釜山にて 古代の東アジア交流圏 3/4 倭国の朝鮮半島進出

(4)「七支刀」と「好太王碑」 

3世紀の卑弥呼の時代以後、倭国に関する中国の史書の記述は長く途切れがちとなり、4世紀から6世紀にかけての日本列島の状況は、史料的に「空白」の多い時代とされている。しかし、日本と韓国には、それぞれ日本列島と朝鮮半島とのかかわりを考えるうえで重要な資料が残されている。

その一つが、奈良県の石上神宮に伝わる「七支刀(しちしとう)」に刻まれた銘文である。この銘文からは、4世紀には倭と百済のあいだに、何らかの政治的・外交的な関係が存在していたことがうかがえる。

もう一つは、414年に建てられた高句麗(こうくり)第19代王・好太王(広開土王)の業績を称えた「好太王碑(こうたいおうひ)」である。その碑文は、4世紀後半から5世紀初頭にかけての朝鮮半島諸国の勢力争いと、その中で倭国がどのように関与していたのかを知るための、数少ない同時代史料の一つとなっている。

こうした資料は、日本列島の倭人と朝鮮半島に住む人々が密接な関係にあったことを示す痕跡であり、古代の「東アジア交流圏」において、現代の国境意識や、海が国を隔てるといった先入観から離れて見ることで、たとえ戦闘に関わる出来事であっても、列島と半島の間に存在した相互的な交流の実態を、現代の私たちに伝えてくれるものである。

A. 石上神社「七支刀銘文」

現在の研究では、「七支刀」は西暦369年に製作された可能性が高いと考えられている。しかし、刀身の全面が鉄の錆に覆われており、銘文の文字はきわめて判読しにくい状態にある。そのため、文字の読み取り自体にも不確かな点が多く、解釈についても研究者のあいだで意見が分かれている。

とはいえ、断片的ながら判読可能な部分も存在し、百済王が倭王にこの刀を贈ったものであるという点については、現在では有力な見解の一つとされている。

(表面) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作
(裏面) 先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世

(表面)泰和四年(369年)とみられる年の、□某月十六日、丙午の日の正午に、百回鍛えた鉄を用いて七支刀を作った。この刀は、多くの武器を退ける霊力を持つとされ、侯王に献上するにふさわしいものであるため、このように作らせた。
(裏面)先代以来、このような刀はかつて存在しなかった。百済王の代に、何らかのめでたい出来事が生じたため、倭王のために、この刀を命によって作り、後の世に伝えることとした。

卑弥呼の時代、朝鮮半島南部には、弁韓(弁辰)、馬韓、辰韓などの小国が分立していた。しかし4世紀に入ると、北部では高句麗が満州にまで勢力を広げて強大化し、南西部には百済、南東部には新羅が台頭する。一方、半島南部、特に洛東江流域を中心とする地域には、加羅(から)あるいは伽耶(かな)と呼ばれる小国群が存在していた。

こうした状況の中で、百済王が倭王に「多くの武器を退ける霊力」を持つ刀を贈った背景として考えられるのが、強国・高句麗による南方への軍事的圧迫である。

4世紀初頭、中国では晋王朝の統治力が衰え、政治的混乱が続いていた。
この時期、高句麗は313年に中国勢力の拠点であった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼし、さらに帯方郡(たいほうぐん)を含む朝鮮半島西北部における中国勢力の影響力を大きく排除した。
しかしその後は、中国系勢力の反撃や北方情勢の制約を受け、北方への進出は停滞し、次第に南方へと勢力を向けるようになる。

その矛先が向けられたのが、かつて馬韓(ばかん)の地に建国された百済(くだら)だった。
4世紀後半には両国の対立が激化し、371年には百済が高句麗(こうくり)を攻撃し、高句麗の南方における重要拠点であった平壌城を脅かす戦いも起きている。

このような激しい勢力争いの中で、369年頃、百済が倭と何らかの軍事的・政治的協調関係を結んでいた可能性が指摘されている。「七支刀」は、こうした両者の関係を背景に、百済で製作され、倭に贈られたものと考えられている。

