「無」の思想 日本最初の荘子の受容

日本の文化の中で「無」が重要な役割を果たすことはよく知られているが、「無」とは何なのか、そしてなぜ日本人が「無」にこれほど惹かれるのか、説明しようとしてもなかなかできない。
そうした中で、荘子の思想は重要なヒントを与えてくれる。

大変興味深いことに、8世紀末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』には、荘子受容の最初の例としてよく知られる歌がある。

心をし 無何有(むかう)の郷に 置きてあらば 藐孤射(はこや)の山を 見まく近けむ                     (巻16・3851番)

もし心を「無何有の郷」、つまり「何もなく、無為(むい)で作為(さくい)のない状態」に置くならば、「藐孤射の山」、つまり「仙人が住むとされる山」を見ることも近いだろう、とこの作者未詳の歌は詠っている。

現代の私たちも、無の状態になることが何かを成し遂げるときに最もよい方法だと言うことがあるが、それと同じことを、今から1300年以上も前の無名の歌人も詠っていたことになる。
そして、「無何有の郷」と「藐孤射の山」が、『荘子』の「逍遥遊(しょうようゆう)」篇で語られる挿話に出てくる固有名詞だということを知ると、日本人の心のあり方と荘子との関係に深さがはっきりと見えてくる。

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富士山を通して見る日本人の心情 3/3 空に消えてゆくへも知らぬわが思い

奈良時代から鎌倉時代前期にかけて、人々が富士山に託した思いは、「神さびて高く尊き」信仰の対象から、「恋の炎」に象徴される情念の山が加わり、さらに「空し」といった無常観を帯びることもあった。

ここで注意したいのは、富士山の象徴がいつの時代にも多層的であり、いずれか一つの側面が他を排除することはなかったという点である。神聖、燃える恋、儚い恋、そして無常、それらが共存していたことこそ、きわめて日本的な現象であるといえる。

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富士山を通して見る日本人の心情 2/3 燃える富士から富士の煙へ

山部赤人のように、富士山に「神さびて高く貴き」感情を投げかける流れが成立した一方で、より人間的な感情を託す流れも生まれていった。

人間的な感情の代表は、まず第一に「恋」であり、その場合、富士山の噴火から連想される「燃える」という言葉によって表されることが多い。
もう一つの代表的な感情は「無常観」であり、噴火の後の「煙」は、恋だけではなく、無常を象徴することもあった。

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富士山を通して見る日本人の心情 1/3 神さびて高く貴き富士

富士山は、日本の象徴として最もふさわしい存在だと多くの人が考えているに違いない。では、その富士山に対して、日本人はどのような感情を抱き、どのように表現してきたのだろうか。

この問いに対して、奈良時代から平安時代を経て鎌倉時代前期にかけて作られた和歌や物語は、一見対照的な二つの心情を私たちに伝えてくれる。
山部赤人(やまべのあかひと)と西行(さいぎょう)の歌に、その典型を見ることができる。

田子の浦ゆ 打ち出いでて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
(『万葉集』3-318)

風になびく 富士の煙(けぶり)の 空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひかな
(『新古今和歌集』1615)

赤人の富士には、真っ白な雪が降り積もり、永遠に続くような神々しい姿が描かれている。
それに対して、西行の富士には風が吹きつけ、噴火の煙が空に消えていくさまが、生の儚さや無常観を象徴している。

奈良時代から平安時代へと時代が移りゆくなかで、富士山に託された心情は、このように変化していったのである。
その変遷の過程をたどることは、日本人の心のあり方を、私たち現代人にあらためて問いかけてくれるだろう。

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本人に抱いた第一印象

ラフカディオ・ハーンが強く日本に惹かれたことはよく知られているが、来日当初、彼の眼には日本人の姿がどのように見えていたのだろうか?

その疑問の回答となる一節が、1894年に刊行されたGlimpses of Unfamiliar Japan(『なじみのない日本を垣間見る』)に収録された« From the Diary of an English Teacher »(英語教師の日記から)と題された章の中にある。
それは、松江中学に英語教師として赴任したハーンが二度目の新学期の印象を綴ったシーンで、以下のように書き始められる。

Strangely pleasant is the first sensation of a Japanese class, as you look over the ranges of young faces before you. There is nothing in them familiar to inexperienced Western eyes; yet there is an indescribable pleasant something common to all.

日本の教室に入ってまず感じるのは、不思議なほど心地よい感覚だ。目の前にずらりと並んだ若い顔を見渡すときだ。未熟な西洋人の目には、どの顔にも見慣れた特徴は何ひとつない。それなのに、すべての顔に共通して、言葉では言い表せないような心地よい何かが感じられるのだ。

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人間の本質は変わらない 小林秀雄のランボー論と本居宣長論を例にして

年齢を重ね、ある時ふと過去を振り返ると、何かを感じ、考え始めた時期に興味を持ったものと同じものに、ずっとこだわり続けていることに気づくことがある。
そして、そんな時、自分の根底に流れている音楽――いわば、人生という楽曲を通して響き続けている通奏低音――は、変わらないものだと痛感する。

