「日本の縄文時代は戦いがなく、技術的にも優れていて、” 実は ” エジプトのピラミッドの精巧な作りにも、縄文時代の技術が使われている。」


その説を耳にしたとき、ふと縄文時代の土偶が巨大なピラミッドの前に置かれている姿が目に浮かび、思わず笑ってしまった。
ピラミッドが建造されたのは、おおよそ紀元前3千年紀の半ばで、日本の縄文時代でいえば後期から晩期にかけての頃である。

その頃の住居は、地面を掘り下げて床を作り、柱を立てて屋根を支えた半地下式のものだった。
なぜ縄文時代なのか?
縄文時代は、狩猟採集社会を続けながら、環状集落などの定住集落や貝塚が形成され、土器や弓矢の使用、植物栽培などが始まったと考えられており、かなり原始的な生活様式が営まれていたというイメージが、一般的に流通している。それにもかかわらず、なぜ古代文化の粋と見なされうるエジプトのピラミッドと縄文が結びつけられるのだろうか。
縄文ロマン
縄文時代に関する一つの「ロマン」がある。
そのことは、縄文時代に続く弥生時代と比較してみると、よくわかる。縄文時代はユートピア化されることがあるのに対し、弥生時代はユートピアと見なされることがほとんどなく、むしろディストピア化されることさえある。
弥生時代になると、大陸から水稲農耕が伝わり、稲作中心の生産経済へと移行し、定住生活が本格化してムラ(集落)が形成された。また、鉄製の農具や武器も伝来し、生活が豊かになる一方で貧富の差も生まれ、富や土地をめぐる争いが起こるようになる。
こうした、縄文時代の狩猟採集から稲作中心の生産経済への移行は、後の時代の国家形成へと向かう過程だと見なされる。
そして、その対比の中で、狩猟採集を中心とした縄文社会は、「自然と調和」し、「分業や階級ではなく協力と分け合い」を基本とする社会であり、農耕・階級・財産の蓄積がもたらす「貧富の差」「紛争」「戦争」とは無縁だったという仮説が提示される。
そしてそこから、縄文はユートピア的な社会であったという主張がなされることになる。
こうした仮説が、科学的なデータによって裏づけられるように見えることもある。例えば、縄文期の人骨約2,500体を調査した結果、暴力による骨折や傷はごく少数(人口比で1.8%)だったというデータから、「縄文人同士の争いは頻繁ではなかった」「縄文時代には人々の争いがほとんどなかった」といった結論が導き出された。
そして、このように単純化された推論に基づいて、縄文は「平和で調和した理想社会」だったという説が、あたかも科学的に証明されたかのように流布していくことになる。
要するに、ここで語られる「縄文」とは、現代文明に対するアンチテーゼであり、環境破壊、格差、戦争、ストレスなど、現代社会が抱えるさまざまな問題が存在しない社会として夢見られたものだと言える。
日本ロマン
このように単純化された推論に基づき、縄文は「平和で調和した理想社会」だったという説が、科学的に証明されたかのように流布していくことになる。個別の考古学的データが、当時の社会全体の性格を直接示すものとして受け取られてしまう点に、その飛躍がある。
「縄文=ユートピア」のイメージが受け入れられやすい背景には、日本の歴史において縄文が最も古い時代区分であり、日本の起源を思わせる効果を持つこともある。そこでは、検証可能な歴史像というよりも、「始まりの物語」としての縄文が求められているとも言える。
「本来の日本」とは、自然と調和し、人々が争うことなく平和に暮らし、誰もが幸せな国だったと信じることは、愛国心をくすぐる神話であり、また日本人の自己肯定感を高めてくれることにもつながる。その意味で縄文は、歴史的事実というよりも、価値観を投影するための鏡として機能している。
しかも、平和で、経済的な格差がない平等な社会であり、自然との共生を重視し、SDGsとも親和性が高い社会のあり方は、現代社会が目指す方向性と一致しており、それが過去の日本においてすでに実現していたとすれば、日本こそが世界をリードすべき存在であるという思いを抱かせてくれる。
この点において、縄文像は未来志向の理想を過去に仮託する装置としても用いられている。つまり、縄文社会をユートピアと見なすことは、日本という国の価値を高め、そこにアイデンティティを見出す人々に大きな満足を与える効果をもたらすことにつながる。
なぜピラミッドなのか?
