言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 3/3

(2)日本文学の中の言葉

「言葉には届かない領域がある」という言語観を、荘子と仏教の公案を通して確かめてきたが、ここからは、その意識が、理論や説話ではなく、和歌や俳句といった言語芸術によってどのように表現されてきたのかを、簡単に見ていこう。

和歌の場合は三十一音、俳句ではわずか十七音によって、言葉の直接的な意味だけではとうてい表現不可能な世界が浮かび上がる。そこでは、言葉は常に意味を超えたものを思わせ、「そこにあるもの」から、その奥にひっそりとたたずむ何かを呼び起こす。

その代表的な例の一つとして、まずは藤原定家のよく知られた和歌を読んでみよう。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 
浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮
(『新古今和歌集』秋上・363)

秋の夕暮れ、浜辺に立ち、ぐるりとあたりを見渡しても、美しい花も紅葉した木々もない。目に入ってくるのは、浦に建つ漁民の粗末な苫屋だけである。
和歌の意味するところを散文で言い表せば、そのような寂しく殺風景な情景への言及にすぎない。

しかし、それにもかかわらず、この和歌は日本的な美の表現としてしばしば取り上げられ、現代の私たちの感性にも強く訴えかける力を持っている。

その一つの鍵は、「なかりけり」という言葉にある。
この語が存在を否定することによって、かえってその侘しく寂しい光景の中に、存在しないはずの花と紅葉が一瞬、心に描き出される。

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芭蕉 『笈の小文』 荘子の思想を生きる俳人 2/2

『笈の小文(おいのこぶみ)』は、1687年から1688年にかけて、松尾芭蕉が江戸から京都まで旅した際の記録をもとに、芭蕉の死後、1709年に弟子によって刊行された俳諧紀行である。

その冒頭において芭蕉は、荘子に由来する言葉をあえて選び取り、自らが荘子思想を生きる者であることを、ほとんど宣言するかのように語り始める。
その言葉は「百骸(ひゃくがい)九竅(きゅうこつ)」。つまり、人間の身体とは、百の骨と九つの穴から成り立つものにすぎない、という認識である。

芭蕉はこの身体観を起点として、さらに荘子の「造化(ぞうか)」という考えを参照しながら、自らの俳諧の本質である「風雅(ふうが)」へと話を展開していく。

そこでまず、芭蕉が自らを「風羅坊(ふうらぼう)」と名乗る冒頭の一節を読んでみたい。
「風羅坊」とは、芭蕉の葉のように、風に吹かれてたやすく破れてしまう羅(うすもの)を意味し、芭蕉が俳号として用いた語でもある。

百骸九竅(ひやくがいきうけう)の中に物有(ものあり)。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものゝ、かぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
             (松尾芭蕉『笈の小文』)

(現代語)
人の身体、すなわち百の骨と九つの穴から成るこの身の内に、あるものが宿っている。仮にそれを「風羅坊」と名づける。まことにこれは薄いものが風に破れやすいように、はかなく壊れやすい性質を言っているのだろう。

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芭蕉 「野ざらしを心に風のしむ身かな」 荘子の思想を生きる俳人 1/2

松尾芭蕉が若い頃から荘子の寓話に親しみ、その思想を愛好していたことは、よく知られている。その受容は、単なる書物上の知識にとどまらず、芭蕉の生き方そのものに強い影響を与え、彼の俳句の核心を貫いている。

ここでは、芭蕉の二つの紀行文集である『野ざらし紀行』と『笈の小文(おいのこぶみ)』を手がかりとして、「旅を栖(すみか)」(『奥の細道』)とした芭蕉が、荘子をどのように受容し、それを俳句の根底に据えたのかを、簡単にではあるが考察していく。

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「無」の思想 日本最初の荘子の受容

日本の文化の中で「無」が重要な役割を果たすことはよく知られているが、「無」とは何なのか、そしてなぜ日本人が「無」にこれほど惹かれるのか、説明しようとしてもなかなかできない。
そうした中で、荘子の思想は重要なヒントを与えてくれる。