百済との協力関係は、倭にとっても大きな利益をもたらした。というのも、中国文明の周縁に位置する百済は、倭よりも進んだ文化を有しており、そこから倭国へ、鉄器や武器の製作技術、漢字文化、さらには政治上の諸制度などがもたらされたと考えられるからである。

したがって、「七支刀銘文」は、こうした両国の接近を示す、きわめて貴重な同時代資料なのだ。

B. 高句麗の「好太王碑」

好太王碑(広開土王碑)は、414年に建立された高句麗第19代王・好太王(広開土王)の業績を顕彰する記念碑である。碑文には、4世紀末から5世紀初頭にかけての対外戦争を中心とする事績が記されており、当時の東アジア情勢を知るうえで貴重な史料とされている。

ただし、この碑文は出来事を客観的に記録した年代記ではなく、あくまで王の威業を称えることを目的としたものである。
「広開土」という王号も、「広大な領土を開いた王」という意味を持ち、その名自体が王の功績を讃美する性格を備えている。したがって、他国についての言及は、必然的に、王が戦い、打ち破った相手として描かれることになる。

また、四面に刻まれた約1800字のうち、およそ260字は碑面が欠損しており、その部分はまったく判読できない。さらに、残された文字から読み取れる内容についても、日本・韓国・中国のあいだで解釈が分かれる箇所が少なくない。

ここではまず、碑文の中で倭について最初に触れられる部分を検討してみよう。

百殘新羅舊是屬民,由來朝貢,而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。

百済と新羅は、もとより属民であり、古くから朝貢していた。ところが倭が辛卯の年(391年)以来、海を渡って百済を破り、さらに新羅に及び、これらを臣民とした。
(□□は欠字であり、無理な補字を避けることが望ましい。)

碑文には、百済や新羅が「属民」であり、「朝貢」していたとする表現が見られる。しかし、これらの語が示すような明確な主従関係が恒常的に存在していたことを裏づける同時代史料は確認されていない。こうした表現は、高句麗が自国の支配的立場を強調するために用いた政治的・修辞的な言い回しであった可能性が高いと考えられている。

その文脈の中で、碑文は「倭」が海を渡って百済や新羅に及び、これらを「臣民」としたと記す。この記述も、史実をそのまま伝えるというよりは、倭の軍事的存在感を強調することで、最終的にその倭を打ち破った好太王の偉業を際立たせる効果を狙ったものと見ることができる。

その後、396年から404年の8年間に渡る戦いの経過が語られていく。
396年、高句麗の王・好太王は百済に攻め込み、多くの城を落としたうえで王都を包囲し、百済を降伏させた。百済は高句麗に従うことを約束し、王子や貴族の子弟が人質として差し出された。
しかし399年になると、百済はこの約束を破り、倭と結んで再び高句麗に対抗した。倭の軍勢は新羅に侵入し、王都を包囲したため、新羅王は高句麗に助けを求めた。
400年、好太王は大軍を派遣して新羅を救援し、包囲していた倭軍を退却させた。さらに高句麗軍は倭軍を追撃し、任那加羅方面の拠点も攻略したとされる。
その後404年、倭軍は帯方郡の旧領域を越えて高句麗に侵攻したが、好太王が自ら迎え撃ってこれを打ち破り、倭軍に壊滅的な打撃を与えた。

このように好太王碑文が伝えるかぎり、4世紀末から5世紀初頭にかけての一連の戦いでは、高句麗が主導権を握り、倭は各地で退けられた存在として描かれている。
しかし、「好太王碑」に描かれるような高句麗側の一方的な完全勝利によって、すべてが直ちに終結したわけではなく、その後も緊張関係や軍事的対立は一定期間続いたと考えられている。
繰り返すことになるが、この碑文は歴史的事実を忠実に記録した年代記ではなく、広開土王(好太王)の業績を顕彰することを目的として作成されたものである。

その中で、百済や新羅、さらには小規模な集団の連合体であった加羅などの諸勢力よりも、碑文表現の上では倭が最も強調された軍事的対抗者として描かれている点は注目に値する。これは、4世紀末から5世紀初頭にかけて、朝鮮半島において倭の存在感が高まっていたことを示唆するものと考えて差し支えないだろう。

