
日本の歴史を振り返る際、8世紀初頭に成立した『古事記』と『日本書紀』を欠かすことはできない。というのも、これらは現存する日本最古の文字史料だからである。さらに、同じ世紀の後半に成立した『万葉集』を含め、これらの文献は、「日本」という国家意識を最も直接的に反映した、きわめて貴重な資料であるといえる。
ちなみに、古代において日本列島の有力な部族集団を統合していた政治的主体は、中国王朝を頂点とする東アジア交流圏の中で、「倭」という名称で認識されていた。
その国号が「倭」から「日本」へと転換していくのは、7世紀後半、天武天皇が編纂を開始し、持統天皇が689年に施行したとされる「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を含む、天武・持統政権期の国家制度整備の過程においてであると考えられている。
また、国外においては、702年(大宝2年)の遣唐使が、唐側で用いられていた「大倭国」という国号を退け、「日本国」を称したことが、現存史料に確認できる最古の「日本」という国名の使用例であるとされている。
この国号の変更は、天武天皇が先代の天智天皇から平穏に皇位を継承したのではなく、天智天皇の第一皇子である大友皇子との間で、672年に「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれる内乱を戦い、激しい争いの末に皇位を獲得したという事情と、無関係ではない。
中国の史書が、それぞれの王朝の正当性を確立するという視点から編纂されるのと同様に、天武天皇が「国史」の編纂を命じたことを出発点として成立した『古事記』や『日本書紀』は、天武天皇に始まる王統を揺るぎないものとして位置づけることを、重要な目的としていたことは確かである。『万葉集』もまた、その思想的文脈の中に位置づけることができ、その精神が最も直接的に表現されている文献であるといっても過言ではない。
その精神は、『万葉集』に多く見られる「大君(おほきみ)は神にしませば(皇者神)」という表現によって、端的に示されている。すなわち、天皇は神としてこの世に現前する存在であり、いわゆる現人神(あらひとがみ)として捉えられているのである。
天武天皇や持統天皇たちは、自らの王統が神に連なる一族であることを、史書や和歌という形で記録させることによって、皇位継承の正当性と安定性を確保しようとしたのだと考えられる。
(1)柿本人麻呂「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(ひんきゅう)の時に」

天武天皇と皇后の鸕野讚良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)の間に生まれた草壁皇子(くさかべのみこ)は、皇位に就くことなく、持統天皇3年(689年)に28歳で早世した。その死に際して柿本人麻呂が詠んだ長歌「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(ひんきゅう)の時に」(2-167)には、天皇を神格化する強い表現が用いられており、天皇が神の系譜に連なる存在であるとする思想が、きわめて印象的に描き出されている。
この長歌では、『古事記』や『日本書紀』の冒頭を飾る天地開闢神話を想起させる語彙や構図が用いられており、8世紀初頭に成立する記紀神話と同質の神話的世界観が背景にあることがうかがえる。
なお、「日並(ひなみし)」とは、太陽を象徴する「日」に並ぶ存在、すなわち正統な皇位継承者を意味する尊称と考えられており、皇太子であった草壁皇子に対して用いられた称号である。また、「殯宮(ひんきゅう)」とは、天皇や皇族の死後、本葬に先立って遺体を仮安置する施設を指し、その期間は生死が未だ分かれない状態と捉えられ、死者の復活を祈念して歌舞や奏楽が行われた。

柿本人麻呂はこの長歌の前半において、父である天武天皇を、天上から降臨した神として描き、後半では、その天下を継承するはずであった草壁皇子が志半ばで亡くなったことへの深い嘆きを表現している。
天地(あめつち)の 初(はじ)めの時の ひさかたの 天(あま)の河原に 八百万(やほよろづ) 千万神(ちよろづがみ)の 神集(かむつど)ひ 集(つど)ひいまして 神(かむ)はかり はかりし時に 天(あま)照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国を 天地(あめつち)の 寄り合ひの極(きは)み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲(あまくも)の 八重(やへ)かきわけて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高(たか)照らす 日(ひ)の皇子(みこ)は 飛鳥(あすか)の 清御(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷(ふとしき)まして 天皇(すめろき)の 敷(し)きます国と 天(あま)の原 石門(いはと)を開き 神上(かむあが)り 上(あが)りいましぬ
天と地とが初めて開けた時のこと、ひさかたの天の河原にたくさんの神々が神の集まりにお集まりになって、相談に相談を重ねた時に、天照らす日女(ひるめ)の尊(みこと)は天上を治められることになり、一方、葦原の瑞穂(みずほ)の国を、天と地の寄り合う果てまでもお治めになる神の御子(みこ)として、幾重にも重なる天雲をかき分けて、天つ神(あまつかみ)がお下しになった日の神の御子(天武天皇)は、飛鳥(あすか)の清御原(きよみはら)の宮に神のまま御殿を営まれ、そして、この国は代々の天皇が治められる国であるとして、天の原の岩戸を開いて、天に登り、お隠れになった。
この長歌の冒頭に見える「天地(あめつち)の初めの時」は、『古事記』の「天地初めて発りし時に」や、『日本書紀』の「古に天地未だ剖れず」という書き出しを強く想起させる表現である。
記紀神話では、天地開闢ののち、多くの神々が次々に現れるが、人麻呂はその中から「天照らす日女の尊」、すなわち天照大御神を取り上げ、天上世界を統べる最高神として位置づけている。
一方、「葦原の瑞穂の国」とは、天の下に広がる地上世界を指し、葦が生い茂り、稲穂が豊かに実る国として描かれる。この地を治めるのは、天照大御神の命によって地上に降臨した神の皇子、すなわち天皇であるとされる。
地上世界は、『古事記』では「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」、『日本書紀』でも「豊葦原千五百秋瑞穂の地」などと呼ばれ、葦と瑞穂を組み合わせた表現が繰り返し用いられている。