大変興味深いことに、8世紀末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』には、荘子受容の最初の例としてよく知られる歌がある。

心をし 無何有(むかう)の郷に 置きてあらば 藐孤射(はこや)の山を 見まく近けむ                     (巻16・3851番)

もし心を「無何有の郷」、つまり「何もなく、無為(むい)で作為(さくい)のない状態」に置くならば、「藐孤射の山」、つまり「仙人が住むとされる山」を見ることも近いだろう、とこの作者未詳の歌は詠っている。

現代の私たちも、無の状態になることが何かを成し遂げるときに最もよい方法だと言うことがあるが、それと同じことを、今から1300年以上も前の無名の歌人も詠っていたことになる。
そして、「無何有の郷」と「藐孤射の山」が、『荘子』の「逍遥遊(しょうようゆう)」篇で語られる挿話に出てくる固有名詞だということを知ると、日本人の心のあり方と荘子との関係に深さがはっきりと見えてくる。

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富士山を通して見る日本人の心情 3/3 空に消えてゆくへも知らぬわが思い

奈良時代から鎌倉時代前期にかけて、人々が富士山に託した思いは、「神さびて高く尊き」信仰の対象から、「恋の炎」に象徴される情念の山が加わり、さらに「空し」といった無常観を帯びることもあった。

ここで注意したいのは、富士山の象徴がいつの時代にも多層的であり、いずれか一つの側面が他を排除することはなかったという点である。神聖、燃える恋、儚い恋、そして無常、それらが共存していたことこそ、きわめて日本的な現象であるといえる。

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富士山を通して見る日本人の心情 2/3 燃える富士から富士の煙へ

山部赤人のように、富士山に「神さびて高く貴き」感情を投げかける流れが成立した一方で、より人間的な感情を託す流れも生まれていった。

人間的な感情の代表は、まず第一に「恋」であり、その場合、富士山の噴火から連想される「燃える」という言葉によって表されることが多い。
もう一つの代表的な感情は「無常観」であり、噴火の後の「煙」は、恋だけではなく、無常を象徴することもあった。

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富士山を通して見る日本人の心情 1/3 神さびて高く貴き富士

富士山は、日本の象徴として最もふさわしい存在だと多くの人が考えているに違いない。では、その富士山に対して、日本人はどのような感情を抱き、どのように表現してきたのだろうか。

この問いに対して、奈良時代から平安時代を経て鎌倉時代前期にかけて作られた和歌や物語は、一見対照的な二つの心情を私たちに伝えてくれる。
山部赤人(やまべのあかひと)と西行(さいぎょう)の歌に、その典型を見ることができる。

田子の浦ゆ 打ち出いでて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
(『万葉集』3-318)

風になびく 富士の煙(けぶり)の 空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひかな
(『新古今和歌集』1615)

赤人の富士には、真っ白な雪が降り積もり、永遠に続くような神々しい姿が描かれている。
それに対して、西行の富士には風が吹きつけ、噴火の煙が空に消えていくさまが、生の儚さや無常観を象徴している。

奈良時代から平安時代へと時代が移りゆくなかで、富士山に託された心情は、このように変化していったのである。
その変遷の過程をたどることは、日本人の心のあり方を、私たち現代人にあらためて問いかけてくれるだろう。

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本人に抱いた第一印象

ラフカディオ・ハーンが強く日本に惹かれたことはよく知られているが、来日当初、彼の眼には日本人の姿がどのように見えていたのだろうか?

その疑問の回答となる一節が、1894年に刊行されたGlimpses of Unfamiliar Japan(『なじみのない日本を垣間見る』)に収録された« From the Diary of an English Teacher »(英語教師の日記から)と題された章の中にある。
それは、松江中学に英語教師として赴任したハーンが二度目の新学期の印象を綴ったシーンで、以下のように書き始められる。

Strangely pleasant is the first sensation of a Japanese class, as you look over the ranges of young faces before you. There is nothing in them familiar to inexperienced Western eyes; yet there is an indescribable pleasant something common to all.

