時間を前にした人間の生き方 モンテーニュの考え 

人間は「今」しか生きられない。しかも、その「今」も、「今」と意識した瞬間にはすでに消え去っている。だからこそ「今」を生きるしかないのだが、多くの場合、私たちは「過去」を思い、懐かしんだり、悔やんだりもする。また「未来」を思い描き、希望を抱いたり、不安に駆られたりもする。このように考えると、時間は決して私たちが掴むことのできる実体ではないことがわかる。

それにもかかわらず、私たちは時間に追われたり、時間にとらわれたりし、時には時間と格闘することさえある。そのためか、古代から時間についての考察は数多くなされてきた。その理由は、時間について考えることが、私たちの生き方と深く結びついているからに違いない。

16世紀フランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュ(Michel de Montaigne)は、過去や未来に心を煩わせることなく「今」に意識を集中することこそ、幸福への道であると考えているようだ。
彼は『エセー(Essais)』第1巻第3章「私たちの感情は私たちを超える(Nos affections s’emportent au delà de nous)」の冒頭で、以下のように語っている。

ちなみに、16世紀のフランス語では、まだ冠詞の用法などが定まっておらず、つづりも現代とはかなり異なっていた。
ここでは、つづりのみを現代風に改め、それ以外はモンテーニュが書いた当時のままのフランス語で、彼の言葉を読んでいこう。

Ceux qui accusent les hommes d’aller toujours béant après les choses futures, et nous apprennent à nous saisir des biens présents, et nous rassoir en ceux-là : comme n’ayant aucune prise sur ce qui est à venir, voire assez moins que nous n’avons sur ce qui est passé, touchent la plus commune des humaines erreurs ;

人間はいつも口を開けて(あこがれて)未来のことを追い求めると批難し、現在の様々な善きものを捉え、それらの中に再び腰を落ち着けるようにと、私たちに教える人々(がいる)。私たちは、これからやってくること(未来)に関していかなる力も持たず、さらに、すでに過ぎ去ったこと(過去)に関してと比べてもさえも(未来のことに関して)力を持たないのだから、彼らは、人間的な数々の誤りの中でも、もっともありふれた誤りに言及していることになる。

モンテーニュはここで、les choses futures(未来のこと)、ce qui est à venir(これからやってくること)、les biens présents(現在の様々な善きもの)、ce qui est passé(過ぎ去ったこと)という表現を用い、過去・現在・未来という時間の区分を明確にしている。

そして冒頭から、現在にはすでに「善きもの(les biens)」があるのに、人間は未来のことを追い求める傾向にあること、そしてそれこそが誤りであることを指摘する。
なぜなら、過去のこと以上に未来のことについて、私たちは何の力も持たないからである。
言い換えれば、現在のことをなおざりにして未来を思い描くのは誤りであり、私たちはただ現在を生き、現在に対してのみ力を及ぼすことができるのだ。

興味深いことに、モンテーニュは「誤り(erreur)」という言葉に但し書きを添えている。その理由は、未来のことを考えるという行為が想像力の働きによるものであり、しかもその想像力は自然が人間の中に刻み込んだ性質であって、人間の意識を誤った方向へと導くものであることを指摘するためだと考えられる。

s’ils osent appeler erreur, chose à quoi nature même nous achemine, pour le service de la continuation de son ouvrage, nous imprimant, comme assez d’autres, cette imagination fausse, plus jalouse de notre action que de notre science.

もし彼らが、以下のことを「誤り」と呼ぶとしてのことだが、自然そのものが私たちをその方向へと導くのは、それが自然の営みを持続させるのに役立つからである。そして多くの他の事柄と同じように、自然は私たちの中に、あの誤った想像力を刻み込んでいる。その想像力は、私たちの知識よりも、むしろ私たちの行為をいっそう強く支配しようとするのだ。

18世紀以来、想像力(imagination)は人間にとって肯定的なものとして理解されてきた。そのために、imagination fausse(偽りの想像力)という表現でモンテーニュが何を意味しているのかがわかりにくくなっている。ここでは、16世紀においてはimaginationが、人間を誤りに導く悪しき力と見なされていたことを知っておく必要がある。

être(存在するもの)に対して、image(イメージ)は存在に似ていながら実在せず、人間を誤らせるものだ。imaginationとは、そのimageを作り出す力にほかならない。

私たちは生きているかぎり「今」を生き続け、生命の動きは決して止むことがない。Nature même nous achemine(自然そのものが私たちをそちらに向かわせる)や、la continuation de son ouvrage(自然の働きの継続)とは、そのことを指している。つまり、私たちは「今」の連続を生きながら、必然的に未来の方向へと進んでいく。

そうしたとき、実在する「今」に関しては理性(raison)が働くが、存在しない「未来」に関しては想像力(imagination)が働く。したがって、人間が「未来」を思い煩う傾向、「まだ起こっていないこと」に心を奪われる傾向は、理性ではなく想像力の働きによるものだということになる。

