中島敦「山月記」 自尊心の心理分析

中島敦の「山月記」は、唐の時代の李景亮(りけいりょう)が編纂したとされる「人虎伝」を再話したものであり、「人虎伝」の主人公の詠じる漢詩がそのまま「山月記」の中に書き移されていることは、再話という創作技法を中島があえて明確に示していることの証だといえる。

では、人間が虎に姿を変える変身譚を物語の枠組みとして用いながら、中島は何を目指したのだろうか?

その問いに答えるためにも、まずは「山月記」の全文を読んでみよう。幸いなことに、あおぞら文庫で全文を読むことができるし、youtubeでは朗読(約21分)を聞くこともできる。
漢文の素養を駆使した中島敦の散文は難しいと思われるかもしれないが、朗読を聞きながら文章に目を通すと、リズムが心地よく、日本語の美を感じることができる。
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フィリップ・ジャコテ 「冬の月」 「青春よ、私はお前を消耗させる」 Philippe Jaccottet « Lune d’hiver » et « Jeunesse, je te consume »

    グリニャン

フィリップ・ジャコテ(Philippe Jaccottet : 1925-2021)の詩は、非常に簡潔で透明な言葉で綴られながら、豊かなイメージの連鎖を読者の中に掻き立てる。
そんな詩は、彼が日本の俳句に興味を持っていたことと関係している。

ジャコテにとっての俳句とは、一見無意味に見える遠く離れたものの間に存在する隠れた関係を捉え、その関係を私たちに教えてれるもの。それを知ることで、私たち自身の人生が変わることさえある。
そんな考えを持つフィリップ・ジャコテは、2021年に亡くなるまで、南フランスのドローム県にあるグリニャンという小さな町に住み、身近な自然の光景を短く透明な言葉で綴ってきた。

ここでは、『アリア集(Airs)』に収められた« Lune d’hiver »(冬の月)を読んでみよう。

Lune d’hiver

Pour entrer dans l’obscurité
Prends ce miroir où s’éteint
un glacial incendie :

atteint le centre de la nuit,
tu n’y verras plus reflété
qu’un baptême de brebis

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フィリップ・ジャコテ 儚さのポエジー Philippe Jaccottet ou la poésie du petit rien

フィリップ・ジャコテ(Philippe Jaccottet)は、俳句から強いインスピレーションを受け、簡潔で直接的な言葉によって、山川草木や鳥や虫、季節の移り変わりを歌った。

『アリア(Airs)』 と題された詩集の冒頭に置かれた« Fin d’hiver(冬の終わり)»では、決して具体的な事物が描かれているわけではない。しかし、ジャコテの詩の根本に流れる通奏低音を私たちに聞かせてくれる。

まず、« Fin d’hiver »の最初の詩の第1詩節に耳を傾けてみよう。

Peu de chose, rien qui chasse
l’effroi de perdre l’espace
est laissé à l’âme errante

ほとんど何も無い 無が追い払うのは
空間を失うという恐怖
それが残されるのは 彷徨う魂

2行目の« l’effroi »(恐怖)は、1行目の« chasse »(追い払う)の目的語とも考えられるし、3行目の« est laissé »(残される)の主語とも考えられる。
そのどちらか(ou)というよりも、どちらでもある(et)と考えた方がいいだろう。

また、« rien qui chasse l’effroi …»(恐怖を追い払う無)という同格の表現によって補足された« peu de chose »(ほとんど何もない)が、«est laissé »の主語と考えることもできる。

このように、わずか三行の詩句が、巧みな構文上の工夫を施されることで、複数の解釈の可能性を生み出している。
そのことは、わずか17音で構成される俳句が、単純な事実の描写を超えて、深い人間的な真実を捉える可能性を持つことと対応していると考えてもいいだろう。

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エドガー・ポー 大鴉(The Raven)をボードレールとマラルメの訳で読む 

ボードレールはエドガー・ポーの影響を強く受け、アメリカの詩人の詩や詩論を積極的に翻訳し、19世紀後半の文学に大きなインパクトを与えた。マラルメはその洗礼を真正面から受けた詩人であり、ポーの詩を英語で読むために、イギリスに留学したと言われることもある。

