
「ミルト(Myrtho)」はネルヴァルの中編小説集『火の娘たち(Les Filles du feu)』(1854)の最後に挿入された「幻想詩篇(Les Chimères)」の中のソネット(4/4/3/3の14行で構成される詩)。
「幻想詩編」は、ネルヴァルの精神が混乱し、彼自身の言葉を使うと、「ドイツ人なら超自然主義と呼ぶような夢想状態で」創作されたために、理解が難しいと考えられることが多い。
「最後の狂気は自分を詩人だと思い込んでいること」という告白らしい言葉を残しているのだから、ますます、「幻想詩編」の詩句が混沌としていると信じられてきた。
確かに、読んですぐに理解でき、詩としての味わいを感じられる、ということはないだろう。
しかし、先入観を持たずに読んでいると、分かりにくさの理由は精神の混乱によるのではないことがわかってくる。理解を困難にしている第一の理由は、わずか14行の詩句に、地理、神話、宗教、歴史などに関する知識が埋め込まれていることから来る。
実際、ネルヴァルは博識な詩人であり、各種の豊かな知識を前提として創作を行った。しかも、彼と同じように博識な読者を煙に巻き、面白がるところがある。
「幻想詩編」は、「ヘーゲルの哲学ほどではないが理解が難しく、しかも、解釈しようとすると魅力が失せてしまう。」とネルヴァルが言うのも、皮肉とユーモアの精神からの発言に違いない。

「ミルト」の場合には、ポジリポ、イアッコス、ヴェルギリウスなどにまつわる知識が、ネルヴァル独自の連想を呼び起こし、一見混沌とした世界を浮かび上がらせる。
しかし、その一方で、詩の形式に関しては、非常にバランスが取れ、古典主義的な抑制がなされている。
12音節の詩句(アレクサンドラン)は、基本的に6/6で区切れ、リズムが均一に整えられている。
韻の形は、2つの4行詩(カトラン)では、ABBA ABBAで、2つの音。
enchanteresse – tresse – ivresse – Grèce / brillant – Orient – souriant – priant
3行詩(テルセ)に関しても、CDC DDCで、こちらも2つの音だけ。
rouvert – couvert – vert / agile – argile – Virgile
その上、韻となる母音の前後の子音や母音も重複し(rime riche)、声に出して読んでみると、それらの単語が互いにこだまし、豊かに響き合っていることがはっきりとわかる。
このように、「ミルト」の詩句は安定したリズムと豊かな音色で輪郭が明確に限定されていて、狂気による混乱などどこにもない。
朗読を聞くか、あるいは自分で声に出して読んでみると、単調なリズムを刻む中、心地よいハーモニーが奏でられていることを実感できる。
題名のミルト(Myrtho)は、神話の中でそれほど知られた存在ではない。
19世紀の神話辞典(Noël, Dictionnaire des Fables, 1823)を見ても、女性だけの騎馬民族アマゾーンの一人だとか、巨人族の王メネティウスの娘でヘラクレスと結婚したといった簡単な記述があるだけである。
そこで、「私(Je)」がミルトに語り掛けるとき、彼女がどのような存在なのか明らかにすることから始められる。
Je pense à toi, / Myrtho, // divine enchanteresse,
Au Pausilippe altier, // de mille feux brillant,
À ton front / inondé // des clartés d’Orient,
Aux raisins noirs / mêlés // avec l’or de ta tresse.
私は想っている、お前のことを、ミルト、神聖な魔法使いよ、
気高いポジリポを、幾多の火でキラキラと輝く、
お前の額を、オリエントの光に浸されている、
黒い葡萄を、お前の髪の黄金と溶け合った。

魔法使いと訳したenchanteresseは、有名なl’enchanteur Merlin(魔法使いメルラン)の女性版ともいえ、「私(Je)」が最初に、divine enchanteresse(神聖な魔法使い)とミルト(Myrtho)に呼びかけることで、彼女が物語的・神話的な世界の存在だと明かされる。