そして、想像力(imagination)が作り出すのは、あくまで不在のイメージ(image)にすぎない。そのため、理性に基づいた知識(science)よりも、「こうなるかもしれない」「こうなったらどうしよう」といった予想が生み出す感情に、より強く働きかける。
Imaginationに付されたjalouseという語は「嫉妬深い」という意味を持つが、ここでは「干渉したがる」「支配したがる」といった意味で理解すべきである。つまり、imaginationはscience(知識)以上にaction(行動)を支配するのである。
人間が知識としては何でもないとわかっていても、実際の行動では想像力が作用し、不安・期待・恐れに支配されるのはそのためなのだ。しかも、そうした傾向は自然そのもの(nature même)によって人間に組み込まれている。

次の一節では、そのことの再確認が行われる。

Nous ne sommes jamais chez nous : nous sommes toujours au-delà. La crainte, le désir, l’espérance nous élancent vers l’avenir, et nous dérobent le sentiment et la considération de ce qui est, pour nous amuser à ce qui sera, voire quand nous ne serons plus. Calamitosus est animus futuri anxius. (Malheureux l’esprit tourmenté de l’avenir.)

私たちは決して自分の居場所にいない。常にそこを超えたところにいる。恐れ、欲望、希望が私たちを未来へと投げ出し、今あるものに対する感覚や考察を奪い去ってしまう。その結果、私たちは、未来にあるであろうもの、さらには私たちがもはや存在しないだろう時のことに、心を遊ばせることになる。「未来に思い悩む魂は不幸である。」(セネカ『書簡』98)

ここでの chez nous(自分の居場所)は「現在」を、au-delà(それを超えたところ)は「未来」を指している。
それはまた、ce qui est(いまあるもの)と ce qui sera(あるであろうもの)、さらに nous ne serons plus(私たちがもはや存在しないであろう)という、動詞の現在時制と未来時制の対比によっても表現されている。

そして、セネカの言葉に示されているように、私たちが思い悩むとすれば、それは意識を未来に向け、想像力が生み出す諸感情――la crainte(恐れ)、le désir(欲望)、l’espérance(希望)――に囚われるからである。
そして、その原因は、nous sommes toujours au-delà(私たちは常にそこを超えたところにいる)ところから来ている。

この章の題名「感情は人間を超える(Nos affections s’emportent au delà de nous)」は、まさにこのことを意味している。
モンテーニュがここで語ろうとしているのは、そうした人間の自然にいかに向き合い、いかにして現在にある善きもの(les biens présents)を享受するか、という問題なのである。


モンテーニュがソクラテスの有名な「汝自身を知れ」という言葉を取り上げるのは、未来へと意識を向けがちで、理性よりも感情に左右されやすい人間の性向に対する対処法を示すためである。

Ce grand précepte est souvent allégué en Platon : « Fais ton fait, et te connais. » Chacun de ces deux membres enveloppe généralement tout notre devoir, et semblablement enveloppe son compagnon. Qui aurait à faire son fait verrait que sa première leçon, c’est connaître ce qu’il est et ce qui lui est propre. Et qui se connaît ne prend plus l’étranger fait pour le sien : s’aime et se cultive avant toute autre chose ; refuse les occupations superflues, et les pensées et propositions inutiles. Ut stultitia etsi adepta est quod concupivit nunquam se tamen satis consecutam putat : sic sapientia semper eo contenta est quod actest, neque eam unquam sui poenitet. (Comme la folie, quand on lui octroiera ce qu’elle désire, ne sera pas contente ; aussi est la sagesse contente de ce qui est présent, ne se déplaît jamais de soi. )
Épicure dispense son sage de la prévoyance et souci de l’avenir.

以下の大きな教えは、プラトンの中でしばしば取り上げられている。「自分のなすべきことをなせ、そして自分を知れ。」この言葉の二つの要素それぞれが、私たちの義務の全体を包み込み、また同じようなかたちで、仲間の要素をも包んでいる。もし自分のなすべきことをなそうとするなら、まず最初の教えとして、今の自分はどのようなものか、そして自分に固有なものは何かを知ることを発見するだろう。そして、自らを知る者は、他人のなすべきことを自分のなすべきことと取り違えることはもはやない。そういう人は、何よりも先に自らを愛し、自らの教養を養う。余計な仕事や、無駄な思考や提案を拒絶する。「愚かさは、望むものを与えられたとしても、満足しないだろう。賢さは、現在あるものに満足し、決して自らを快く思わないことはない。」(キケロ『トゥスクルム論議』第5巻18節)
エピクロスは、賢者から予見と未来への心配を取り除く。

