フランス文学を知ることに人生の大半を捧げてきたせいで、自分の国である日本のことを、実はほとんど知らずに生きてきた。数年前になってようやく、日本について少しずつ学び始めたのだが、学んでも学んでも、自分の無知ばかりが浮かび上がってくる日々が続いている。
たとえば、『「日本」とは何か』の中で、網野善彦は「現代日本人のほとんどが、自分たちの国の名前が、いつ、どのような意味で定まったのかを知らない」と嘆いている。私自身、日本という国家がいつ成立したのか、また、なぜ「日本」と呼ばれるようになったのか、これまで一度も考えたことがなかった。それどころか、知らないという事実に気づくことすらなかった。
一つの無知を自覚すると、これまで当然のこととして受け流してきた様々な事柄についても、実は曖昧で心もとない理解しか持っていなかったのだと分かってくる。知っているつもりでいたことが、手に取れば崩れてしまうほど頼りない認識にすぎなかったのだ。
(1)「日本」について
歴史家・網野善彦は、「日本」という国家の成立について、次のように述べている。
日本が地球上にはじめて現われ、日本人が姿を見せるのは、くり返しになるが、ヤマトの支配者たち、「壬申(じんしん)の乱」に勝利した天武(てんむ)の朝廷が「倭国(わこく)」から「日本国」に国名を変えたときであった。
それが七世紀末、673年から701年の間のことであり、おそらくは681年、天武朝で編纂が開始され、天武の死後、持続朝の689年に施行された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりよう)で、天皇の称号とともに、日本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、前にのべたように、702年に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后(そくてんぶこう)に対してであったことは、多少の異論はあるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといってよい。(網野善彦『「日本」とは何か』)
この一節によれば、「日本」という名称が国号として用いられたのは七世紀後半である。それ以前の倭人の時代には、複数の部族に分かれた集団が存在し、その中から大和地方を拠点とする一団が、徐々に支配の範囲を拡大していく過程にあった。
『記紀』神話にみられる「国譲り」、すなわち大国主神(おおくにぬしのかみ)が治めていた地上の国を、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に譲ったとされる出来事、そして出雲大社の創建は、大和朝廷が九州南部から東北南部までをある程度まで制圧していったという歴史的事実を、象徴的に物語っていると考えることができる。
「日本」という国名の意味について、網野は次のように記している。
「日本」という国号は、七世紀初頭の遣隋使の持参した倭王の国書の「日出(ひい)づる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無(な)きや」という文言に端的に見られるような、隋の冊封(さくほう)を受けない姿勢の延長線上にあり、(中略)小さいながら唐帝国に対して自立した帝国であることを明示しようとした国号、王朝名であった。
(中略)
しかしこの国号は、(中略)、太陽神信仰、東の方向をよしとする志向を背景としており、中国大陸の大帝国を強烈に意識した国号であることは間違いない。(網野善彦『「日本」とは何か』)
「冊封(さくほう)」とは、中国の王朝が周辺諸民族と取り結んだ上下関係で、中国の皇帝が周辺諸国の首長に王・侯の爵位を授け、外藩国として統属させる体制を指す。
倭国でも、三世紀に魏へ遣使した邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」の称号を受け、五世紀には大和政権に属する倭の五王が南朝の宋へ遣使し、倭国王の国号や朝鮮半島での軍事権行使を認められた。
しかし七世紀以降、倭国は皇帝から地位を授かる冊封関係から離脱し、朝貢関係のみを維持するようになる。これを象徴するのが、「日出づる処の天子」で始まる国書であり、隋と倭国が主従関係ではなく対等の関係であることを示すために、意図的に用いられた表現だった。
こうした経緯を踏まえると、「日本」という国名は、中国大陸から見て東に位置し、太陽が昇る「日の国」を意味していると考えられる。
(2)台湾(中華民国)について