次に出てくるポジリポ(Pausilippe)は、ナポリの街を一望の下に見下ろす丘の名前。
現在でもナポリ観光のハイライトの一つになっているが、19世紀前半にはすでに数多くの人々が訪れ、真っ暗な夜でも数多くのランプが灯され、非常に賑やかな地になっていた。
1837年に発行された事典には、「そこで出会う暗い夜は、ランプの光によって常に打ち負かされている。(la nuit épaisse qu’on y rencontre est constamment combattue par la clarté des lampes.)」と記されている。
従って、ポジリポが、幾多の火でキラキラと輝く(brillant de mille feux)というのは、ネルヴァルが1834年か1843年にナポリを訪れた時に目にした光景を、そのまま詩句にしているのかもしれない。

19世紀にポジリポに関して必ず話題になるのは、丘に穿たれた巨大な洞窟。
聖母マリアに捧げられた祭壇があり、その上には、古代ローマの詩人ヴェルギリウスの墓が見つかっていた。
詩の最後の部分でヴェルギリウスの名前が出てくるのは、決して唐突なことではなく、ポジリポからの連想として自然な流れだといえる。
次に、ミルトの額(le front)と髪(la tresse)が歌われるが、オリエントの光に浸された(inondé des clartés d’Orient)額や、黒い葡萄(les raisons noirs)と髪の黄金(l’or)の混ざり合う(mêlé)様子は、魔法使いミルトと気高いポジリポを融合し、ミルトをナポリの土地の精のように感じさせる効果がある。
そして、[ o ]の音がそれらを結ぶ糸となる。
詩の最後に置かれた植物 myrthe(ギンバイカ)の最後の e を o に変えて作ったMyrthoという名前から始まり、Pausilippe、Orientを通り、l’orにいたる。
ポイントとなる言葉がそれぞれの行に置かれ、それらを [ o ]が繋いでいる。
このようにして、ミルトに対する呼びかけは、ポジリポの真っ暗な夜を思わせる黒い葡萄が、オリエントの黄金の光に照し出される光景を浮かび上がらせ、そのイメージがミルトと重ね合わせられる。

第2四行詩(カトラン)で、連想はナポリから古代ギリシアへと移行する。
C’est dans ta coupe aussi // que j’avais bu l’ivresse,
Et dans l’éclair furtif // de ton œil souriant,
Quand aux pieds d’Iacchus // on me voyait priant,
Car la Muse m’a fait // l’un des fils de la Grèce.
お前の盃の中でも、私はすでに陶酔を飲んだことがあった、
そして、お前の微笑む眼差しの、逃げ去ろうとする稲妻の中でも。
その時、イアッコスの足元で、私が祈る姿を人々は見ていた、
ミューズが、私を、ギリシアの息子たちの一人にしたからだ。
「私」が陶酔を飲んだ(j’avais bu l’ivresse)のは、ミルトから差し出された盃(ta coupe)からだけではなく、むしろ、ミルトの目がチラッと微笑む(souriant)のを垣間見たからだろう。その眼差しは、雷のように一瞬輝き、あっという間に逃げ去ってしまう(l’éclair furtif)。
その酔い(l’ivresse)の中で、「私」はイアッコス(Iacchus)を思い起こす。(現在のフランス語では、Iacchosと綴ることが多い。)

ミルトと同じようにイアッコスもギリシア神話の中で大きな役割を与えられる神ではなく、酒神バッカスの別名とだけ記されることも多い。
もし役割が認められるとしたら、古代ギリシアのエレウシスにおいて、女神デメテールとペルセポネー崇拝のために行われた秘儀の中でだった。
エレウシスの密議は、穀物と豊穣の女神デメテールが、娘のペルセポネーを冥府の神ハデスによって奪われるエピソードに基づいて行われた。
デメテールは主神のゼウスを通してハーデースを説得し、ペルセポネーを地上に連れ戻すことができる。しかし、地上に戻る前、ペルセポネーはハデスの策略により冥府の食べ物であるザクロの種を食べてしまう。そのために、1年のうち3分の1は冥界にいることを強いられ、残りの3分の2を地上で過ごすことになる。
この神話はしばしば穀物の種が大地に植えられ、それが発芽し実りを迎える過程を象徴すると解釈されるが、エレウシスの秘儀においては、ペルセポネーは死と再生を繰り返すことで永劫回帰する生命を象徴するとみなされた。
そして、信者たちは、密儀で課される試練を経ることで、死後の幸福が得られると信じていた。

