ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 詩的散文 Nerval Voyage en Orient Ni bonjour ni bonsoir

ジェラール・ド・ネルヴァルは、目の前の現実を明晰な意識で観察し、そこから出発して、繊細な感受性と幅広い知識に支えられた、音楽性豊かな詩的散文によって独自の文学世界を築き上げた。このことは、「夢と幻想の作家」という先入観を外せば、誰にでも見えてくるだろう。

『東方紀行』(Voyage en Orient)の「ドリューズたちとマロニットたち」(Druses et Maronites)の章には、「朝と夕べ」(Le Matin et le Soir)と題された一節がある。その冒頭では、イタリアの詩人ホラティウスの詩句と、オリエントの船乗りの歌う民謡の一節が掲げられており、そうした詩や歌の調べに呼応するかのように、ネルヴァルの文も音楽性に満ちた詩的散文となっている。

Que dirons-nous de la jeunesse, ô mon ami ! Nous en avons passé les plus vives ardeurs, il ne nous convient plus d’en parler qu’avec modestie, et cependant à peine l’avons-nous connue ! à peine avons-nous compris qu’il fallait en arriver bientôt à chanter pour nous-mêmes l’ode d’Horace : Eheu ! fugaces, Posthume… si peu de temps après l’avoir expliquée… Ah ! l’étude nous a pris nos plus beaux instants ! Le grand résultat de tant d’efforts perdus, que de pouvoir, par exemple, comme je l’ai fait ce matin, comprendre le sens d’un chant grec qui résonnait à mes oreilles sortant de la bouche avinée d’un matelot levantin :

Ne kalimèra ! ne orà kali !

( Gérard de Nerval, Voyage en Orient, « Druses et Maronites », Le Prisonnier, I. Le matin et le Soir.)

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 Nerval, Voyage en Orient, description et impression 2/2

ネルヴァルは、繊細な感覚で現実を捉え、的確かつ生き生きとした描写を行い、その印象を率直でありながら詩的な散文で綴る作家だ。そのことは、カイロから出発したサンタ・バルバラ号ががベイルートの港に入港する場面を描いた一節からも実感できる。
ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 1/2

ここでは、そうした印象が、旅行者の幅広い知識と密接に結び付き、独自の文学世界を創造していく様子を、ベイルートの街を散策しながら港へと至る行程を通して見ていくことにしよう。

Le quartier grec communique avec le port par une rue qu’habitent les banquiers et les changeurs. De hautes murailles de pierre, à peine percées de quelques fenêtres ou baies grillées, entourent et cachent des cours et des intérieurs construits dans le style vénitien ; c’est un reste de la splendeur que Beyrouth a due pendant longtemps au gouvernement des émirs druses et à ses relations de commerce avec l’Europe. Les consulats sont pour la plupart établis dans ce quartier, que je traversai rapidement. J’avais hâte d’arriver au port et de m’abandonner entièrement à l’impression du splendide spectacle qui m’y attendait.

(Gérard de Nerval, Voyage en Orient, Les Femmes du Caire, VII. La Montagne, V. Les Bazars. – Le Port.)

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 Nerval, Voyage en Orient, description et impression 1/2

ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval)は、19世紀中葉にパリの場末で首を吊って世を去って以来、「夢と狂気の作家」というレッテルを貼られ、現在に至るまでその偏見は根強く残っている。そのため、彼について語られるときには常に「神秘主義」や「幻想的」といった言葉がつきまとい、何の先入観もなく彼の言葉そのものに向き合うことが難しい状況が続いている。この傾向はフランスに限らず、日本でも同様である。

しかし、ネルヴァルの言葉を無意識の色眼鏡を外して読んでみると、彼は目の前の現実を繊細な感受性でとらえ描写し、そのうえで豊かな知識と教養に支えられ、素直でありながら詩的な文章を通して独自の世界を紡ぎ出す作家であることが、ひしひしと伝わってくる。

ここでは、『東方紀行』(Voyage en Orient)の中から、エジプトのカイロを旅立った「私」が、レバノンのベイルート港に近づく船の上から眺めた光景(1)と、港に降り立って街を歩く場面(2)を紹介してみたい。

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Nerval Ni Bonjour Ni bonsoir ネルヴァル お早うでもなく、お休みでもなく

ジェラール・ド・ネルヴァルの「お早うでもなく、お休みでもなく」は、わずか4行からなる短詩であり、非常にわかりやすい言葉で綴られている。
また、10音節の詩行は5/5のリズムでなめらかに流れ、冒頭に記された「ギリシア民謡にのせて」という指示と相まって、音楽性豊かな響きを持っている。
その一方で、内容は一見わかりやすいようでいて、深い思索を促し、さらにどこか悲しみを漂わせ、抒情的な余韻を抱かせるものとなっている。

こうした特色は、題名の « Ni bonjour (3), ni bonsoir (3) » にすでに明確に示されている。
3/3のリズムの中で ni と bon の音が重なり、その後に jour と soir が対照的に置かれる。
その響きに耳を傾けると、否定の表現 ni が bon を打ち消し、「bonjourでもなく、bonsoirでもない」と告げることで、ではいったい何なのか、という問いが自然に立ち現れてくる。

Ni Bonjour, Ni bonsoir

Sur un air grec

お早うでもなく、お休みでもなく

ギリシア民謡にのせて

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 5/5 神は生まれ変わる?

