漢字の書き順 事実に基づく思考法

漢字に関するサイトを見ていると、「書き順が変わった!」とか、「正しい書き順は存在しないという衝撃的事実!」とか、興味を掻き立てる情報に数多く出会う。そして、さっと読み、素直にうなずいてしまうことがある。
とりわけ、「小学校に通う子供が自分とは違う書き順を学校で習ってきて驚いた」といった体験談が語られると、書き順が変わったという情報を確信してしまう。そして、驚きを共有すればするほど、その情報の真偽を確かめようとはしない。

では、真偽を確認するためには、どのようにしたらいいのだろか?

最初に考えることは、「書き順の変更」とか「正しい書き順」という言葉の前提には、「書き順の基準」があるはずであり、その基準はどこにあるのかという疑問を持つこと。
情報をそのまま信じるのではなく、根拠を問うことが大切になる。

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インターネット上での誹謗中傷 3/3 自由と責任

(4)自由と責任

インターネット上である書き込みが問題になると、一方では規制をすべきだという主張がなされ、他方では「表現の自由」を守るべきだという主張がなされる。
そして、その二つの主張は常に平行線をたどり、時間の経過とともにいつの間にか問題自体が忘れられてしまう。

また、その議論の中で比較的忘れられているのは、書き込みによって生じた事態に対する、書き込んだ人間の責任に関する問題。
匿名の書き込みの場合は行為の主体が明確でないために、責任がその主体に降りかかることはない。
実名が記され、書き込みの主が明確な場合でも、その状況はほとんど変わらない。内容に根拠がなく、事実とは異なっていたり、ただの思い込みが攻撃性を持ったものだったとしても、責任が問われることはまれである。
炎上することがあったとしても、「数」を増やすことにつながり、その時には批判されることがあるとしても、時間が経てば何事もなかったかのように同じ行為が繰り返される。

発信する「自由」は保障されているが、その内容に対する「責任」が明確に問われることはないというのが現状なのだ。

ここではまず、なぜそうした状況になっているのか考えてみよう。

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インターネット上での誹謗中傷 2/3 匿名と有名

(3)匿名と有名

インターネット上での誹謗中傷が、ネット空間における匿名性によると言われることがある。確かに、殺人予告など直接的に犯罪に繋がる書き込みの場合、氏名を特定できるシステムであれば、ある程度抑制できるに違いない。
しかし、悪口、暴言、根拠のない批難、感情的な意見などは、犯罪とは認定されないために、書き込んだ人間の名前が実名であっても減少しない可能性がある。

A. ネット空間上の匿名

すでに確認したように、書き込みに対して賛同する人間が多数存在することが、書き込んだ人間にとっては自己確認になり、正しい発信をしたという思いを強くさせる。
インターネット上に成立するのは、考えや感受性が類似した同質の雰囲気であり、実在しない架空の空間である。それだけに、異なる意見や感受性があったとしても、それらと交わり、妥協する余地はない。

そうした架空の同質空間内での共感は、「数」によって強化され、もしも「他」が意識化されたとしても、無視するか、否定される。

リアルな社会でも、同じ考えや感受性を持つ人間との交流が中心になるのは自然なことだが、ネット空間では、その傾向がより顕著なのだ。
そして、その空間内では、もし「名前」があったとしても、その名前を持つ「個人」との具体的な繋がりはない。その点で、リアルな世界とは全く異なる。

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インターネット上での誹謗中傷 1/3 数の力 同質性の中での共感

2024年のパリ・オリンピックでも、オリンピックに出場するために厳しい練習を積み、予選を勝ち抜いた選手たちに対して、映像を通して競技を見ているだけの人間たちが感情的なコメントを寄せ、攻撃性を発揮するという状況が見られた。
何かのきっかけがあれば、誰に頼まれたわけでもないのに、インターネット上で誹謗中傷を行い、時に殺害を予告するなどの行動は、現代社会の病いの一つだと考えられる。

そのための対策として、しばしば心理学的な説明が行われ、被害を受けた側だけではなく、攻撃する人間に対する対策も提案されている。

攻撃性の心理的原因
1)匿名性による安心感
2)集団への同調=没個性化
3)自己肯定感の低さからくる承認欲求、目立ちたがり
4)劣等感コンプレックスからくる嫉妬
5)承認欲求や嫉妬に由来する正義感
6)フラストレーションのはけ口

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ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 4/4 『出口なし』 地獄とは他者

(3)「地獄とは”他者たち”」 — 『出口なし』

サルトルにとって、人間とは「自由であることを常に余儀なくされている」存在である。
その一方で、社会の中で常に他者と関係しながら生きざるをえないことも否定できない。
その両面性を考えると、人間は自由であるが、同時に、他者の視線を感じ、他者に裁かれる存在でもある。

A. 他者の視線

サルトルは、『存在と無』の他者存在について論じる部分で、恥ずかしさの感情を取り上げ、自意識と他者の存在の関係について論じている。

何か不器用だったり、下品な振る舞いをしたとする。すると、その行為が私に貼り付く。私はそれを判断することも、批判することもない。単にそれを生きるだけだ。その実現は、「私に対して」というやり方でなされる。しかし、突然、私は顔を上げる。誰かがそこにいて、私を見ていた。と、突然、自分の行為の下品さを理解し、恥ずかしさを感じる。(中略)他者は、私と私自身の間の必要不可欠な仲介者なのだ。私が自分を恥ずかしいと感じるのは、他者に対してそんな風に見えるようになのだ。
           (ジャン・ポール・サルトル『存在と無』)