その二人の詩人が、ポーの代表的な韻文詩「大鴉(The Raven)」を訳している。
もちろん、マラルメはボードレールの翻訳を参照しながら、自分の訳文を構成しただろう。ポーの原詩の横にボードレールの訳を置き、必死に自分なりの訳を考えている姿を想像してみると、急にマラルメに親しみが湧いてきたりする。

ここでは、18の詩節で構成される「大鴉」の第1詩節を取り上げ、ポーの原文とボードレール、マラルメのフランス語訳を比較して読んでいこう。

Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore—
    While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
“Tis some visitor,” I muttered, “tapping at my chamber door—
            Only this and nothing more.”

Une fois, sur le minuit lugubre, pendant que je méditais, faible et fatigué, sur maint précieux et curieux volume d’une doctrine oubliée, pendant que je donnais de la tête, presque assoupi, soudain il se fit un tapotement, comme de quelqu’un frappant doucement, frappant à la porte de ma chambre. « C’est quelque visiteur, — murmurai-je, — qui frappe à la porte de ma chambre ; ce n’est que cela, et rien de plus. » (Baudelaire)

Une fois, par un minuit lugubre, tandis que je m’appesantissais, faible et fatigué, sur maint curieux et bizarre volume de savoir oublié — tandis que je dodelinais la tête, somnolant presque : soudain se fit un heurt, comme de quelqu’un frappant doucement, frappant à la porte de ma chambre — cela seul et rien de plus. (Mallarmé)

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プルースト「見出された時」 Proust Le Temps retrouvé 現実という隠喩

プルーストが私たちの教えてくれるものの中で最も根本的なのは、現実は重層的なものだという認識である。今体験している現実には、過去の記憶が含まれると同時に、未来の出来事の先駆けともなる。
そして、そうした現実のあり方は、言語のあり方とも対応する。言葉も一元的な意味を指し示すだけではなく、隠喩的な働きをする。つまり、直接的な意味とは異なる意味を暗示し、重層的な世界像を作り出す。

『失われた時を求めて(À la recherchue du temps perdu)』はそうした現実認識と言語観に基づいて構成されているのだが、最終巻である『見出された時(Le Temps retrouvé)』に至り、その仕組みが読者にはっきりとわかる形で伝えられていく。
ここではその一端を読み解いていこう。

Une image offerte par la vie nous apporte en réalité, (…) des sensations multiples et différentes. La vue, par exemple, de la couverture d’un livre déjà lu a tissé dans les caractères de son titre les rayons de lune d’une lointaine nuit d’été. Le goût du café au lait matinal nous apporte cette vague espérance d’un beau temps qui jadis si souvent, pendant que nous le buvions dans un bol de porcelaine blanche, crémeuse et plissée, qui semblait du lait durci, se mit à nous sourire dans la claire incertitude du petit jour.

現実の生活の中で目にする物の姿は、実際、数多くの異なった感覚をもたらす。例えば、すでに読んだことのある本の表紙を見ることは、その題名の文字の中に、ずっと以前の夏の夜に見た月の光を織り込むことだった。朝のカフォオレの味は私たちに、いい天気になるだろうという漠然とした期待をもたらす。かつて何度も、朝カフェオレを飲んでいる時、お椀の白い瀬戸物はクリーム状で皺がより、凝固した牛乳のように見えたが、いい天気を期待する思いが、早朝の不確かな光線の中で、私たちに微笑み始めたのだった。

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プルースト 「花咲く乙女たちのかげに」Marchel Proust « À l’ombre des jeunes filles en fleurs »  複数のアルベルティーヌと複数の私

マルセル・プルーストは心理の分析にかけても超一流の作家であり、『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』は私たち読者に、人間とはどのような存在なのか、様々な側面から教えてくれる。

ここでは、第二篇『花咲く乙女たちのかげに(À l’ombre des jeunes filles en fleurs)』の中に登場するアルベルティーヌ(Albertine)の姿をたどりながら、一人の人間の中に様々な人格が混在し、そのどれもが彼女の姿であるということを見ていこう。

最初の部分では、アルベルティーヌの6つの状態に言及される。そこで注意したいことは、どれもが単なる外見の変化ではなく、心と身体のどちらにも関係する生命現象、つまり生理学(phisiologie)的な表現になっていることである。

(1)悲しみ

Certains jours, mince, le teint gris, l’air maussade, une transparence violette descendant obliquement au fond de ses yeux comme il arrive quelquefois pour la mer, elle semblait éprouver une tristesse d’exilée.