プラトンは『国家』第四巻で、「自分自身の事を行うことこそ正義である」と述べている。その言葉をモンテーニュは Fais ton fait(自分のことを行え)と要約したのだと考えられる。
一方、te connais(汝自身を知れ)は『アルキビアデス I』に由来する。そこでは、ソクラテスがアルキビアデスに対して、「『汝自身を知れ』とはデルポイの神アポロンの言葉であるが、では『自分自身を知る』とはどういうことか」と問いかける場面がある。

モンテーニュにとって、「なすべきことをなす」という実際の行動と、「自分を知る」という認識とは、別々にあるのではなく、一体のものとして結びついている。
彼が述べる「二つの要素の一つが仲間を包んでいる(Chacun de ces deux membres enveloppe (…) enveloppe son compagnon.)」とは、そのことを意味している。

彼の考えでは、自分を知ることによって正しい行いが可能となり、また正しい行いを通して、自分が本来どのような存在であるのかを理解できる。
したがって、行動することだけでも、あるいは自己認識することだけでも、両者は相互に連動して働くため、私たちが果たすべき義務の全体(tout notre devoir)を包み込むことになる。

Celui qui aurait à faire son fait(自分のなすべきことをするような人)であれば、まず ce qu’il est(自分がどのような存在であるか)と ce qui lui est propre(自分に固有のものは何か)を知ることになる。この言葉は、行動が自己認識へとつながることを示している。

同様に、celui qui se connaît(自分を知る人)は、l’étranger fait(他人のなすべきこと=自分とは異質なこと)と le sien(自分のなすべきこと)を取り違えることがない。すなわち、自己認識は正しい行動へと導く。
その正しい行動とは、s’aimer(自分を愛すること)、そして se cultiver(自分を耕すこと=知識を正しく身につけ、教養を養うこと)である。
それ以外の余分な(superflues)ことや、役に立たない(inutiles)ことに心を煩わせないことが大切なのだ。

こうした考察の結びとして、モンテーニュはキケロとエピクロスという古代の二人の賢人に言及し、
「賢さとは現在あるものに心を砕くことであり、未来を思い煩うことは愚かである」という考えを示す。

結局、想像力に惑わされて存在しないものに思い煩うのは愚かなことであり、自分を知り、いま為すべきことをいま行うことこそが、自分を愛し、自分を養うことにつながる。
モンテーニュは、過去・現在・未来という時間の区分に即して、私たちが幸福であるための道を、そのように指し示している。


ここで見てきたようなモンテーニュの考えは、現代の一般的な考え方とは正反対のようにも思われる。
今日では、想像力は人間を前向きに働かせる良い力であり、肯定的なものと見なされている。新しい発明をしたり、将来のことをよく考えて計画を立てることが奨励され、自然災害などに備えるために、今のうちからあらかじめ準備をしておくことが必要とされることもある。そして、そのためには、過去に起こったことをしっかりと記憶にとどめ、それを教訓として将来に備えることが強く求められる。

そう考えると、16世紀のモンテーニュの思想は完全に時代遅れであり、彼の言葉は現代において全く意味を持たないものと見なされるようにも思われる。

しかし、モンテーニュを単に時代遅れとして退けてしまうのは、あまりにももったいない。
彼が批判したのは、未来を考えることそのものではなく、「存在しないもの」に心を奪われ、現実の自分や現在の生を見失う人間の傾向だった。言い換えれば、私たちは目の前にある現実をなおざりにし、不確かな情報によって引き起こされる強い感情にとらえられ、自己不安に陥ったりすることがある。
そのように考えると、モンテーニュの警告は、むしろ現代の私たちにこそ向けられているといえる。

心理学の分野では近年、「マインドフルネス」という概念が注目されている。
それは、過去や未来にとらわれず、「今ここ」にある自分の意識や感覚に注意を向ける態度を指す。
マインドフルネスでは、思考や感情を評価せずに観察し、現実の瞬間に自らをとどめることで、心の平静を取り戻そうとする。この考え方は、モンテーニュが「想像力に惑わされて存在しないものに思い煩うのは愚かだ」と述べた姿勢と響き合う。彼にとって、幸福とは、現在の自己を理解し、受け入れるところにこそ見いだされるものだった。

モンテーニュが強調する「自己を知ること」と「自分の務めを果たすこと」は、マインドフルネスにおける「自己認識」と「現実への気づき」に通じている。彼のいう「自分を愛し、自分を耕す」という行為は、心の状態を客観的に見つめながら、よりよい自己を育む実践ともいえる。そのように考えると、現代の心理学的実践において、モンテーニュの思想が再び意味を取り戻しているのだと考えてもいい。

十六世紀のフランス語で書かれた一冊の書物を読み、二十一世紀の人間のあり方を振り返る。それには努力と時間が求められるが、もしその過程で自分を知り、自分を耕し、そしてそのおかげで自分を愛することができるようになるのなら、その報いは大きい。
モンテーニュの言葉には、そのような可能性が今なお秘められている。

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