Zurbaran, Le Christ en croix

「オリーブ山のキリスト」の5番目のソネットはこの詩全体の結論となる部分であり、どのような解決がもたらさせるのだろうか? 
ここまで4つのソネットを辿ってきた読者は、ユダの裏切りと、それに続くピラトによる判決の後、キリストの苦しみが十字架の上で終わりを迎えるのかどうか、興味を引かれるだろう。

しかし、ネルヴァルは全く違う展開を構想した。
第4ソネットの最後に置かれた「その狂人(ce fou)」という言葉を受けた上で、古代ギリシアやオリエントの神々、つまりキリスト教が誕生する以前の神々を思い起こさせる。

その理由を知るためには、第1四行詩に秘められた暗示を読み説くことから始めなければならない。

V

C’était bien lui, ce fou, cet insensé sublime…
Cet Icare oublié qui remontait les cieux,
Ce Phaéton perdu sous la foudre des dieux,
Ce bel Atys meurtri que Cybèle ranime !

V

確かに彼、あの狂人だった。正気を失った崇高な者。・・・
あの忘れられたイカロス。彼は天の駆け上った。
あのパエトン。彼は神々の雷の下で打ち落とされた。
あの美しいアッティス。死んだ彼を、キュベレーが生き返らせる!

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 4/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

Salvator Dali, Christ de saint Jean de la Croix

第4詩節に進むと、大変に意外な展開が待っている。 

ここでは、ユダが姿を現す。
ユダはイエスを裏切り、イエスは捕らえられ、十字架に架けられる。ユダと聞けば裏切り者と誰もが連想する。

ところが、ネルヴァルの描くユダは「目覚めた者」。
彼の裏切りは、イエスが自分を敵に売り渡すようにユダを強いたからだとされる。
そこにはどんな理由があり、ネルヴァルは何を考え、キリスト教の教義と反する展開にしたのだろう?

IV

Nul n’entendait gémir l’éternelle victime,
Livrant au monde en vain tout son cœur épanché ;
Mais prêt à défaillir et sans force penché,
Il appela le seul – éveillé dans Solyme :

IV

誰一人、この永遠の犠牲者がうめくのを耳にしてはいなかった。
心の内を人々に打ち明けたが、無駄だった。
気を失いうようになり、力なく体を前にかがめ、
主は「たった一人の男」に声を掛けた、— エルサレムでただ一人目を覚ます者に。

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 3/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の三番目のソネットでも、主イエスの独白が続く。

その中で、まず最初に、「運命(Destin)」と「必然(Nécessité)」と「偶然(Hasard)」に対する呼びかけが行われる。

III

« Immobile Destin, muette sentinelle,
Froide Nécessité !… Hasard qui, t’avançant
Parmi les mondes morts sous la neige éternelle,
Refroidis, par degrés, l’univers pâlissant,

III

「不動の「運命」よ、お前は無言の見張りだ、
冷たい「必然」よ!・・・ 「偶然」よ、お前は進んでいく、
永遠の雪に覆われた死の世界の中を、
そして、じょじょに宇宙を冷やし、宇宙は色を失っていく。

(朗読は1分37秒から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 2/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の2番目のソネット(4/4/3/3)は、主イエスの独白によって構成される。従って、「私(je)」が主語であり、一人称の語りが続く。
言い換えると、三人称の物語ではなく、個人的な体験談ということになる。

第1のソネットで明かされた神の死の「知らせ(la nouvelle)」を受け、「私」は確認のため、神の眼差しを求め、宇宙を飛び回る。
その飛翔の様子は、すでに見てきたジャン・パウルの「夢(le songe)」 の記述をベースにしている。しかし、ここでも前回と同じように、最初は読者がそうした知識を持たないことを前提し、詩句を解読していこう。

II

Il reprit : « Tout est mort ! J’ai parcouru les mondes ;
Et j’ai perdu mon vol dans leurs chemins lactés,
Aussi loin que la vie en ses veines fécondes,
Répand des sables d’or et des flots argentés :

II

主は言葉を続けた。「全ては死んだ! 私はあらゆる世界を駆け巡った。
銀河の道を飛翔し、彷徨った、
はるか彼方まで。生命が、豊かな血管を通して
金の砂と銀の波を拡げていくほど彼方まで。

(朗読は1分から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 1/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

現代の読者がジェラール・ド・ネルヴァルの「オリーブ山のキリスト(Le Christ aux oliviers)」を読み、詩の伝える内容を理解し、詩句の味わいを感じ取ることができるのだろうか?

