小説家の想像力 浦島太郎と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

言われるまでは気づかない。だが、言われてみると、思わず「そうだ」と膝を打つことがある。こうした気づきが小説家の言葉によってもたらされるとき、小説家の想像力の働きとはまさにこういうものなのだと、深く納得させられる。

小泉八雲が浦島太郎伝説について思いを巡らせた「ある夏の日の夢(The Dream of a Summer Day)」の一節を読んだとき、私はまさにそんな思いにとらわれた。八雲は、竜宮城から故郷へ帰っていった太郎を思い、夫の帰りを待ちわびる海中の妻の姿に言及している。

それまで私は、浦島太郎がなぜ楽園である竜宮城を去り、地上へ戻ろうとしたのかという理由について考えたことはあった。しかし、太郎が消え去った後の乙姫について考えたことは、一度もなかった。

取り残された妻について、八雲は次のように語る。なお、英語版で、乙姫は竜王の娘とされている。

私はもう一度、浦島のことを思った。竜王の娘が、彼を迎えるために美しく整えられた宮殿の中で、むなしく待ち続けている姿を見た。そして、あの無情な雲の帰還、何が起こったのかを告げ知らせるその帰還を思い浮かべた。さらに、晴れ着のような盛装に身を包んだ、いかにも素朴で愛情深い海の生きものたちが、彼女を慰めようとしている光景も。しかし、実際の物語には、そうしたものは何ひとつ語られていない。そして、人々の憐れみは、すべて浦島に向けられているように思われた。(「ある夏の日の夢」The Dream of a Summer Day, p.18)

玉手箱を開けなければ、浦島は竜王の宮殿に戻り、妻と再会することができたはずである。彼女は、夫が帰還するための手段として、あの魔法の小箱を渡したに違いない。

しかし私たちは一般に、人間の性(さが)、あるいは物語の法則に従って、「開けるな」という禁止は必ず破られるものだと考えている。禁止とは違反を導くものだ、と。
だからこそ、疑問が向かうとすれば、「なぜ乙姫は玉手箱を渡したのか」という点になるのが、ごく自然な思考だろう。

それに対して八雲の考察では、妻は正装し、宮殿を整え、夫の帰りを待ち続ける。そこへ、魔法の箱から飛び立った「無情な雲」が帰還し、もはや夫は戻らないことを告げる。そして、海の生きものたちが彼女を慰めようとする。

このような光景を、私はこれまで一度も思い浮かべたことがなかった。だからこそ、ラフカディオ・ハーンという作家の想像力の働きに、強い感銘を受けたのである。


小泉八雲が浦島太郎の話を好んでいたことは、妻セツの次の言葉からもうかがうことができる。

日本のお伽噺のうちでは「浦島太郎」が一番好きでございました。ただ浦島という名を聞いただけでも、「ああ浦島」と申して喜んでいました。よく廊下の端近くへ出まして、「春の日の霞める空に すみの江の…」と節をつけて、面白そうに毎度歌いました。(小泉セツ『思い出の記』)

八雲が口ずさんでいたこの歌は、『万葉集』に収められた高橋虫麻呂の長歌「水江の浦嶋の子を詠む」の冒頭の一節である。

その長歌の全体を、理解しやすいよう現代語訳で読んでみよう。

春の日の霞のたつころ、住吉の岸に出て座り、釣り船が漁をしているのを見ると、昔のことが思い出される。

水江の浦嶋の子は、カツオを釣り、タイを釣って得意になり、七日にも及んで、家にも帰らなかった。海の境を越えて漕ぎ進んでいくと、海神の娘に偶然出会い、そこへ誘われて行った。
互いに心を通わせ、言葉を交わして契りを結び、永遠の国に至った。海神の宮の内の、奥まった静かな御殿に、二人は手を取り合って入り、共に住んだ。

老いることもなく、死ぬこともなく、永遠に生きていたのだが、この世の愚かな男は、愛しい妻にこう告げた。「しばらくの間、家に帰って父母に事情を話し、明日にはまた戻って来よう。」 妻は答え、「常世の国から再びこちらへ帰って来て、今のようにまた会おうと思うなら、この箱を決して開けてはなりません」と、固く言い聞かせた。

住吉に帰って来て、家を見ようとしたが家も見えず、里を見ようとしても里も見えないので、不思議に思った。家を出てから、わずか三年の間に、垣根もなくなり、家が消えてしまったのかと思い、この箱を開けてみると、もとのように家があるだろうと思っていたのに、玉手箱を少し開けたところ、白い雲が箱の中から立ちのぼり、常世の方へたなびいていくと、彼は立ち上がって走り回り、叫び、袖を振り、転げ回り、足を踏み鳴らしたが、たちまち気力は失われてしまった。若々しかった肌もしわしわになり、黒かった髪も白くなってしまった。やがて息さえ絶え絶えになり、ついには命尽きて死んでしまった。