この地に降臨した存在として天武天皇は描かれ、飛鳥の清御原に宮殿を構えたとされる。史実としても、672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子は、近江大津宮から飛鳥へと政治の中心を戻し、673年に飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。その後を継いだ持統天皇は、20年以上にわたり飛鳥の地を拠点として、律令国家形成の基礎となる諸制度の整備を進めたことが確認されている。
686年に天武天皇が崩御すると、人麻呂はこれを単なる死とは捉えず、「天の原の岩戸を開いて天に上った」と表現する。すなわち、天武天皇は神として天に帰ったのだと詠うことで、天皇が神の性格を帯びた存在であることを、読者に強く印象づけているのである。
この前半が終わると、人麻呂は、天武天皇の後継者として大きな期待を集めながら、志半ばで亡くなった草壁皇子へと歌を進めていく。
我が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の尊(みこと)の 天(あめ)の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月(もちづき)の 満(たた)はしけむと 天(あめ)の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて 天(あま)つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に 宮柱(みやばしら) 太敷(ふとし)きいまし 御殿(みあらか)を 高(たか)知りまして 朝言(あさこと)に 御言(みこと)問はさず 日月(ひつき)の 数多(まねく)なりぬる そこ故(ゆゑ)に 皇子(みこ)の宮人(みやびと) ゆくへ知らずも
わが大君、皇子の尊(日並皇子尊)が天下を治められたならば、春の花が咲き誇るようにめでたく、満月のように欠けることのない世が実現したであろう。天の下の人びとは、大船に乗ったように安らかな思いで、天からの恵みの雨を仰ぎ待つように、その治世を待ち望んでいた。しかし、いったいどのようなお考えであったのか、ゆかりのない真弓の岡に宮柱を太く立て、御殿、すなわち殯宮を高く営まれたまま、朝の政(まつりごと)の言葉も聞かれることなく、月日は重なり積もっていった。そのため、皇子に仕えていた人々は、進むべき先も分からず、途方に暮れるほかなかった。
もし草壁皇子が天皇として天下を治めていたならば、人々にとってどれほど幸福な時代となっていただろうか。その実現することのなかった希望が、春の花、満月、恵みの雨といった比喩を通して、切実な嘆きとして語られている。人々は、大船に乗ったような安らぎの中で生きることができたはずだったのである。

「真弓の岡」とは、現在の奈良県高市郡明日香村にある丘陵地を指し、草壁皇子の宮殿とされる「島の宮」から西にほど近い場所にあたる。この地には、殯宮が営まれた、あるいは皇子が葬られた可能性があると考えられている。そうした点から見て、真弓の岡に言及する人麻呂の表現は、当時の地理的実態と大きく矛盾するものではない。
また、人麻呂はこの歌の中で、草壁皇子を固有名ではなく「日並皇子尊」と呼び続けている。それによって、天武天皇の後継者もまた、単に人として死を迎えた存在ではなく、天上の秩序と結びついた存在であったかのような印象が生み出されている。
その一方で、残された人々が深い悲しみに沈み、何をすべきかも分からず立ち尽くす姿が、痛切に描き出されているのである。
この長歌において柿本人麻呂は、天地開闢神話と天孫降臨の語彙を用いながら、天武天皇とその後継者を、単なる歴史上の君主ではなく、神々の系譜に連なる存在として描き出している。天武の死は「昇天」として語られ、草壁皇子もまた「日並皇子尊」として神的秩序の中に位置づけられる。
こうした表現を通じて示されるのは、天武に始まる王朝が、天皇を「皇者神(大君は神にしませば)」として位置づけ、神々の系譜につながる特別な存在である天皇のもとに、その支配の正当性を人々に示そうとした、という認識である。
この長歌は、悲嘆の歌であると同時に、新たな王朝の正当性を人々に示す役割を担った作品であったと考えられる。
(2)雄略天皇「籠もよ み籠持ち」から
舒明天皇「大和には」へ
『万葉集』の冒頭に置かれているのは、大泊瀬稚武(おおはつせわかたける)天皇が詠んだとされる長歌である。大泊瀬稚武という名は、『古事記』と『日本書紀』において雄略(ゆうりゃく)天皇の即位前の名とされており、この事実は、『万葉集』や記紀が編纂された時代において、雄略天皇が特別な重要性をもつ存在であったことを示す一つの証拠と考えていいだろう。
A. 雄略天皇「籠もよ み籠持ち」