エジプト文明は世界最古の文明の一つであり、ピラミッドはその象徴でもある。そこに縄文時代の技術が使われているとしたら、日本は古代からすでに世界最高レベルの技術立国だったことになる。
普通に考えれば、そのようなことはあり得ないと思われる。しかし、それにもかかわらず、そうした説を信じる人がいる。その際、いくつかの説が提示されることもある。

いわゆる日本ピラミッド説の出所は、1930〜40年代に酒井勝軍(さかい・かつとき)が唱えた、「日本にもピラミッドがある」という主張に求められるだろう。彼は、ピラミッドとは必ずしも人工的に造形されたものではなく、自然の山を本殿とする場合もあり、頂上付近に神殿のような岩山が存在するといった条件を満たすものだと定義した。そして、古くから神武天皇陵として崇められてきた広島県の葦嶽山(あしたけやま)を、「日本ピラミッド」と認定したのである。この葦嶽山は、現在でも「太古日本のピラミッド」として紹介されることがある。

自然の山をピラミッドと見なすことは、逆に、自然の山が人工物であるという仮説を生み出すことにもつながる。
その推論をさらに進めると、今度は、縄文時代の日本にもピラミッドやピラミッド型の山、あるいは巨石文化が存在し、縄文人はすでに高度な巨石建造技術を持っていたという仮説へと展開していく。そして、東北地方の環状列石などを根拠として、縄文時代にもピラミッド的遺構が存在したとする説が提示される。
こうした仮説を積み重ねることで、古代日本に巨石文明が存在していたという確信が形作られると、古代エジプトのピラミッドもまた、日本の技術力によって建造されたのではないかという説が、いかにも根拠を備えたもののように感じられてくるかもしれない。
しかも、最初に日本のピラミッドとして認定された葦嶽山が、初代天皇である神武天皇の陵と見なされていた以上、日本の天皇がエジプト文明の起源に位置づけられるという幻想が生まれるのも、不思議ではなくなる。
江戸時代中期、本居宣長は、天照大御神を全世界を照らす神であると主張したが、それと同様に、ピラミッドの起源に日本があるとする発想は、日本人のプライドを強くくすぐる効果を持っていると考えていいだろう。
心理的要因
自尊心をくすぐり、気持ちよくしてくれる言葉があったとしても、それらに根拠が欠けていれば、かえって不信感を抱くだろう。
「エジプトのピラミッドは縄文時代の技術で作られた」という説にしても、オカルト論や擬似考古学的文脈でしばしば取り上げられるテーマだが、自然地形や偶然の形状を人工構造物とみなすことが多く、科学的かつ考古学的に根拠の薄いと言わざるをえない。
それでも信じる人々がいるとしたら、そこには何らかの心理的な作用が働いているに違いない。
日本賛美ロマン
古代エジプトのピラミッドの技術は日本から伝わったという説は、日本は世界最古の文化を持っていたとか、縄文人は超高度な文明を持っていたといった思いへとつながる。
日本には長い歴史があり、神々に連なる天皇家が現在でも日本の象徴として存在し続けている。国土の面積は小さいかもしれないが、島国であるがゆえの独自性もある。
そうした思いは、「自分たちのルーツは特別なものだ」という自尊心を満たすだろう。しかも、それが古代エジプト文明と結びつけば、古代日本は世界の中心であったとか、世界文明の起源は日本にあるといったナショナリズムへと結びついていく。
人間には、自分の文化や民族に誇りを持ちたいという自然な欲求があるが、ピラミッド日本起源説は、その欲求にきわめてよく応えるものになっている。
隠された事実を私だけが知るロマン
縄文時代の土器や土偶、遺跡などを少しでも知っていれば、その時代の日本列島に巨石文明が存在し、その技術が古代エジプト文明に伝わったといった説は、否定せざるをえない。しかし、実証的な検証が不可能であり、科学的に証明されていないことが、かえって「事実が隠されているのだ」という発想を生み出す。
そうした見方に立てば、ピラミッド日本起源説は、隠された事実を暴いているものだと感じられるようになる。しかも、その真実を理解しているのは、その筋に通じた自分だけである。そのように思うことは、密かな優越感をかき立てることになる。つまり、学問的・科学的に否定されればされるほど、非科学的な説の魅力はかえって増し、それに対する信仰は強くなる。
研究は利権に支配されているため、学者は真実を語らず、本当の歴史は意図的に隠されている。そのように考えることで、好奇心は強く刺激され、「本当のことを知りたい」という欲求が自然に生まれてくる。
隠された真実、多くの人々がまだ知らない古代の秘密を、自分だけが知っている。あるいは、大衆はだまされているが、自分は目覚めた側にいて、その真実を人々に伝える役割を担っている。だから、あなたに本当のことを教えてあげる。そのような意識が、こうした説を信じる人々を強く動かし、優越感を刺激し、快感を生み出す。