これが水江の浦嶋の子の、故郷の地での出来事である。

反歌
常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣大刀(つるぎたち) 汝(な)が心から おそやこの君(きみ)

(常世にこそ住むべきであったのに、剣のように取り返しのつかぬ自らの行い — その結末の、なんと恐ろしいことか。ああ、なんと愚かなことよ、この人は。)

(『万葉集』巻九、1740-1741)

高橋虫麻呂は、浦島を愚かな人間として提示している。
まず、七日も家に戻らないのは、釣りの成果に得意になったからであり、永遠の生を得ながらその地を去るのも、「愚かな男」であるがゆえだ。そして、開けてはならない箱を開けるのも、元のように家があると思うという、いかにも浅はかな理由によるものとされる。

それを強調するかのように、反歌では「おそや」という言葉によって、箱を開けるという「恐ろしい」行為と、それをなす浦島の「愚かさ」とが重ね合わされている。

興味深いことに、この虫麻呂の長歌を口ずさみながらも、小泉八雲は「愚か」という評価に同意しない。

浦島太郎伝説が日本人に長い間愛され続けてきたとすれば、それは浦島が日本人のある側面を代表しているからではないだろうか。そして八雲もまた、その部分を愛したのではないか。
だとすれば、その理由が「愚かさ」にあるとは考えにくい。

そもそも浦島を憐れむことは、果たして正しいのだろうか? 
(「ある夏の日の夢」 The dream of a summer day, p. 18.)

八雲はこのような自問を発した後、理想の世界における浦島の状態について、独自の論を展開し始める。


普通に考えれば、常世で神々に囲まれた状況は、人間にとって何の不安も心配もない理想的な状態だと考えられる。しかし、八雲はそこに再び別の視点を提示する。

確かに彼は神々によって惑わされた。しかし、神々によって惑わされない者などいるだろうか? 人生そのものが惑いではないか? そして浦島は、その惑いの中で神々の意図を疑い、箱を開けた。そして彼は何の苦しみもなく死んだ。そして人々は浦島明神として彼を祀る神社を建てた。それならば、なぜそれほど憐れむ必要があるのか?
(「ある夏の日の夢」 The dream of a summer day, p. 18-19.)

私たちは、なぜ浦島は箱を開けたのかという問いよりも、むしろ、なぜ乙姫が彼に箱を渡したのかという疑問を抱く。しかし八雲は、常世の国を神々の世界と見なし、そこでの浦島の心情に寄り添うことで、彼が箱を開けるに至った理由を推測する。

八雲によれば、神々によって浦島は「困惑(bewilder)」させられていた。その困惑は、私たち誰もが人生の中で抱く「戸惑い」と同質のものである。
「人生そのものが惑いではないか?」(What is Life itself but a bewilderment?)

こうした感情は、ラフカディオ・ハーンが、ギリシア人の母とアイルランド人の父との間にギリシアで生まれ、幼少期をアイルランドで過ごしながらも、その土地になじむことができなかった経験と関係しているのかもしれない。ハーンは十代後半にアメリカへ移住し、その後さらに日本へと移動を重ねた。最終的にはセツと結婚し、日本国籍を取得したが、それでもなお、どこにあっても「異邦人」であるという意識を持ち続け、人生は「戸惑い」の中にあったと考えられる。

そうした中では、消え去ること、すなわち苦しみなく死ぬことは、必ずしも哀れむべきことではないのかもしれない。そのうえ神として祀られるのであれば、なおさら憐れむ必要はないだろう。
八雲は、このような逆説を展開する。不死を捨て去ることは、本当に哀れむべきことなのか、と。

そしてその主張の妥当性を示すために、西洋ではむしろ生き続けることを強いられるのだと述べる。

西洋では事情はまったく異なる。西洋の神々に背いた後でも、われわれはなお生き続け、比類なき悲しみの高さと広さと深さを学ばねばならない。われわれは、最もよい時に安らかに死ぬことすら許されていない。ましてや死後に、自らの資格において小さな神となることなど、なおさら許されてはいない。目に見える神々と長く共に生きたあとの浦島の愚かさを、どうしてわれわれが憐れむことができようか。(「ある夏の日の夢」 The dream of a summer day, p. 19.)

しかし、生きることが悲しく、適切な時に死ぬことが許されないのは不幸であるという考えは、必ずしも西洋固有のものとはいえない。

実際、ハーンが少年時代を過ごしたアイルランドに伝わるケルト神話にも、浦島太郎とよく似た物語がある。フィアナ騎士団の英雄オシーンの伝説である。

オシーンは妖精ニアムに愛され、永遠の若さの地ティル・ナ・ノーグへと導かれ、幸福な日々を過ごす。しかし三年が過ぎたとき、故郷への思いに耐えきれず、魔法の馬に乗って帰還する。その際、「決して地面に足をつけてはならない」という禁を受けていたにもかかわらず、人を助けようとして馬から落ち、その瞬間に数百年分の歳を取り、老衰して消え去ってしまう。

