
坂口安吾の作品を読んでいると、残酷な場面の後にも救いが示されず、ハッピーエンドにも至らないため、読者である私たちはしばしば途方に暮れてしまう。読み終えた後にもカタルシスがない。それでもなお、彼の作品をつい読んでしまうのはなぜだろうか。
その問いに対して、坂口安吾自身が答えてくれているかのようなエッセーがある。それが、1941年に発表された文学論「文学のふるさと」である。
このエッセーの冒頭で、安吾はフランスの作家シャルル・ペローの「赤ずきん」を取り上げる。そこでは、少女が狼に食べられたところで物語が終わり、狩人による救出劇は存在しない。人間が狼にむしゃむしゃと食べられる場面で物語は閉じられ、そこには救いがない。
安吾は、「救いのなさこそが救いである」という逆説的な議論を展開し、そこに「文学のふるさと」を見出す。その展開の中で、『伊勢物語』第六段「芥川」を取り上げている。
ここでは、愛する女が鬼に食べられて終わるという、救いのない「芥川」の物語を辿りながら、坂口安吾の文学観について考えてみたい。
昔、男ありけり。女の、え得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。行く先多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵(くら)に、女をば奥に押し入れて、男、弓、やなぐひを負ひて戸口にをり。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」と言ひけれど、神鳴(かみな)る騒ぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率(ゐ)て来(こ)し女もなし。足ずりをして泣けども、かひなし。
白玉か なにぞと 人の問ひし時 露とこたへて 消えなましものを
(後略)(『伊勢物語』第六段「芥川」)

男は、長く憧れ、愛してきた女の同意を得て、ついに彼女を連れ、闇の中を都から逃げ去る。そして、芥川という川の近くまで来たとき、草の上に露が光っているのが女の目に入り、女は「あれは何?」と尋ねる。しかし、男は逃げることに夢中で、その問いに答えない。
目的地まではまだ遠く、夜も更けてくる。そこが鬼のいる場所だとは知らないが、雷が鳴り、激しい雨も降ってきたため、たまたま見つけたあばら屋に入ると、その奥に女を隠す。そして自分は戸口に立ち、弓矢を入れる道具(やなぐひ)を携えて武装し、女を守ろうとする。
早く夜が明けてくれればと思いながらそうしているのだが、しかし、夜が明けた時、鬼は女を一口で食べてしまう。女は「ああっ」と声を上げるが、雷鳴にかき消されて、男にはその声は届かない。
やがてようやく夜が明け、女の方を見ると、ともに逃げてきた女の姿は消えている。男は地団駄を踏んで泣くが、どうすることもできない。そしてそのときの心を、「白玉(真珠)か、何かと女が問うたとき、『露』だと答えて、ともに消えてしまえばよかった」という和歌に託した。
こうした「芥川」の物語は、「赤ずきん」と同様、女が食べられたままで終わり、救いがない。しかし、「赤ずきん」よりもはるかに文学的であり、男の痛切な思いが伝わってくる。
愛する者を守るために必死であったがゆえに、その言葉を受け止めることができず、そのままにしてしまったことが、失ったときにいっそう痛切に感じられるのである。どんなに「足ずりをして泣けども、かひなし。」なのだ。
この展開について、安吾は次のように解説する。
この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野(こうや)を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途(いちず)に走ろうとして返事すらできない――この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾(あや)とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。
つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食わるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいい加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何と女がきくけれども男は返事のひますらもないという一挿話がなければ、この物語の値打の大半は消えるものと思われます。(坂口安吾「文学のふるさと」)
「芥川」の宝石のような美しさは、「対照」から生まれると安吾は考えている。
長い間愛してきた女との逃避行の喜びと、その喜びが鬼の一口で奪われてしまう残酷さ。
女との愛の成就だけを考えて頭がいっぱいの男と、逃げながらもふと草の上の露に目をやる女の無邪気さ。
安吾は触れていないが、早く夜が明けてほしいという男の願いと、実際に夜が明けたときには女が食べられてしまっているという現実との対比もある。
こうした対比があり、男の願いが純粋であり、女が無邪気であるからこそ、物語の残酷さは際立つ。しかし同時に、その対比こそが「宝石の美しさ」を生み出しているのである。
しかも、その美しさは「宝石の冷たさのようなもの」を帯びている。そしてその冷たさは、「絶対の孤独――生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」ではないかと彼は問いかける。
つまり、残酷さが際立つ物語には救いがなく、読者は突き放されたような感覚を強いられる。ハッピーエンドの物語であれば、どれほど悲惨な過程を経ていても、最後には救いが与えられる。しかしここでは、その救いがないまま、読者は取り残されてしまう。
坂口安吾は、まさにそこにこそ「文学のふるさと」を見るのだという。
それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。(坂口安吾「文学のふるさと」)