一方で、現在の研究では、「好太王碑」に見える「倭」が具体的にどのような集団を指すのかについては、なお学説が分かれている。近畿地方を中心としたヤマト政権を想定する説、北部九州の倭人集団とする説、あるいは朝鮮半島南部に居住していた倭人を含む複合的な勢力と見る考え方などがあり、決定的な結論には至っていない。

この時代を理解するうえで重要なのは、現代の国家意識や固定された国境を前提とするのではなく、東アジアの広い地域が相互に影響を与え合う交流の場であったという視点である。「好太王碑」は、そのような動的で重層的な交流世界の一断面を、高句麗王権という特定の視点から伝える史料として位置づけることができる。


C. 空白の4世紀 ?

日本史の中で、4世紀はしばしば「空白の世紀」と呼ばれる。それは、中国の史書に倭に関する記述が見られず、これまで見てきた石上神宮の「七支刀」や高句麗の「好太王碑」のような、断片的な痕跡しか残されていないことから、「空白」と表現されてきたためである。

しかし実際には、日本列島内では巨大な前方後円墳が大和(やまと)を中心に各地へと広がりを見せており、同時に朝鮮半島との往来も盛んに行われていた。
とりわけ4世紀後半からは、人や物、技術、文化が活発に行き交い、倭人が半島へ進出する一方で、半島の人々が列島へ渡来し、さまざまな分野で新しい知識や技術をもたらしていたことが、考古学的・文献史学的に確認されている。

A. 日本列島への渡来人の移動

高句麗の南下政策は、戦乱を通じて朝鮮半島南部の社会を不安定化させ、人々の居住環境を大きく揺るがした。その結果、生活基盤を失った人々が、集団で海を越えて日本列島へ渡る動きが加速したと考えられている。

その中には、戦争で敗れた国の人々が逃れるという側面もあったが、百済や加羅の人々の中には、王族や貴族に連なる人々、鉄器生産や機織・土木などに従事した技術者集団、さらには文字や暦を担う知識層も含まれていた。

倭の側でも、こうした先進的な専門技能を有する人々を積極的に受け入れ、自らの技術や文化の向上を図ろうとする動きがあったと考えられる。
実際、渡来人たちは、鉄器や土器の制作技術とどまらず、馬や馬具をもたらし、土木・治水技術を通じて大型古墳や宮殿の建設に関与し、また漢字文化の導入にも大きな役割を果たした。

その結果、彼らは倭社会の中で一定の地位を与えられ、次第に倭人社会の一員として同化していったとみられる。

B. 日本列島から朝鮮半島へ渡った倭人たち

日本列島への渡来人の移動とは逆に、朝鮮半島へ渡り、一定期間にわたって滞在・定住した倭人たちが存在した可能性も、考古学的に指摘されている。

実際、考古学の成果として、とりわけ加羅(から)のあったとされる朝鮮半島南部地域では、日本列島系とみられる石製品や武器類、土器などが出土している。これらの遺物は、単なる交易関係を示すにとどまらず、一定数の倭人、あるいは倭系文化を担った人々が現地に滞在し、生活していた可能性を示唆するものと考えられている。

さらに、4世紀後半から5世紀にかけて、日本列島的要素を備えた墓や、倭系と半島系の要素が混在した埋葬例も確認されており、両地域の人々が密接に関わり合いながら生活していた状況をうかがい知ることができる。


このように歴史的な事実をたどってみると、日本列島の倭人と朝鮮半島南部の人々との移動や交流は、一方向的なものではなく、双方向的な往来と一定の混淆を伴う、動的な関係であったと理解することができる。

この時代を理解するうえでは、現代の国家意識や固定された国境を前提とするのではなく、むしろ東アジアの広い地域全体が、相互に影響を与え合う交流の場であったことを意識することが重要である。
石上神宮の「七支刀」や高句麗の「好太王碑」は、そのような動的で重層的な交流世界の一断面を、特定の立場や視点を通してではあるが、現代の私たちに伝えてくれる貴重な資料だといえる。

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