こんな風に自問する理由は、ネルヴァルという作家・詩人は作品の根底に、彼が生きた19世紀前半に流通していた数多くの知識を置いたため、そうした知識がないと理解に達することが難しいと思われるから。
もし知識がなければ理解できないとすると、彼の作品を現代の読者が味わうことは不可能ということになる。

では、知識なしで、彼の作品を味わうことはできるのか? 
「オリーブ山のキリスト」の場合、題名からは、扱われているのがイエス・キリストであることはわかる。
しかし、”オリーブ山のキリスト”となるとどうだろう?

ネルヴァルのことを知らず、キリスト教への興味もない場合、この詩を手に取ろうとは思わないだろう。
それでも一歩前に踏みだし、最初の詩句を読み始めると、興味が湧いてくるだろうか?

そんなことを考えながら、5つのソネット(4/4/3/3)からなる「オリーブ山のキリスト」を読み進めていこう。

Le Christ aux oliviers

Dieu est mort ! le ciel est vide…
Pleurez ! enfants, vous n’avez plus de père !
Jean Paul.

I

Quand le Seigneur, levant au ciel ses maigres bras
Sous les arbres sacrés, comme font les poètes,
Se fut longtemps perdu dans ses douleurs muettes,
Et se jugea trahi par des amis ingrats ;

オリーブ山のキリスト

         神は死んだ! 天は空っぽだ・・・
         泣くがいい、子どもたちよ、もう父はいない!
                            ジャン・パウル

I

主は、痩せ細った腕を天に向けて上げ、
神聖な木々の下で、ちょうど詩人たちのように、
長い間、声も出ないほどの苦痛の中に沈み込んでいた、
そして、恩知らずな友たちに裏切られたと思った時、

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ネルヴァル 「ミルト」 Nerval Myrtho 今を永遠に

「ミルト(Myrtho)」はネルヴァルの中編小説集『火の娘たち(Les Filles du feu)』(1854)の最後に挿入された「幻想詩篇(Les Chimères)」の中のソネット(4/4/3/3の14行で構成される詩)。

「幻想詩編」は、ネルヴァルの精神が混乱し、彼自身の言葉を使うと、「ドイツ人なら超自然主義と呼ぶような夢想状態で」創作されたために、理解が難しいと考えられることが多い。
「最後の狂気は自分を詩人だと思い込んでいること」という告白らしい言葉を残しているのだから、ますます、「幻想詩編」の詩句が混沌としていると信じられてきた。
確かに、読んですぐに理解でき、詩としての味わいを感じられる、ということはないだろう。

しかし、先入観を持たずに読んでいると、分かりにくさの理由は精神の混乱によるのではないことがわかってくる。理解を困難にしている第一の理由は、わずか14行の詩句に、地理、神話、宗教、歴史などに関する知識が埋め込まれていることから来る。
実際、ネルヴァルは博識な詩人であり、各種の豊かな知識を前提として創作を行った。しかも、彼と同じように博識な読者を煙に巻き、面白がるところがある。
「幻想詩編」は、「ヘーゲルの哲学ほどではないが理解が難しく、しかも、解釈しようとすると魅力が失せてしまう。」とネルヴァルが言うのも、皮肉とユーモアの精神からの発言に違いない。

「ミルト」の場合には、ポジリポ、イアッコス、ヴェルギリウスなどにまつわる知識が、ネルヴァル独自の連想を呼び起こし、一見混沌とした世界を浮かび上がらせる。

しかし、その一方で、詩の形式に関しては、非常にバランスが取れ、古典主義的な抑制がなされている。
12音節の詩句(アレクサンドラン)は、基本的に6/6で区切れ、リズムが均一に整えられている。
韻の形は、2つの4行詩(カトラン)では、ABBA ABBAで、2つの音。
enchanteresse – tresse – ivresse – Grèce / brillant – Orient – souriant – priant
3行詩(テルセ)に関しても、CDC DDCで、こちらも2つの音だけ。
rouvert – couvertvert / agile – argile – Virgile

その上、韻となる母音の前後の子音や母音も重複し(rime riche)、声に出して読んでみると、それらの単語が互いにこだまし、豊かに響き合っていることがはっきりとわかる。

このように、「ミルト」の詩句は安定したリズムと豊かな音色で輪郭が明確に限定されていて、狂気による混乱などどこにもない。
朗読を聞くか、あるいは自分で声に出して読んでみると、単調なリズムを刻む中、心地よいハーモニーが奏でられていることを実感できる。

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