実際には、秘儀の儀礼は門外不出であり不明なことが多いが、イアッコスがなんらかの役割を果たしたことは知られている。
そうした知識に基づき、イアッコスの足元で(aux pieds d’Iaccus)、祈りを捧げる(priant)「私」の姿は、エレウシスの秘儀に参入したことを示している。
そして、その資格を得たのは、ミューズの加護のおかげに違いない。
詩の女神(ミューズ)が、「私」を、ギリシアの息子の一人(un des fils de la Grèce)にしてくれたのだ。
このように見てくると、イタリアのナポリと古代ギリシアのエレウシスが通底し、神聖なミルトの魔力の根源に古代ギリシアの宗教思想が流れていることがわかってくる。

2つの三行詩(テルセ)に進むと、ナポリの有名な火山の噴火に言及され、次に、詩人ヴェルギリウスの月桂樹が思い起こされる。
Je sais pourquoi là-bas // le volcan s’est rouvert…
C’est qu’hier tu l’avais // touché / d’un pied agile,
Et de cendres / soudain // l’horizon s’est couvert.
Depuis qu’un duc normand // brisa tes dieux d’argile,
Toujours, / sous les rameaux // du laurier de Virgile,
Le pâle Hortensia // s’unit au Myrthe vert !
私は知っている、なぜ、あちらで、火山が再び開いたのかを・・・。
それは、昨日、お前が触れたからだ、素早く動く足で。
そして、灰で、突然、地平線が覆われた。
一人のノルマン人公爵が、粘土でできたお前の神々を破壊して以来、
常に、ヴェルギリウスの月桂樹の枝の下で、
青白いアジサイが、緑のギンバイカと結ばれる!
「私(je)」はナポリを見下ろすポジリポの丘の上にいる。そして、あちら(là-bas)に目をやると火山が見える。
その火山とは、有名なヴェスヴィオ山。

起源79年の大噴火で、麓にあったポンペイやヘルクラネウム(現在の名前はエルコラーノ)などの町を一日で埋没させた。
その大災害は長い間忘れられていたが、18世紀の前半にポンペイが噴火当時のままの姿で発掘され、当時のヨーロッパの人々の想像力を強く刺激した。
19世紀になると、芸術の素材として取り上げられることも多くなる。
1828年には、パリのオペラ座で、スクリーブ作の「ポルティチの物言わぬ娘(La Muette de Portici)」が上演され、ナポリ近郊にあったポリティチをヴェスヴィオ山の噴火が襲う様子が、観客たちの目の前に描き出された。

1834年には、イギリスの小説家エドワード・リットンが、『ポンペイ最後の日』を出版し、フランス語にも翻訳され広く読まれた。
その小説は、ロシアの画家カール・パヴロヴィチ・ブリューロフの「ポンペイ最後の日」(1830-33)に触発されたものだった。
こうした作品が流通していたために、ポジリポの丘から見る火山と言えばヴェスビオ山の噴火を思い描くという連想が働いたに違いない。
というか、ネルヴァルはその知識を持つ読者を前提として、火山が再び開き(le volcan s’est rouvert)、地平線が灰で覆われた(de cendres l’horizon s’est couvert)という詩句を書いたのだと思われる。
そして、そこに独自の要素を加える。それが、ネルヴァルのいつものやり方なのだ。
その要素とは、ミルトが火山を足で素早く触れた(tu l’avais toucé d’un pied agile)ことが、噴火の原因とすること。動詞が直説法大過去に活用されていることから、時間的にも、触れたこと(avais touché)が、火山が再び開き(s’est rouvert)、灰で地平線が覆われた(s’est couvert)という複合過去の時点ではすでに完了した行為であり、噴火の原因であることがはっきりと示されている。
最初にミルトは神聖な魔法使い(divine enchanteresse)と呼びかけられたが、彼女は火山を噴火させるほどの力を持つ。
その超自然な力は、韻を踏む rouvert と couvertという言葉によって、視覚的にも、音的にも、強く印象付けられる。ミルトは、再び開くことも覆うことも可能であり、対立する現象を生じさせることが可能なのだ。
そして、対立の共存が第2三行詩(テルセ)の最後の詩句を密かに予告する。
。。。。。

