人間の本質は変わらない 小林秀雄のランボー論と本居宣長論を例にして

年齢を重ね、ある時ふと過去を振り返ると、何かを感じ、考え始めた時期に興味を持ったものと同じものに、ずっとこだわり続けていることに気づくことがある。
そして、そんな時、自分の根底に流れている音楽――いわば、人生という楽曲を通して響き続けている通奏低音――は、変わらないものだと痛感する。

その一例として、小林秀雄(1902〜1983)を取り上げたい。

小林が東京帝国大学在学中に最も親しんだのは、フランスの詩人シャルル・ボードレールとアルチュール・ランボーであった。1926(大正15)年にはランボー論を大学の論文集に発表し、翌年にはランボーをテーマとした卒業論文を提出している。
他方、晩年に中心的に取り組んだのは、江戸時代中期の国学者・本居宣長である。『本居宣長』論は約11年にわたって雑誌に連載され、1977(昭和52)年に単行本として刊行された。

ランボーのような破天荒な詩人と、現在の日本でもしばしば参照される国学の基礎を築いた学者とでは、思想的にも表現方法の上でも全く異なっている。
フランスの近代詩や哲学から評論活動を始めた小林秀雄が、『源氏物語』や『古事記』の研究に生涯を捧げた宣長になぜ惹かれ、人生の最後の時期を費やしたのか――それは一見、不思議に思える。

しかし、ランボーと宣長という、まったく接点のない対象を扱った論考を通して、見えてくるものがある。
それは、小林秀雄の批評を貫いて響く通奏低音である。
対象は変化しても、小林の在り方は決して変わらない。ランボーも、宣長も、そして小林自身も、対象に対して外部から理性的にアプローチするのではなく、対象に入り込み、一体化しようとする。そして、そこにこそ創造が生まれる。

小林秀雄自身の言葉を手がかりに、その跡をたどってみよう。

1926年に発表された「ランボー」論には、次の一節がある。

例えば、「悪の華」を不朽にするものは、それが包合する近代人の理智、情熱の多様性ではない。其処に聞えるボオドレエルの純粋単一な宿命の主調低音だ。
(小林秀雄「ランボー I」)

小林の言葉は、勢いによって読者を彼の世界に引き込むという点で、論理的というよりも、むしろ詩的だといってよい。
ボードレールに関するこの一節でも、「理智」「情熱」と「宿命」とが対比され、「純粋単一な宿命の主調低音」という表現によって、ボードレールの詩の魅力が理性によって理解されるものではないという方向へ、読者の意識を導いている。
誰がも耳にする整った音階の根底を流れる音楽にまで達すること――それこそが、詩の音楽を「聞く」ことなのだ。

こうした理性と未知との対比は、ランボーの詩作にも当てはまる。

創造というものが、常に批評の尖頂に据っているという理由から、芸術家は、最初に虚無を所有する必要がある。そこで、あらゆる天才は恐ろしい柔軟性をもって、世のあらゆる範型の理智を、情熱を、その生命の理論の中にたたき込む。勿論、彼の錬金の坩堝(るつぼ)に中世錬金術士の詐術はない。彼は正銘の金を得る。ところが、彼は、自身の坩堝から取出した黄金に、何物か未知の陰影を読む。この陰影こそ彼の宿命の表象なのだ。この時、彼の眼は、痴呆(ちほう)の如く、夢遊病者の如く見開かれていなければならない。或は、この時彼の眼は祈禱(きとう)者の眼でなければならない。何故なら、自分の宿命の顔を確認しようとする時、彼の美神は逃走して了(しま)うから。
          (小林秀雄「ランボー I」)

この文も、「批評の尖頂」「虚無を所有」「生命の理論」「宿命の表象」「美神は逃走して了う」といった硬質な言葉が連ねられ、論理的な展開というより、詩的な言葉の勢いが小林の批評を前へ前へと押し進めている。
そのため、決して理解しやすい文とはいえないことは認めざるをえない。

しかし、そのことを前提にしてこの一節を読むと、ランボーの天才とは「理智」や「情熱」にあるのではなく、「生命」そのものにあるという主張が、強く前面に押し出されていることがわかる。
非金属を純金に変容させる錬金術の坩堝に、ランボーが言葉を投じると、その言葉は黄金の言葉となる。そして、その純金には「何物か未知の陰影」がかかっている。その陰影こそが、ランボーの宿命であり、美であり、彼の詩の言葉の根底を流れる通奏低音にほかならない。

さらに、この「陰影」が詩人の理知によって作り出されるものではなく、意識を超えた宿命によるものであることが、「痴呆」「夢遊病者」「祈禱者」といった比喩によって強調されている。
もし凡人の創造が理知的であり、情熱の組み合わせによって行われるとするならば、天才の創造は運命の表象であり、それは天才の生命そのものだ。