こうした心の動きこそが、陰謀論の基盤にほかならない。
学者や大手メディアといった権威が流す情報とは異なる情報に接し、多くの人々に隠されている真実を自分は知っているという思いは、自己肯定感を補強する。その上、古代文明の起源に日本があったという確信は、日本人としての誇りをくすぐることにもなる。
その意味で、ピラミッドと縄文を結びつけることは、二重の意味で満足感を与えてくれる説となる。
では、どうして普通に考えれば馬鹿げていると思われる話によって、自己肯定感を強めようとするのだろうか。
その理由は、意識的か無意識的かは人によって異なるだろうが、自己肯定感が低く、何らかの理由で劣等性コンプレックスに苛まれているからだと考えられる。
人と比較して自分を下に置いたり、あるいは上に置いたりすることは、人間にとって避けがたい習性だが、そうした比較が心理的な負担になる人々にとっては、常識とは異なることを自分だけが知っているという感覚によって劣等性コンプレックスを補おうとすることは、心理的に見て自然な反応だと言える。
しかも、学者などの権威に反して自分が真実を知っているという構図は、劣等性コンプレックスを補うための強い駆動力となる。
日本という国についても、小さな島国であり、一時期は経済的発展によって世界を驚かせたものの、どこか低く見られているのではないかという思いを抱くことがあるかもしれない。つまり、自分が所属する日本は特別であるはずなのに、他者から十分に認められていないと感じたとき、人は誇大な集団イメージを信じやすくなる。
しばしばマスコミで、外国人が日本でこんな素晴らしいことを発見したといった情報が流されるが、それはまさに「特別な日本」意識の典型だと言える。
こう言ってよければ、ここまでに触れてきた様々なロマンの底には、結局のところ、劣等性コンプレックスが横たわっているのである。
ここで注意しておきたいのは、こうした考え方に惹かれる人々が、決して知的能力に欠けているわけではないという点である。むしろ、物事をそのまま受け取らず、疑問を持ち、理由を考えようとする姿勢を強く持っている場合も少なくない。
彼らは、自分自身の問題に限らず、社会で起きているさまざまな出来事に対しても漠然とした違和感や不満を抱き、それをうまく解消できないことにフラストレーションを感じていることが多い。そして、その原因を理解し、説明し、可能であれば乗り越えたいと望む。
しかし、現実社会は複雑で、問題の構造は見えにくく、簡単には答えが出ない。
そうした状況の中で、批判精神が強く働き、学者や大手メディアといった権威が示す説明そのものが疑いの対象となることがある。公式の説明をそのまま受け入れない態度自体は、必ずしも否定されるべきものではない。だが、その「疑う力」が強まる一方で、納得できる代替の説明を強く求めるようになると、物事を単純明快に説明してくれる説に引き寄せられやすくなる。
陰謀論は、その点で非常に魅力的である。複雑な社会問題や歴史の謎を、「本当の真実は隠されている」「少数の人間だけがそれを知っている」という構図で一気に整理してしまうからだ。理解しようとすればするほど、すっきりとした説明を欲し、その結果、理性的には疑問が残る理論であっても、その明快さに強く惹かれてしまうことがある。
こうした傾向は、必ずしも個人の弱さだけに帰せられるものではない。自分の置かれた立場や評価に対して満たされない思いを抱いたとき、人は自然と、自分の価値を別の形で確認しようとする。その一つの形が、「多くの人が知らないことを自分は知っている」という感覚である。
日本という国に対するイメージも、ここに重なってくる。小さな島国でありながら独自の文化を持ち、かつては経済的成功によって世界の注目を集めたが、現在は十分に評価されていないのではないか、という思いが生まれることもある。そのとき、「本来の日本は特別な国だった」「世界文明の起源に関わっていた」といった物語は、強い魅力を帯びる。
しばしばメディアで紹介される「外国人が日本の素晴らしさを発見した」という話題が好意的に受け止められるのも、同じ心理構造の表れだろう。そこには、日本はもっと評価されるべきだ、という思いが投影されている。
このように見てくると、縄文ロマンやピラミッド日本起源説の背景には、単なる空想や無知ではなく、自己肯定感を支えようとする人間の自然な心の動きがあることがわかる。劣等感や不安、満たされなさが、必ずしも意識されない形で、こうした物語への共感を強めていくのである。
「エジプトのピラミッドは縄文時代の技術で作られた」という説を検討することは、特定の人々を否定するためではなく、なぜそのような説が魅力的に感じられるのか、そして陰謀論がどのような構造で人の心を捉えるのかを理解するための、一つの手がかりになるだろう。