなく、個人の信じることが真実とされる」傾向が強まったことが話題になった。
しかし現代では、「ポスト真実」という語さえも忘れられ、自分たちが信じる「事実」の真実性を問おうとする姿勢すら見られなくなっている。

かつて「言った者勝ち」という言葉があった。
今は、発信して“バズり”、再生回数や「いいね」という承認を得た者が利益を得る時代である。
「ファクトチェック」が意味をなさない時代、と言ってもいいかもしれない。

では、日々接している情報をそのまま信じ、反復し、情報源も事実性も確かめようとしない人々が、なぜこれほど増えているのだろうか。
彼らは決して悪意をもつ人々でも、知的に劣る人々でもないように思われる。むしろ社会的な問題に関心をもち、悪に対して義憤に駆られるタイプの人々のようにも見える。
それなのになぜ? そんな疑問が湧いてくる。

(1)陰謀論の構図

陰謀論をそのまま信じる人々は、社会的な関心をもち、犯罪や不正を糺そうとするが、同時に、自分たちの力ではどうしようもないという無力感を抱いているのではないかと思われる。
公にはなっていない隠された「闇の勢力」の存在を信じ、それを撲滅することこそが正義だと考え、そう信じることで快感を得る。

つまり、陰謀論とは、自分たちの目には見えないどこかに「悪の勢力」が存在し、世界を操作しているという構図である。
これまで自分たちはそのことに気づかず、だまされ、不利益を被ってきた。
社会的な弱者はその「闇の勢力」の犠牲者であり、自分たちはそれに気づいた者として、悪を倒し、不正を糺すために声を上げなければならない、と考える。

こうした思いは、「社会的な不平等や不正が解決されない」という不満を、「これまでは隠されてきた悪者の仕業」という単純で一元的な原因に置き換えることで、「安心と満足」を得るというわかりやすい物語として理解されるようになる。

このように考えると、陰謀論は、「理不尽な社会に対して怒りを抱く」→「何も変えられない」→「黒幕がいる」という流れのなかで、安心と満足を得るという心理的な構造に基づいていることが見えてくる。
そして、そのようなストーリーを信じることによって、不安や無力感が心理的に補われることになる。

(2)アイデンティティとコミュニティ

陰謀論を信じる人々は、普段から接している情報源から流れてくる情報をそのまま受け入れ、その出所を確認するという行動はほとんど見られない。むしろ、同種の情報を繰り返し受け取ることで、それが真実だと確信する傾向がある。
また、ファクトチェック機関が情報の誤りを指摘しても、彼らは「ファクト」とは自分たちの信じる情報の方であると見なす。その際には、教授や医師、軍人など、何らかの「権威」を引き合いに出し、情報の真実性を主張することも少なくない。

こうした場合、どんな証拠を示してフェイクであることを立証しても、決して納得せず、時に強い拒絶反応を示すことすらある。
その理由は、陰謀論的な世界観が、彼らにとって単なる信念体系ではなく、「自分自身」や「世界の理解の軸」となっており、彼らのアイデンティティの一部を成しているからである。

したがって、「その話は嘘だった」と認めることは、「自分が誤っていた」と認めることにとどまらず、「自分の存在の土台が崩れる」ことを意味しかねない。
そのために、事実を突きつけられて納得するよりも先に、「自我を守るために拒絶する」方向へと向かうのである。

その上、彼らは孤立した存在ではなく、同じ世界観を持つ仲間に囲まれている。
陰謀論を共有する共同体の中で、「自分たちは真実を知る少数派」という連帯感が生まれ、その中で心理的な安心感を得ることができる。その意味では、カルト的な構造とよく似ている。

したがって、日々受け取る情報の真実性を確認し、真偽を判定する作業を行えば、「仲間との絆を失う」ことに直結する。
そのため、たとえ情報が偽りだと気づいたとしても、それを認めることは難しい。もしそうしてしまえば、所属するコミュニティから排除される危険があるのだから。

結局、陰謀論を一度信じるサイクルに入ってしまうと、そこから離れることは、自分自身のアイデンティティを否定することになるだけでなく、仲間から排除される危険も伴う。
そのため、ファクトを示された場合には、相手の方が情報に騙されている無知な人間であるとか、場合によっては自分たちに対する攻撃だと見なすこともある。

(3)理屈と信念

このように考えると、陰謀論を信じる人々に対して、客観的な事実の認定から出発して理詰めで説得しようとしても、かえって彼らの信念を強化する方向にしか向かわない傾向があることがわかる。
むしろ、彼らは自分たちの砦を固め、同質の情報を次々と受け取り、それを発信することで、仲間の間の連帯感を強めていく。
ここに働いているのは理性的な思考ではなく、心理的な作用である。
つまり、不満や不安を「悪の存在」という明確な原因によるものと見なすことで自分を納得させ、それを共有することで共同体内での安心感を得るのである。

SNSは、そうした共同体にとって最適なツールであり、世界中にそれが張り巡らされた現代では、この傾向はますます強化されていくだろう。
現状では、陰謀論がもはや陰謀論として認知されないところまで来ているとさえ感じられる。

数年前までは「悪」は「闇の政府」といった曖昧な存在だったが、今では「外国人」がターゲットになることもあり、それが「正論」として共有される社会さえ生まれつつある。
信念が事実として認められるところまで来ており、理屈では糺すことができない状況にまで至ろうとしているのだ。


残念ながら、現状でこうした傾向を方向転換することは容易ではなさそうである。
しかし、せめて現状を把握しておくことは必要だろう。
その上で、事実を事実として認定したうえで、異なる信念を持つ人々が対話を行うための前提とできればと思う。

また、陰謀論への傾倒が社会的不満や無力感を補償する心理的作用によるものであることを考えると、社会的な不平等を減らし、不安や無力感を抱くことなく安心感を得られる社会を作ることこそ、世界全体が今まさに進むべき方向だろう。

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