小林秀雄の「批評」の頂点にも「創造」が据えられているとすれば、ここに連ねられた数々の言葉にも、小林なりの「未知の陰影」が差しかかっているに違いない。
それは、小林がランボーの生命の坩堝に身を投げ込んだように、私たち読者もまた同じ坩堝に身を投じることでしか、その通奏低音を聞き取る道はないということでもある。

そして、同じように小林が晩年に惹かれた本居宣長にも、この「未知の陰影」が通奏低音として響いているのが聞こてくる。


「本居宣長」論で小林の姿勢が最も明確に現れるのは、本居宣長が上田秋成との間で戦わせた「日の神論争」に関する部分である。
本居宣長は、日の神=天照大御神が四海万国を照らすとしたのに対し、上田秋成は世界地図を示して、日本は世界の辺境に位置する小さな国であり、他の国々にはそれぞれの神々が存在すると反論した。
誰の目にも明らかなように、秋成の論は、日本の神話と世界の神話の相対性を指摘した合理的なものだった。しかし宣長は、皇国日本は「四海万国の元本宗主たる国」であり、天地は一枚であるため、天照大御神が全世界を照らすのは真実であると、あくまでも主張した。

小林秀雄は、この本居宣長の心情的な信念に理解を示し、次のように述べている。

古伝を外部から眺めて、何が見えると言うのか。その荒唐(こうとう)を言うより、何も見えぬと、何故正直に言わないか。宣長は、そう言いたかったのである。実際、「古事記伝」の註解とは、この古伝の内部に、何処(どこ)まで深く這入(はい)り込めるか、という作者の努力の跡なのだ。 
                    小林秀雄『本居宣長』四二

宣長は『古事記』を「外部から眺め」たのではなく、「深く這入り込」んだのである。この一節からは、論理をたどるのではなく、『古事記』の言葉を自らの言葉と一体化させる宣長の読みに、小林が自らの読みを重ねる姿勢が、ランボー論以来変わっていないことが、はっきりと理解できる。
「理智を、情熱を、その生命の理論の中にたたき込む。」――宣長も、そうした一人だったのだ。

次の一節では、古語の学問的研究では決して到達できない地点に、本居宣長が到達したことが語られている。その方法は、歌うことで、「”古語のふり”を生きてみる」ことだった。

「古事記伝」の訓(よ)みは、まさしく、宣長によって歌われた「しらべ」を持っているのであり、それは、「古語のふり」を、一挙にわが物にした人の、紛(まが)う方ない確信と喜びとに溢(あふ)れている。そういう処で、何かが突破されているという感じを、誰も受ける。この感じは、恐らく正当なものであって、古語の学問的研究と、「古語のふり」を生きてみる事との間には、一種言い難い隙間があり、それを、宣長自身、誰よりも明瞭に、意識していた、と見ていいと思う。古語に関する諸事実は、出来得る限り、広く精しく調査されたわけだが、これらとの、長い時間をかけた、忍耐強い附き合いは、実証的諸事実を動員しての、ただ外部からの攻略では、「古事記」は決して落ちない事を、彼に、絶えず語りつづけていただろう。何かが不足しているという意識は、次第に鋭いものになり、遂に、仕事の成功を念ずる一種の創作に、彼を促すに至ったであろう。

           小林秀雄『本居宣長』四二

実証的諸事実に基づき「外部から」言葉を分析しただけでは、「何かが不足している」のであり、「何かが突破されている」という感じを生み出すことはできない。
古語がどんなに不合理で非理性的だとしても、それを信じて歌い、「古語のふり」を「生きる」ことで、初めて何かを突破することができる。そして、そこに創作が生まれる。
このように述べる小林秀雄の姿勢は、「創造というものが、常に批評の尖頂に据っている」と書いた、ランボー論時の小林秀雄と寸分の違いはないといってよい。

ランボーと本居宣長という、全く異なる対象を、キャリアを始めたばかりの小林秀雄と、キャリアを終わろうとする小林秀雄が論じるとき、同じ言葉が発せられる。
ランボー論以来、小林秀雄が貫いてきた批評の姿勢――対象に理性だけで迫るのではなく、生命そのものに入り込み、一体化して読むこと――は、宣長論においても寸分たがわず生きている。
言い換えれば、ランボーの詩も、宣長の古事記伝も、小林の目には、同じ通奏低音を持つ音楽として響いているのだ。
こうした小林秀雄の言葉に接すると、私は思わず、人間の本質は変わらないと痛感せずにはいられない。


私たちには、自分では明確に意識しない「何物か未知の陰影」があり、それが一生を通じて、通奏低音として静かに流れ続けているのだろう。
そのことに気づけば、年齢とともにその音楽の響きを豊かにし、少しでも美に近づこうとすることも、ひょっとすると可能かもしれない。
たとえ努力の結果がはっきりと目に見えるものでなくとも、その音を聴き、自らの生をその旋律に寄せる営み自体が、人間の本質を形作る営みであり、変わらぬものなのだ。

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