第2三行詩では、突然、一人のノルマン人公爵(un duc normand)が出てくる。
ノルマン人公爵に関する言及は、ナポリを含む南イタリアが、11世紀から12世紀にかけて、北フランスのノルマンディー公国からやってきた傭兵たちによって征服されたという、歴史的な事象に基づいている。
ノルマン人による南イタリア征服は、1066年にノルマン人がイギリスを征服したノルマン・コンクエストとは違い、100年近くをかけて徐々に行われたものであり、一人の王に導かれて決定的な戦いに勝利した結果、成し遂げられたものではない。
従って、一人のノルマン人公爵とは、ロベルト・イル・グイスカルド(1059-1085)やシチリア伯ルッジェーロ2世(1095-1154)といった特定の人物を指しているわけではなく、東ローマなどの支配からノルマン・シチリア王国へと時代が移行したことを象徴する人物だといえる。
その公爵がミルトの神々を打ち砕いた(un duc normand brisa tes dieux )と単純過去で示される過去の出来事は、ミルトの仕える神々がノルマン人による征服以前の神々、つまり古代ギリシア・ローマの神々であることを明らかにする。
そして、そのミルトを想う「私」も、ギリシアの息子たちの一人(un des fils de la Grèce)であり、打ち負かされ追放された側にいることになる。
ポジリポの丘で、そんな「私」の目に入るのは、3種類の植物。
月桂樹(laurier)とアジサイ(Hortensia)とギンバイカ(Myrthe. 現在の一般的な綴りはmyrte.)。
すでに触れたように、ポジリポの丘に穿たれた洞窟には、ヴェルギリウスの墓がある。
伝説によれば、ヴェルギリウスが死んだ時、墓のある洞窟の入り口近くに大きな月桂樹が植えられたという。

そうした言い伝えに基づきながら、ネルヴァルがヴェルギリウスを通して暗示しようとするのは、『牧歌(Eglogue)』で語られた、クーマエの巫女の神託だと考えられる。

クーマエとは、ナポリの西12キロにあり、イタリア半島に初めて作られた古代ギリシアの都市。
『牧歌』の第4歌では、クーマエの巫女に預言された時代が戻ってくると告げられる。
「クマエの歌の最後の時代が今訪れようとしている。
新たな世紀の大いなる秩序が生まれる。
今やウィルゴも戻ってくる。サトゥルヌスの王国もよみがえる。」
この神託で重要な点は、甦る、再帰するということ。
ウィルゴ(乙女)は、かつての黄金時代に地上で暮らしていたが、人類が堕落するのに愛想を尽かし、天に昇り乙女座になったという存在。
古い農耕神サトゥルヌスは、ゼウスに王位を奪われ、イタリアに逃れて ローマのカンピトリオの丘に住んだ。その時代、サトゥルヌスの治世下で人々は幸福な生活を送り、黄金時代と呼ばれた。
クーマエの巫女は、その黄金時代が戻ってくると予言する。

その神託は、ノルマン人公爵に破壊されたミルトの神々が復活することを予感させるものであり、ギリシアの息子である「私」にも、再びエレウシスの秘儀に預かることができるという希望を与える。
従って、ヴェルギリウスの月桂樹(le laurier de Virgile)は、過去が回帰する予兆を象徴する植物だと考えることができる。
その月桂樹の茂みの下で、アジサイとギンバイカが結びつく。