その一例として、小林秀雄(1902〜1983)を取り上げたい。

小林が東京帝国大学在学中に最も親しんだのは、フランスの詩人シャルル・ボードレールとアルチュール・ランボーであった。1926(大正15)年にはランボー論を大学の論文集に発表し、翌年にはランボーをテーマとした卒業論文を提出している。
他方、晩年に中心的に取り組んだのは、江戸時代中期の国学者・本居宣長である。『本居宣長』論は約11年にわたって雑誌に連載され、1977(昭和52)年に単行本として刊行された。

ランボーのような破天荒な詩人と、現在の日本でもしばしば参照される国学の基礎を築いた学者とでは、思想的にも表現方法の上でも全く異なっている。
フランスの近代詩や哲学から評論活動を始めた小林秀雄が、『源氏物語』や『古事記』の研究に生涯を捧げた宣長になぜ惹かれ、人生の最後の時期を費やしたのか――それは一見、不思議に思える。

しかし、ランボーと宣長という、まったく接点のない対象を扱った論考を通して、見えてくるものがある。
それは、小林秀雄の批評を貫いて響く通奏低音である。
対象は変化しても、小林の在り方は決して変わらない。ランボーも、宣長も、そして小林自身も、対象に対して外部から理性的にアプローチするのではなく、対象に入り込み、一体化しようとする。そして、そこにこそ創造が生まれる。

小林秀雄自身の言葉を手がかりに、その跡をたどってみよう。

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小泉八雲 ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn 怪談の思想

小泉八雲(Lafcadio Hearn)の一生を知るには、八雲自身が記した履歴書を参照するのが最も確実だろう。
それは、1903(明治36)年に東京帝国大学の講師を退職させられた翌年、早稲田大学に提出したものである。
なお、東京帝国大学を退職することになったのは、後任として夏目漱石が採用されることが決まっていたためだが、学生たちは八雲の授業を好み、留任を求める運動が起きたことも知られている。

小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)英国臣民。一八五〇年、イオニア列島リュカディア(サンタ・マウラ)に生る。アイルランド、英国、ウェールズ、(及び一時は仏国)にて成人す。一八六九年、アメリカに渡り、印刷人及び新聞記者となり、遂にニューオーリンズ新聞の文学部主筆となる。ニューオーリンズにて当時ニューオーリンズ博覧会の事務官、後兵庫県知事なる服部一三(はっとり いちぞう)氏にあう。一八八七年より一八八九年まで仏領西印度のマルティニークに滞在。一八九〇年、ハーパー兄弟書肆(しょし)より日本に派遣される。当時の文部次官(注:実際には普通学務局長)服部氏の好意により、出雲松江の尋常中学校に於て英語教師の地位を得。一八九一年の秋、熊本に赴き、第五高等中学校に教えて一八九四年に到る。一八九四年、神戸に赴き、暫時(ざんじ)『神戸クロニクル」の記者となる。一八九五年、日本臣民となる。一八九六年、東京帝国大学に招かれて講師となり、一九〇三年まで英文学の講座を担任す。— その間六年七ヶ月。日本に関する著書十一部あり。

   (田部隆二『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』より)

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高橋虫麻呂 奈良時代の異邦人 『万葉集』 孤独なホトトギスのあはれ

高橋虫麻呂(たかはしの むしまろ)は、生没年不詳だが、『万葉集』に長歌と反歌(短歌)あわせて三十五首が収められており、奈良時代初期の歌人と考えられている。

彼の歌には、地方の伝説を題材としたものもあり、「水之江の浦の島子を詠む一首」と題された長歌は、浦島太郎伝説の最古の形を伝えるものとして、きわめて興味深い。
浦島物語 奈良時代 神仙思想

その一方で、「霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ一首と短歌」のように、人間のあり方を主題とした歌もある。
ほととぎすは、鶯(うぐいす)など他の鳥の巣に卵を産み、その鳥に育てさせる「託卵(たくらん)」という習性をもつ。高橋虫麻呂は、そのほととぎすを題材に、アンデルセンの童話『醜いアヒルの子』(1843年)よりも約千年前に、周囲から孤立した存在の姿を描き出している。

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柿本人麻呂 飛鳥時代の抒情 失われたものへの愛惜を詠う

『万葉集』を代表する歌人である柿本人麻呂は、あえて時代錯誤的な表現を用いるなら、日本で最初の抒情詩人といっていいかもしれない。実際、人麻呂の和歌には、時間の流れに運ばれて失われていくものへの愛惜を美しく表現したものが数多くあり、現代の私たちが読んでも心にすとんと落ちる情感が詠われている。

そのことを最もよく示しているのが、「かえり見る」という姿勢である。そして、振り返るとともに甦ってくる「いにしえ」に思いを馳せるとき、そこに「悲し」の情感が生まれ、飛鳥時代から現代にまで繫がる日本的な抒情が、美として生成される。

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井筒俊彦 「気づく」から哲学と詩へ 

井筒俊彦は、「『気づく』―詩と哲学の起点」と題されたエッセイを通して、「気づく」というごく当たり前の行為から、「理解すること」=哲学と、「心で感じ取ること」=詩的感動という二つの営みが導き出されることを、私たちに教えてくれる。

その際、「気づく」という同一の行為を出発点として、一方には古代ギリシアの思考法とアリストテレスを、他方には和歌や俳句の表現を置き、哲学と詩がどのように発生し、それらがどのように異なるのかを、簡潔な文章で記述している。

ここでは、このエッセイの内容をできるかぎりわかりやすく解読し、最後に全文をPDFとして掲載することにする。

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