何日かの間、ほっそりとした体つきで、顔がくすみ、無愛想な様子をし、スミレ色の透明な光が、時に海でもそうしたことがあるように、斜めに彼女の目の奥に落ちかかり、彼女(アルベルティーヌ)は、追放された女性の悲しみを感じているようだった。

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クローデル 『百扇帖』 Paul Claudel Cent phrases pour éventails 詩の息吹から沈黙の詩へ

ポール・クローデルが俳句からインスピレーションを受けて創作した短詩を収めた『百扇帖』の中には、扇を仰ぐ時に動く空気の流れと詩(ポエジー)を重ね合わせ、その創作原理が詩という形で表現されているものがある。

Que le souffle de l’éventail disperse les mots et ne laisse passer que ce qui touche

扇の息吹が 言葉を撒き散らし、通っていくのは、(こころに)触れるものだけでありますように

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『古今和歌集』 暦の季節と3つの時間意識 

10世紀初頭に編纂された『古今和歌集』は、現代の私たちが当たり前だと思っている四季折々の美しさを感じる感受性を養う上で、決定的な役割を果たした。
そのことは、全20巻で構成される歌集の最初が、春2巻、夏1巻、秋2巻、冬1巻という、季節をテーマに分類された6巻で構成されていることからも推測することができる。

自然の美に対する感受性や、時間の経過とともに全てが失われていくこの世の有様に空しさを感じる感受性は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』でもすでに示されていた。

『古今和歌集』が新たに生み出したのは、暦に則った季節の移り変わり。
より具体的に言えば、春の巻から冬の巻を通して、立春から年の暮れまでという、一年を通した季節の変化を明確に意識し、時間の流れに四季という枠組みを付け加えたということになる。

では、それによって何か変わるのか? 

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『万葉集』を通してみる日本的感受性

『万葉集』に収められた和歌は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本的感性がどのようなものだったかを教えてくれる。

当時の日本人の心は、次の時代と共通する一つの一つの表現法を持っていた。
それは、『古今和歌集』の「仮名序」で、「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」と言われるように、心の中の思いを「見るもの聞くもの」という知覚対象に「つけて」、つまり「託して」、表現するという方法。

他方、そこで表現された心のありさまは、平安時代の『古今和歌集』の和歌によるものとはある違いがある。
時の経過、季節の移り変わりから現実の生の空しさを感じ取ることは共通しているのだが、その事実に対する感じ方が同じというわけではなかった。

法隆寺が創建され、大化の改新が行われ、『古事記』や『日本書紀』で大和朝廷が神話によって自らの正当性を確立しようとしていた時代、人々はどのような心を持ち、何をどのように感じていたのだろうか?

(1)「心もしのに」から「うら悲し」へ

まず最初に、初期の歌人である柿本人麻呂と後期を代表する大伴家持の句を読んでみよう。

近江(あふみ)の海(み) 夕波千鳥(ゆふなみちどり) 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ  (柿本人麻呂)

春の野に 霞(かすみ)たなびき うら悲し この夕かげに 鶯(うぐいす)鳴くも (大伴家持)

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日本的感受性 『古今和歌集』の「仮名序」 

今から1000年以上前に書かれた『枕草子』の有名な一節、「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕ぐれ。冬はつとめて。」を目にすると、現代の私たちでも思わず肯いてしまう。
日本的な感受性は、それほど自然に対する親和性が強く、四季の変化に敏感に反応する。

その『枕草子』よりも約100年前に書かれた『古今和歌集』の「仮名序」は、そうした日本人の心のあり方の起源がどのようなものかを、彼らの遠い子孫である私たち現代の日本人に、こっそりと明かしてくれる。

冒頭の一節は、日本人の心と言葉の関係を、これ以上ないほど美しい言葉で語り始める。

 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

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