アジサイ(hortensia)は元来ヨーロッパにはなく、18世紀に日本あるいは中国から輸入された観賞用植物。
枝の先には淡いピンクの花が咲くと、19世紀半ばに出版された辞書に記されている。
反対に、ギンバイカ(myrte)は、古代ギリシアでヴィーナスに捧げられた花。
その低木は一年中緑であり、白い花が咲き、いい香りがする。近代では、愛を象徴する花と見なされた。
その二つの花は、色彩的に、淡いピンクと緑色が対比されるが、この詩の理解の上では、ヨーロッパに新しくもたらされた花と古代からずっと伝わる花という点が、もっとも大きな対立点になる。
すると、アジサイは新しく出来たノルマン朝シチリア王国と、ギンバイカは古代ギリシア・ローマと対応することになる。
そして、ここで重要なのは、ヴェルギリウスの月桂樹の下で、アジサイとギンバイカが二つ同時に存在し、結びついている(s’unit)こと。
粘土でできた古代の神々が壊されてしまったとしても、完全に失われてしまったわけではない。
月桂樹が古代の復活を予告するが、その神託がまだ実現しているわけでもない。
過去と未来が現在の中に共存し、つまり現在が過去と未来を含み、「永遠の現在」とでもいえる時を形成している。
ミルトも、開くと同時に覆う力を持っている。
そのように考えると、Myrthoは、myrth(e)とho(rtensia)を組み合わせて作られた名前だともいえる。ミルトという名前の中に、過去と未来が同時に存在する。
。。。。。

ナポリの海を見下ろすポジリポの丘の上に立ち、ヴェスヴィオ火山を眺めながら、「私」がミルトを想う(Je pense à toi, Myrtho)のは、エレウシスの秘儀に参集する者が感じるような陶酔(l’ivresse)の中で、対立するものが共存し、流れ去る今という時を永遠にすることなのかもしれない。
こうした願いは非理性的だと思われるかもしれない。しかし、ある幸福な体験の中で、その幸せが永遠であって欲しいと願うことは誰にもあるだろう。
としたら、ネルヴァルがミルトに捧げる祈りの気持ちを、私たちも共有できるのではないだろうか。

Mélanie Traversierの朗読は、そんな祈りを感じさせてくれる。
(1)知識
「ミルト」一つを取っても、数多くの知識が前提にされている。そのために、ネルヴァルと知識を共有しない読者にとって、理解が難しいと感じられる原因になるのも確かだろう。
しかし、アプローチが困難だからといって、ネルヴァルの作品から遠ざかってしまうのはもったいない。
a.
知識なしで読むことができないわけではない。
ミルトとポジリポの重なり合う美しいイメージを追い、ミルトが火山を噴火させる不思議な力に驚き、rouvert-couvertの対比をs’unirに繋げることで、対立するものの一致を読み取る。
そこからどのような解釈を導くかは読者次第、という読み方でもできる。
b.
ナポリや古代ギリシアの知識をそれほど持たない場合には、「ミルト」を通して、新しい知識を得ることができる。
日本語のwikipediaは、英語やフランス語のサイトに比べ科学的な知見に劣ることが多いという指摘があるが、幸いなことに、ナポリやエレウシスの秘儀に関してはかなり充実した記述がなされている。
ノルマン人による南イタリア征服
https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマン人による南イタリア征服
エレウシスの秘儀
https://ja.wikipedia.org/wiki/エレウシスの秘儀
ペルセポネの略奪
https://ja.wikipedia.org/wiki/ペルセポネー
ヴェルヴィオ山の噴火
https://ja.wikipedia.org/wiki/79年のヴェスヴィオ噴火
ヴェルギリウスの『牧歌』
https://ja.wikipedia.org/wiki/牧歌_(ウェルギリウス)
ヴェルギリウスの墓
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウェルギリウスの墓
こうした項目をきっかけにして、古代ギリシアの神話や宗教、古代ローマを代表する詩人ヴェルギリウス、ナポリを中心にした南イタリアの地理と歴史など、自分の関心に応じ様々な知識を得ることができる。
(2)ネルヴァルの他の作品との関連
「ミルト」で言及されたポジリポの丘やヴェルヴィオ火山、そしてイアッコスに関する言及は、『火の娘たち』に含まれるいくつかの作品でも触れられている。
a. 「幻想詩篇」の最初に置かれた「エル・デスディチャド(不幸者)」には、次の詩句が見られる。
Dans la nuit du tombeau, toi qui m’as consolé,
Rends-moi le Pausilippe et la mer d’Italie
墓石の夜の中で、私を慰めてくれた「あなた」よ、
返してください、ポジッリポとイタリアの海を、
ネルヴァルの名刺(表面) 「エル・デスディチャド(不幸者)」 Gérard de Nerval « El Desdichado »
b. 「デルフィカ(Delfica)」
原稿の段階では、「デルフィカ」の2つの四行詩に続くのは、「ミルト」の2つの三行詩だった。
そして、新しい三行詩でも、ヴェルギリウスが歌うクーマエの巫女の神託を思わせる言葉が使われている。
Le temps va ramener l’ordre des anciens jours
時が、古代の日々の秩序を、再びもたらすことになる。
ネルヴァル 「デルフィカ」 Nerval « Delfica » 再生と待機
c. 「オクタヴィ(Octavie)」はナポリを舞台にした中編小説であり、ヴェルヴィオ山の噴火らしい記述や、ポンペイにある女神イシスの神殿での秘儀が暗示されている。
d. 「イシス(Isis)」は、女神イシスに捧げられた信仰を中心にした考古学的紀行文。
イアッコスについても語られるが、その際、Iacchus-Iesus(イアッコス=イエス)という名称が使われる。
それが、古代ギリシアの宗教にキリスト教が取って代わったという宗教思想の表現かもしれない。
その宗教思想はヴェルギリウスの『牧歌』でのクーマエの巫女とも関係し、新しく生まれる子供はイエスであり、巫女はキリスト教の到来を予告しているという解釈がなさることもある。
その解釈を取り入れる場合、古代の宗教とキリスト教の関係は、断絶なのか継続なのかという議論とつながり、ネルヴァルが継続の立場にあることがわかってくる。
e. ネルヴァルの代表作「シルヴィ(Sylvie)」には、エレウシスの秘儀と関係する次の表現が見られる。
「私は太鼓を食べ、シンバルを飲んだ。(J’ai mangé du tambour et bu de la cymbale)」
この言葉の意味は、「必要に応じては、ナンセンスとばかばかしさの限界を超えなければならない。(il faut au besoin passer les bornes du non-sens et de l’absurdité.)」だと説明される。
f. 「コリッラ(Corilla)」はナポリのサンタ・ルチア通りを背景とした一幕の芝居。
取り違え(キプロコ)をテーマにし、一つのものが二つに見えることで生まれる誤解という設定は、対立するものの共存を別の側面から扱っていると考えることもできる。
以上は、『火の娘たち』に収められた作品の中で直接関係あるものだが、ネルヴァルの作品世界ではエジプトの女神イシスが重要な役割を果たしており、ミルトにイシスとの関連性を見るとすれば、さらに広範囲の指摘が可能になる。
。。。。。