普通に考えれば、救いがあることが救いである。にもかかわらず、安吾は「救いがないということ自体が救い」だとする。この逆説を理解することが、彼の考える「文学のふるさと」を理解することにつながることはいうまでもない。
では、「むごたらしく、救いのないもの」、「暗黒の孤独にはどうしても救いがない」、「曠野を迷うばかりで、救いの家を予期することすらできない」――こうした認識が、なぜ「救い」であると言いうるのだろうか。
「救いがないということ自体が救い」という逆説をどのように理解したらいいのだろうか。
私たちは、基本的に「わかり合える」世界に生きていると思っているし、わかり合える関係があるからこそ、安心して生活することができる。言葉のやり取りにしても、辞書があり、その意味に基づいて言葉が用いられるからこそ、コミュニケーションは成立する。まったく知らない外国語は理解不可能である。
別の側面から見れば、何かが起こったとき、「なぜ?」という原因がわかれば、それなりに納得できる。どれほど不合理に思われることでも、とにかく理由を見つけて納得しようとする。家族を殺された犯罪被害者が、犯人に対して「なぜそんなむごいことをしたのか?」と問いかける。その理由を知ったとしても家族が戻ってこないことは十分に理解していながら、なお問いただしたくなるのは、そして一言でもいいから謝罪の言葉を聞きたいと願うのは、最終的には「わかる」ことを前提にしているからである。
「赤ずきん」に関して、一般に流通している物語、すなわち最後に狩人が現れ、狼の腹を切り裂いて少女を救出する筋立てであれば、悪は罰せられ、善が報われるという倫理的観点から納得することができる。そのためにカタルシスが生まれる。しかし、狼に食べられたままで終わる場合には、なぜ無垢な少女が食べられなければならないのかという理不尽さと、その残酷さに対する拒否感が生まれる。
その拒否感を反転させて、坂口安吾はそれを「突き放される」と表現する。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然(しか)し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。(坂口安吾「文学のふるさと」)
何か約束が違ったような感じ」ということは、約束があったことを前提にしている。つまり、「わかり合える」という前提である。だからこそ、残酷さの原因が明確にされず、納得もできず、カタルシスも与えられないとき、私たちは突き放され、取り残されたと感じる。そこに「空しい余白」が生まれるのである。余白とは、中心から切り離されることを意味する。
このように「わからない」まま取り残されるということは、「わかり合える」集合体の外に出ることであり、そこには「絶対の孤独」がある。そして坂口安吾は、その孤独を「生存それ自体がはらんでいる」ものだと考え、そこに「文学のふるさと」を見出す。
言い換えれば、「余白」や「孤独」が意味するのは、「私」と同じ辞書を持ち、同じ言葉で通じ合える「他者」ではなく、決して通じ合うことのない「他者」、すなわち「私」とは絶対的に異なる存在である。
そして、そうした「他者性」を認識することこそが、「文学」の源泉であると安吾は主張する。
「救いがないということ自体が救い」という逆説は、「救いがない」ことが私たちを戸惑わせ、共通の辞書が存在しない場――いわば故郷――へと連れ戻すことによって、あらかじめ固定化された世界を打ち壊し、文学の言葉が読者に届くたびに新たな意味を生成していく、その働きこそが「救い」であることを意味している。
そして安吾は、その都度生成する言葉の世界に、「何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」があると考える。
私たちは、互いにわかり合えることで安心できる世界に生きていると思い込み、またそう思いたがっている。
しかし実際には、「生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」の中にある。他者は、わかり合える存在として現れる以前には、共通の辞書を持たず、「私」にとっての「絶対の他者」である。
そして、そうした「他者性」の認識から出発することこそが、坂口安吾のいう「文学のふるさと」にほかならない。
「読み終えた後にカタルシスがない」物語は、カタルシスを期待する私たちの心を裏切ることによって、そのふるさとへと私たちを導く。そしてそこで私たちは、心温まる美というよりも、冷たい宝石のような美と出会うのである。
「芥川」の男の、「露とこたへて消えなましものを」と歌われた心が、そのひとつの輝きを、私たちにひしひしと伝えてくる。

以上のような文学観を通して『桜の森の満開の下』を捉え直すと、この物語に漂う「救いのなさ」の正体が見えてくる。
物語の終盤、山賊の男は、残酷な要求を繰り返す女を自らの手で絞め殺す。その瞬間、絶世の美女であったはずの女は、恐ろしい「鬼」へと姿を変え、男の腕の中から消え去ってしまう。男は、自分が何者であったのか、何を愛していたのかさえ分からなくなり、満開の桜が舞い散る静寂の中で、一人取り残される。
ここで重要なのは、男が犯した罪に対して「罰」が下るわけでも、愛を失ったことへの「慰め」が与えられるわけでもない点だ。ただ桜の花びらが冷たく降り積もるという、圧倒的な虚無が提示されて物語は幕を閉じる。
男が命がけで愛した対象が実は「鬼」であったという事実は、他者を真に理解することの不可能性、すなわち「絶対的な他者性」を突きつけている。
また、最後に男自身の存在までもが消えていく感覚に陥るのは、私たちが縋っている「名前」や「身分」といった社会的な意味が、桜が象徴する「生存の本質」の前では無力であることを示している。
このように救いのない結末だからこそ、読者は「可哀想」といった安易な共感を許されず、冷徹な孤独と対峙せざるを得ない。この突き放された感覚こそが、安吾の言う「宝石のような冷たい美しさ」であり、人間の根源的な「ふるさと」なのである。