最近、「台湾有事」が盛んに取り沙汰され、「存立危機事態」や「集団的自衛権」が問題として語られている。もし中国が台湾を武力で併合しようとすれば、日本が台湾を防衛するために武力を行使し、中国と戦争状態に入る可能性を認めるという議論だ。
そのような事態を想像すると恐ろしくなるが、それ以前に、私は台湾についてあまりにも無知であったことに気づかされた。
中国は「一つの中国」を主張している一方、欧米諸国や日本は「武力による現状変更に反対」という立場を取っている。ということは、「一つの中国」を全面的に認めていないはずだが、では台湾を国家として承認しているのだろうか。
そんな疑問が浮かんだのは、1971年の国連総会決議2758号で「中国の代表権は中華人民共和国に属する」と決定されたことを、どこかで聞き覚えていたからである。
では、日本は台湾を国家として承認しているのか。
調べてみると、台湾(中華民国=ROC)と正式に外交関係を持つ国は、実際にはごくわずかである。太平洋ではマーシャル諸島、パラオ、ツバル、中南米ではカリブ諸国、グアテマラ、パラグアイ、ハイチ、アフリカではエスワティニ、そしてヨーロッパではバチカン(ローマ教皇庁)のみである。
つまり、アメリカ合衆国もEU諸国も、そして日本も、台湾と正式な外交関係を結んでいない。
一方、台湾政府が公表している資料によれば、「中華民国(台湾)は現在、正式な外交関係を持つ国々のほか、オーストラリア、カナダ、EU諸国、日本、ニュージーランド、英国、米国など、その他の多くの国々と実質的な関係を有している」とされている。つまり、「正式な外交関係」ではなくとも、「実質的な関係」は広く存在しているというわけである。
以上の点からみて、国際法の観点では、台湾の地位は極めて特殊であると言える。
もちろん、「力による現状変更」が許されないのは当然だが、「一つの中国」が国連総会で承認された事実を踏まえると、台湾を中国の一部とみなす論理が生じうるのも否定できない。
しかし、現在の国際法では、永続的な住民、確定した領域、政府の存在、そして他国と外交関係を持つ能力という四つの条件を満たせば国家と見なされる。
台湾政府はこの点を踏まえた上で、「中華民国は主権を有する独立国家であり、自国の防衛力を維持するとともに、独自の外交活動を行っている」と明記している。
実際、台湾は1949年以降、一度も中華人民共和国の支配を受けることなく、独自の政府・軍隊・外交体制を維持してきた。
以上が「台湾有事」に関する基本的な状況なのだが、私はこうした複雑な経緯をまったく知らず、日本が台湾と正式な外交関係を結んでいないという事実すら意識していなかった。
日本と台湾について、私が無知であったことは他にもある。台湾政府が公表している資料にある歴史年表を見て、ようやく理解したことばかりだ。
1683年、清朝の軍隊が台湾西部と北部の沿岸地域を支配し始め、その後およそ200年以上にわたって清の統治が続いた。そして1885年、清朝は台湾を正式に自国の一部と宣言する。
ところが、そのわずか10年後の1895年、日清戦争(1894〜1895)に敗れた清朝は「下関条約」に署名し、台湾を日本へ割譲した。
こうして日本が台湾を統治する時代が始まり、それは日本が第二次世界大戦に敗れた1945年まで、約50年間続くことになる。
台湾が半世紀にわたり日本の植民地であったという事実を、私はぼんやりとは知っていたつもりだったが、その歴史の重さをきちんと理解してはいなかった。
こうした一連の出来事を踏まえると、「台湾は1949年以降、一度も中華人民共和国の統治を受けていない」という認識が、どのように形成されてきたのかが見えてくる。歴史の流れを辿りなおすことで、現在の状況をめぐる前提がどこから来たのかが、少しずつ輪郭を帯びてくるように感じられる。
日本との関係に目を向けると、1952年、サンフランシスコ平和条約の調印後に、中華民国と日本はようやく戦争状態の終結を正式に確認した。
つまり、日中戦争は第二次世界大戦が終わってからさらに7年を経て、ようやく形式的に幕を閉じたことになる。
こんな身近なことでさえよく知らなかったのだと気づくと、自分でも思わず驚いてしまう。だからこそ、どのような事柄であれ意見を述べるときには、まず基礎的な事実を押さえておくことが不可欠なのだと、しみじみ実感するようになった。
16世紀フランスの思想家モンテーニュは、知識を詰め込んだ頭ではなく、よく考える頭の大切さを説いた。私もその考えには強く共感している。しかし同時に、判断の前提には、事実に裏づけられた知識が欠かせないことも、学べば学ぶほど痛切に感じるようになった。自分の無知を知るほどに、その必要性が身に染みてくる。