「ミルト」をきっかけにして、ネルヴァルの作品をいくつか読んでみるのも楽しい。
『火の娘たち』の翻訳であれば、野崎歓訳(岩波文庫、2020年)がある。
フランス語の原典もネット上で読むことが出来る。
https://fr.wikisource.org/wiki/Les_Filles_du_feu
(3)他の作家、詩人との関連
a. ジャン・ジャック・ルソー『孤独な夢想者の散策(Les rêveries d’un promeneur solitaire)』
ルソーにとって、自然の中で、自己意識が消え去り、自己と自然が一体化する状態が最高の幸福だと感じられる。
そうした状態の中では、時間の流れが消滅し、今が永遠に続く感覚を味わう。
b. ボードレール「白鳥(Le Cygne)」
「白鳥」の冒頭は、ミルトへの呼びかけを思わせる。
Andromaque, je pense à vous !
アンドロマック、私はあなたのことを考えている!
ボードレール 白鳥 モデルニテの詩 1/2
c. マラルメ「牧神の午後(L’après-midi d’une faune)」
「牧神の午後」の99-101詩行で、シチリアのエトナ山の噴火に言及される。その詩句の黄金(or)と灰(cendres)は、「ミルト」の詩句からの連想である可能性がある。
À l’heure où ce bois d’or et de cendres se teinte (99)
Une fête s’exalte en la feuillée éteinte :
Etna !
この森が、金と灰に染まる時、(99行目)
一つの祭りが高揚する、火の消えた葉叢の中で。
エトナ山よ!
マラルメ 牧神の午後 6/6 逃れ去る美の影を求めて