この一節は、サルトルの実存主義哲学の3つのポイントを教えてくれる。

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ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 3/4 『嘔吐』 『壁』

サルトルの文学作品は、「実存」をベースにして、そこから派生する側面に焦点を当てたものである。
代表作『嘔吐』では、「意識は常に何かの意識」であることを前提にして、意識の対象となるものに対する問いかけが行われる。
戯曲『蠅』では「自由」がテーマとして取り上げられる。意識と対象との関係は必然的ではなく、その都度「自由」に結ばれる。従って、人間には「自由」があるが、しかし、「自由」を強いられる存在でもある。
戯曲『出口なし』では「他者」が問題となる。意識の対象となる「何か」の中でも、「他者」は特別な存在であり、「地獄とは他人のことだ」という言葉が発せられる。

このように、具体的な状況を設定し、「実存」に様々な角度からアプローチすることで、サルトルは実存主義の世界観を描き出した。

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ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 2/4 意識は常に何かの意識 無意識は存在しない

サルトルの哲学や文学を理解するために「実存主義」について調べてみても、特殊な言葉で説明されているために、よく分からないことが多い。

人間の実存、つまり理性や科学によって明らかにされるような事物存在とは違って、理性ではとらえられない人間の独自のあり方を認め、人間を事物存在と同視してしまうような自己疎外を自覚し、自己疎外から解放する自由の道を発見していこうとする立場をいう。

事物存在、人間独自のあり方、自己疎外といった用語が組み合わされているこの定義も、分かる人にだけ分かるといった類のものではないだろうか。

ここではもう少し具体的にサルトルの思考に寄り添い、「実存」という言葉を使うことで、サルトルが私たちに何を訴えかけようとしたのか考えてみよう。

(1)意識は常に何かの意識

私たちは、一匹の猿を見ればそれが猿だと分かる。そしてそれがごく自然なことだと思っている。
しかし、よく考えてみると、猿だと分かるためには、「猿」とは何かを予め知っている必要がある。予め知識がなければ、それが何かは分からない。
そのことに気付くと、私たちが「現実」として捉えるものは、「猿」とか「人間」などの言葉でレッテル付けされていることが分かってくる。

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ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 1/4 実存は本質に先立つ

ジャン・ポール・サルトル(1905-1980)は実存主義という思想を骨子として、哲学、小説、演劇、評論と多方面に渡る執筆活動を行い、政治にも積極的に参加した。

サルトルの創作活動を考える上で重要なことは、20世紀前半のヨーロッパが戦火の中にあったという時代背景。ベル・エポックと呼ばれた華やかな時代が終わり、第一次世界大戦から第二次世界大戦へと戦争が続く中、ルネサンス以来築き上げられてきた価値観が揺らぎ、「文明」の意義が問われることになった。

1914年7月に始まる第一次世界大戦は、実質的にはドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした協商国に分かれた二陣営の戦いであり、戦闘機や潜水艦など新しい兵器が出現して、参戦国全体を荒廃させる総力戦だった。
1918年11月まで4年3ヶ月続いたその大戦の後、人間の理性に対する不信に基づき、意識的な創作ではなく、無意識的に生成される創作を目指すシュルレアリスムの運動が生まれる。

サルトルはその後に続く世代だが、シュルレアリスムとは逆に無意識の存在を否定し、意識の活動を中心に置き、「実存は本質に先行する」と主張する実存主義を推進した。
その思想は1945年に終結した第二次世界大戦後になると世界的に広く受け入れられ、サルトルは20世紀における最も重要な思想家の一人と見なされることになる。

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マラルメ 「墓」 (ポール・ヴェルレーヌの) Stéphane Mallarmé « Tombeau » (de Paul Verlaine) 3/3

マラルメは「墓」の二つの3行詩を通して、ヴェルレーヌがどのような詩人であったのかを示し、最期に彼の死がどのような意味を持つのかを密かに伝えようとした。

その際、最初に、« Qui cherche (…) Verlaine ? »(誰がヴェルレーヌを探しているのか?)と問いかけることから始め、ヴェルレーヌを探す誰か、つまり彼の死後にも現れるであろう読者の存在を浮かび上がらせる。
そして、その読者に向けて、ヴェルレーヌ像をいくつかの視点から浮かび上がらせていく。

Qui cherche, parcourant le solitaire bond
Tantôt extérieur de notre vagabond —
Verlaine ? Il est caché parmi l’herbe, Verlaine

À ne surprendre que naïvement d’accord
La lèvre sans y boire ou tarir son haleine
Un peu profond ruisseau calomnié la mort.

(朗読は33秒から)
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マラルメ 「墓」 (ポール・ヴェルレーヌの) Stéphane Mallarmé « Tombeau » (de Paul Verlaine) 2/3

「墓」の第2四行詩では、前半で、ヴェルレーヌの詩想が、小枝に止まる鳩(le ramier)の鳴き声と非物質的な喪(cet immatériel deuil)という表現によって暗示される。
後半では、ヴェルレーヌの死後、それらの詩句が、生前は彼の詩も彼の人間性も理解しなかった一般の人々を照らすという予想、あるいは希望が続く。
死は未来の栄光への転回点なのだ。

Ici presque toujours si le ramier roucoule
Cet immatériel deuil opprime de maints
Nubiles plis l’astre mûri des lendemains
Dont un scintillement argentera la foule.

(朗読は23秒から)
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