日本の教室に入ってまず感じるのは、不思議なほど心地よい感覚だ。目の前にずらりと並んだ若い顔を見渡すときだ。未熟な西洋人の目には、どの顔にも見慣れた特徴は何ひとつない。それなのに、すべての顔に共通して、言葉では言い表せないような心地よい何かが感じられるのだ。

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人間の本質は変わらない 小林秀雄のランボー論と本居宣長論を例にして

年齢を重ね、ある時ふと過去を振り返ると、何かを感じ、考え始めた時期に興味を持ったものと同じものに、ずっとこだわり続けていることに気づくことがある。
そして、そんな時、自分の根底に流れている音楽――いわば、人生という楽曲を通して響き続けている通奏低音――は、変わらないものだと痛感する。

その一例として、小林秀雄(1902〜1983)を取り上げたい。

小林が東京帝国大学在学中に最も親しんだのは、フランスの詩人シャルル・ボードレールとアルチュール・ランボーであった。1926(大正15)年にはランボー論を大学の論文集に発表し、翌年にはランボーをテーマとした卒業論文を提出している。
他方、晩年に中心的に取り組んだのは、江戸時代中期の国学者・本居宣長である。『本居宣長』論は約11年にわたって雑誌に連載され、1977(昭和52)年に単行本として刊行された。

ランボーのような破天荒な詩人と、現在の日本でもしばしば参照される国学の基礎を築いた学者とでは、思想的にも表現方法の上でも全く異なっている。
フランスの近代詩や哲学から評論活動を始めた小林秀雄が、『源氏物語』や『古事記』の研究に生涯を捧げた宣長になぜ惹かれ、人生の最後の時期を費やしたのか――それは一見、不思議に思える。

しかし、ランボーと宣長という、まったく接点のない対象を扱った論考を通して、見えてくるものがある。
それは、小林秀雄の批評を貫いて響く通奏低音である。
対象は変化しても、小林の在り方は決して変わらない。ランボーも、宣長も、そして小林自身も、対象に対して外部から理性的にアプローチするのではなく、対象に入り込み、一体化しようとする。そして、そこにこそ創造が生まれる。

小林秀雄自身の言葉を手がかりに、その跡をたどってみよう。

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小泉八雲 ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn 怪談の思想

小泉八雲(Lafcadio Hearn)の一生を知るには、八雲自身が記した履歴書を参照するのが最も確実だろう。
それは、1903(明治36)年に東京帝国大学の講師を退職させられた翌年、早稲田大学に提出したものである。
なお、東京帝国大学を退職することになったのは、後任として夏目漱石が採用されることが決まっていたためだが、学生たちは八雲の授業を好み、留任を求める運動が起きたことも知られている。

小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)英国臣民。一八五〇年、イオニア列島リュカディア(サンタ・マウラ)に生る。アイルランド、英国、ウェールズ、(及び一時は仏国)にて成人す。一八六九年、アメリカに渡り、印刷人及び新聞記者となり、遂にニューオーリンズ新聞の文学部主筆となる。ニューオーリンズにて当時ニューオーリンズ博覧会の事務官、後兵庫県知事なる服部一三(はっとり いちぞう)氏にあう。一八八七年より一八八九年まで仏領西印度のマルティニークに滞在。一八九〇年、ハーパー兄弟書肆(しょし)より日本に派遣される。当時の文部次官(注:実際には普通学務局長)服部氏の好意により、出雲松江の尋常中学校に於て英語教師の地位を得。一八九一年の秋、熊本に赴き、第五高等中学校に教えて一八九四年に到る。一八九四年、神戸に赴き、暫時(ざんじ)『神戸クロニクル」の記者となる。一八九五年、日本臣民となる。一八九六年、東京帝国大学に招かれて講師となり、一九〇三年まで英文学の講座を担任す。— その間六年七ヶ月。日本に関する著書十一部あり。

   (田部隆二『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』より)

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