一方、日本の「海幸彦・山幸彦」神話では、山幸彦は兄・海幸彦の釣り針を海で失い、海神の国(竜宮)へ赴いて海神の娘トヨタマヒメと結婚する。その後、釣り針を取り戻して故郷に帰還し、兄との争いに勝利して地位を逆転する。

したがって、西洋では死が拒否され、日本では主人公が消滅するというような単純な図式があるわけではない。ここで八雲が西洋を持ち出すのは、神々の世界、すなわち常世=不死が、人間にとって必ずしも望ましいものではないことを強調するためである。

人間の生は有限であるがゆえに魅力を持つ。浦島が神々の意図を疑い、箱を開けたのは、不死の状態から時間の流れる生へと移行することを体感するためであった、とも言えるだろう。

八雲はその行為を単なる「愚かさ」として断じるのではなく、必ずしも哀れむべきものとも見なさない。というのも、神々とともに過ごしたという「事実」は記憶として残り、折に触れてよみがえるからである。そしてそれは、浦島伝説に限らず、無数の魂に共通する経験でもあると彼は述べる。

言い換えれば、神々の意図は最後まで明確には示されず、浦島は「困惑」の状態に置かれていた。しかしその中には、乙姫との原初的な幸福が確かに存在していた。その記憶は、時間の流れる現実の中にあっても人間の深層にとどまり、ときに思い出として立ち現れる。
それこそが、小泉八雲の思い描く浦島太郎伝説の核なのである。


小泉八雲にとっての竜宮城ともいうべき時空における「事実(the fact)」の一端は、次のような記憶として残されている。

あの頃の日々は、今の日々よりもはるかに長かったことも覚えている。毎日が、私にとって新しい驚きと新しい喜びに満ちていた。あの国も、あの時間もすべて、ただ私を幸福にする方法だけを考えている「ある人(One)」によって、やわらかく支配されていた。
ときどき私は、その幸福を受け入れることを拒んだ。するとそれは、たとえその人が神のような存在であったとしても、彼女を悲しませた――そして私は、そのことを心から悔いようと、ひどく努めたことを覚えている。
一日が終わり、月が昇る前の、あの大いなる静けさが訪れると、彼女は私に物語を語ってくれた。その物語は、頭のてっぺんから足の先まで震えるほどの喜びを私にもたらした。あれほど美しい物語を、私はほかに一度も聞いたことがない。そして、その喜びがあまりにも大きくなりすぎると、彼女は不思議な小さな歌を歌ってくれた。その歌は、いつも私を眠りへと誘った。
やがて、別れの日がやって来た。彼女は涙を流しながら、私に授けた護符のことを語った――それは決して、決して失ってはならないものであり、それを持っていれば私は若さを保ち、再びここへ戻る力を得られるのだと。

しかし、私はついに戻ることはなかった。年月は流れ、ある日、私はその護符を失ってしまったこと、そして自分がひどく滑稽なほどに年老いてしまっていることを知った。(「ある夏の日の夢」 The dream of a summer day, p. 20-21.)

「あの頃の日々(the days)」とはいつなのか。「ある人(One)」とは誰なのか。それは小泉八雲の内面をのぞいてみないかぎり、わからない。
彼女が語ってくれた物語は、あるいは「浦島太郎」だったのかもしれない。
そして、別れに際して彼女が授けてくれた護符とは、玉手箱のようなものだったのだろうか。それは「それを持っていれば私は若さを保ち、再びここへ戻る力を得られる」ものなのだから。

こうした思い出、あるいは夢を踏まえるなら、「滑稽なほどに年老いてしまっている」八雲が、なぜ浦島の帰りを待つ乙姫の姿を想い描いたのかも、ある程度推測することができる。
彼はもはや「ある人」に再び会うことはできない。しかし、その「ある人」が、消え去った彼をなお待ち続けていると想像することは、どれほど大きな慰めとなるだろうか。

すべての人間は、人とのつながりの中で生きながらも、究極的にはラフカディオ・ハーンと同じく「異邦人」であると言っていい。人間は時の流れに押し流され、季節の移ろいの中で、やがて消え去っていく。
しかし、そのような生の流れの中で、「ある人」がふと記憶の中に姿を現すことがある。不思議な小さな歌が、どこからともなく聞こえてくる。

そこには、消えゆく時間と永遠とが、不思議に交わる瞬間がある。

小泉八雲にとって、「浦島太郎」は、そのような人間のあり方を伝える「美しい物語」であったに違いない。


結局のところ、物語とは新しいことを語るのではない。忘れていたものを、思い出させるのである。
あの「ある人」も、不思議な小さな歌も、私たちの中にすでにある。 ただ、それを指し示す言葉に出会ったとき、私たちははじめて、思わず「そうだ」と膝を打つのだ。

作家の想像力とは、私たちにその気づきを、そっと手渡してくれるものなのかもしれない。


Lafcadio Hearn, The dream of a summer day

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