『万葉集』巻頭に置かれたその長歌は、一見すると、天皇が春の丘に立ち、若葉を摘む乙女に対して、家や名を告げるよう求めるという、素朴な情景歌のように読める。しかし、それを本当に単なる恋の歌と見なしてよいのだろうか。
ちなみに、冒頭に現れる「籠(こ)」は摘んだ若葉を入れる籠を指し、「堀串(ふくし)」は土を掘るためのヘラを意味する。そして、これらの語が二度目に現れる際に添えられる「み」は、相手の持ち物を敬って言う接頭語であり、乙女に対する敬意を示す表現である。
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡(をか)に 菜(な)摘(つ)ます子 家(いへ)告(の)らせ 名(な)告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居(を)れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告(の)らめ 家をも名をも
籠(かご)もよい籠を持ち、ヘラ(ふくし)も立派なヘラを持ち、この岡で菜を摘んでいる乙女よ。家(身分)を、名前を告げてくれ。(そらみつ)大和の国は、ことごとく私が君臨し、すみずみまで私が支配している。私の方こそ告げよう、家も名前も。
冒頭の「こもよ(3)/みこもち(4)/ふくしもよ(5)/みぶくしもち(6)」では、音節数が一音ずつ増えていき、大泊瀬稚武(おおはつせわかたける)天皇の高揚する感情が、音の構造そのものによって見事に表現されている。
その後に続く、丘の上で菜を摘む乙女に家と名を告げよと命じる部分では、「このおかに(5)」から「なのらさね(5)」まで、五音節の語が連続して用いられ、乙女に対する要求が一気に発せられる緊張感が伝わってくる。

そこから一転して、自らが大和の国の支配者であることを誇示する言葉へと移行する際には、「そらみつ(4)」という四音節の語が置かれ、この歌の中に大きな切れ目が存在することが示されている。
「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞で、「大空の下、見渡す限りに広がる」といった意味を持つが、続く「おしなべて(5)」「しきなべて(5)」と呼応することで、天の下に広がる大和の国の隅々までが天皇の支配下にあることを強く印象づけている。
さらに、「我こそ」を含む表現が三度繰り返されることで、大泊瀬稚武天皇=雄略天皇こそがこの国の支配者であるという宣言が、強調をもって読者に刻み込まれる構成となっている。
こうして見てくると、この長歌は明確に二つの部分から成り立っており、その真の意図は後半にあることがわかる。前半は、乙女に求婚するかのような姿をとりながら、丘で菜を摘むという穏やかな情景を描くことで、天皇の治める世界が平穏で豊かであることを象徴的に示しているのである。
「我こそ」が君臨し、支配する天の下の世界は、これほどに栄え、豊穣なのだ。それこそが、この歌に込められた歌意であると考えられる。
B. 舒明天皇「うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は」

このような読解は、『万葉集』において次に置かれている、舒明天皇の「天皇が香具山に登って国見をされた時のお歌」と直結している。
大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
大和には多くの山があるが、とりわけ頼もしい天の香具山。その頂に登り立って国見をすると、国原にはかまどの煙が盛んに立ちのぼり、海原には鷗がしきりに飛び立っている。なんと美しい国であることか、あきづ島、大和の国は。
「あきづしま」は大和国の古名であり、「やまと」の美称としても用いられた語である。そして、その直前に置かれた「うまし国そ」という感動を表す句からもわかるように、この長歌は、舒明天皇の治世を言祝ぐ言葉によって貫かれている。
ここでとりわけ注目したいのは、『万葉集』の冒頭に大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の歌が置かれ、その直後に舒明天皇の歌が配されているという構成である。この配置は、両天皇の御代の間にある連続性を、読者に強く印象づける働きをもっている。
第34代天皇である舒明天皇(在位:629年〜641年)は、天智天皇・天武天皇の父であり、持統天皇の祖父にあたる。すなわち、記紀が編纂された時代と直接につながる系譜上の天皇である。
一方、記紀の記述によれば、5世紀後半に在位したとされる雄略天皇の時代は、7〜8世紀の視点から見れば、はるかに隔たった「古代」と位置づけられる。

このように考えると、「籠もよ み籠持ち」の長歌は、「古代の天皇」を賛美する歌として位置づけられ、その時代から始まった天皇の治世が、舒明天皇へ、さらに天武天皇・持統天皇の時代へと連綿と続き、「うまし国大和」が途切れることなく存続してきたという歴史観が浮かび上がってくる。
そして、その連続性を可能にする根拠として想定されているのが、「大君(おほきみ)は神にしませば(皇者神)」という観念であると考えていいだろう。
では、なぜ古代の「うまし国」を治めた天皇として大泊瀬稚武天皇が選ばれ、さらにその人物が雄略天皇とされたのだろうか。
次に、雄略天皇がどのような歴史的な記憶に基づき、『記紀』においてどのように造形されたのか、考えてみよう。