日本における漢字の導入と仮名の発明 4/4 漢字仮名併用の意味と意義

(7)漢字仮名併用の意味と意義

『古今和歌集』の「仮名序」は、仮名が日本語の書記表現として確立したことの証拠となる。しかし、それ以降、漢字の使用が廃止され、仮名だけで文を書くことはなかった。実際、現在でも仮名と漢字は併用されている。
その理由はどこにあり、併用する効果は何なのだろうか?

ちなみに、脳と言語機能に関する最近の研究によると、表意文字と表音文字の音読に関して、脳皮質の中の部位が異なる可能性があり、さらに、漢字と仮名の音読に関わる神経線維が相互的に干渉することはなく、別個なものであることが明らかになったという。
日本語を使い、漢字と仮名を同時に使用することで、私たちは脳の二つの部位を同時に活用していることになる。

今から1000年以上前の日本で成立した言語記述システムが、現代の私たちの脳に影響を及ぼしている。としたら、漢字が日本に導入されてからの歴史をたどることは、私たち自身の今を知ることにもつながる。

A. 漢字だけの日本語文は超難しい

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日本における漢字の導入と仮名の発明 3/4 仮名の成立から確立へ

(6)仮名の成立

平仮名と片仮名は9世紀から10世紀にかけて、漢字を変形して作られたとされている。そのはどちらも表音文字という点では共通しているが、使用目的には違いがあった。

片仮名は、学僧たちが漢文を和読する補助として、文字の音を示すために、漢字の一部の字画を省略して付記したことから始まる。

平仮名に関しては、文字を早く書くためというのが、一般的に認められる考えになっている。
正式な文書であれば漢文で書いた貴族や官吏たちが、私的な文書になると、より簡潔に早く書くために、複雑な漢字を崩した書体で書くようになる。その過程で、字画が簡略化された字体が平仮名として定着していったと考えられている。

「仮名」という名称は、漢字を指す「真名」が「正式な文字」だとすれば、「仮の文字」を意味する。
ここでは、平仮名が発生する段階と、日本で発明されたその書記表現が確立した状況を見ていこう。

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日本における漢字の導入と仮名の発明 2/4 『古事記』『万葉集』の漢字表記

(4) 『古事記』

日本最古の文字資料として現在まで残っているのは、712年に編纂された『古事記』。
720年に編纂された『日本書記』が正規の漢文で書かれているのとは異なり、『古事記』は日本語を漢字で表記したものであり、当時の日本語がどのような状態で書き記されていたのかを教えてくれる。

日本において漢字の存在が確認できる最初の証拠は、1世紀頃の「漢委奴国王」の金印。漢字が日本語の表記文字として使われ始めたことが確認できる隅田八幡神社の銅鏡が制作されたのは、5世紀から6世紀。その時期からでさえも200年以上経過した8世紀において、漢字を使い日本語を書き記す作業がいかに難しく、一貫した規則が定まっていなかったかを、『古事記』の文字表現は今に伝えている。

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日本における漢字の導入と仮名の発明 1/4 最初の漢字から普及まで

日本語の最大の特色の一つは、漢字と仮名(ひらがな、カタカナ)という二つの文字表記を併用していること。私たちにとってあまりにも当たり前すぎて気付かないのだが、そうした例は他の言語にはなく、驚くべきことだといえる。

文字が存在していなかった古代日本において、文字として漢字が使われるようになり、日本が漢字文化圏の中に組み込まれる。その後、ひらがなやカタカナが発明され、独自の文化や精神性が生み出されてきた。
その結果、漢字と仮名を併用した文が私たちにとって最も自然に感じられ、過去に漢字文化圏に入った朝鮮半島やベトナムなどは漢字の使用を廃止したのとは反対に、日本では漢字の使用を続けている。

そうした歴史的な展望を視野に入れながら、無文字社会だった日本に漢字が導入された時代から、仮名が発明されるまでをたどってみよう。

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漢字の書き順 事実に基づく思考法

漢字に関するサイトを見ていると、「書き順が変わった!」とか、「正しい書き順は存在しないという衝撃的事実!」とか、興味を掻き立てる情報に数多く出会う。そして、さっと読み、素直にうなずいてしまうことがある。
とりわけ、「小学校に通う子供が自分とは違う書き順を学校で習ってきて驚いた」といった体験談が語られると、書き順が変わったという情報を確信してしまう。そして、驚きを共有すればするほど、その情報の真偽を確かめようとはしない。

では、真偽を確認するためには、どのようにしたらいいのだろか?

最初に考えることは、「書き順の変更」とか「正しい書き順」という言葉の前提には、「書き順の基準」があるはずであり、その基準はどこにあるのかという疑問を持つこと。
情報をそのまま信じるのではなく、根拠を問うことが大切になる。

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日本人にはなぜ英語やフランス語の習得が難しいのか? 構文について考える

日本人にとって、英語やフランス語を習得するのは難しい。その理由は何か?

答えは単純明快。
母語である日本語は、英語やフランス語と全く違うコンセプトに基づく言語。そのことにつきる。

この事実は当たり前のことだが、しかし、日本語との違いをあまり意識して考えることがないために、どこがわかっていないのかがはっきりと分からないことも多い。
例えば、英語の仮定法と日本語の条件設定との本質的な違いを理解しないまま、if を「もし」と結び付けるだけのことがあり、そうした場合には、大学でフランス語の条件法を学ぶ時も、英語のifで始まる文と同様にsiで始まる文が条件法の文だと思ってしまったりする。

これは一つの例だが、ここでは問題を語順に絞り、日本語とフランス語の違いがどこにあり、日本語を母語にする人間にとって、どこにフランス語習得の難しさがあるのか考えてみよう。

ちなみに、これから検討していく日本語観は、丸山真男が「歴史意識の中の”古層”」の中で説いた、「つぎつぎに/なりゆく/いきおい」という表現によって代表される時間意識に基づいている。丸山によれば、日本人の意識の根底に流れるのは、常に生成し続ける「今」に対する注視であり、それらの全体像を把握する意識は希薄である。
そうした意識が、日本語という言語にも反映しているのではないかと考えられる。

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学ぶこと 考えること 井筒俊彦「語学開眼」

井筒俊彦の「語学開眼」という子供時代の思い出を語るエセーは、実際の教育現場では「学ぶ」ことから「考える」ことにつなげるのいかに難しいことかを、分かりやすい言葉で教えてくれる。

それは、井筒が中学校二年生の時のエピソード。

今でもよく憶(おも)い出す。中学2年生、私は劣等生だった。世の中に勉強ほど嫌いなものはない。学問だとか学者だとか、考えただけでもぞっとする。特に英語が嫌いだった。(井筒俊彦「語学開眼」『読むと書く』所収)

教室の中では英文法の授業の最中で、大学出たての若い先生が熱心に何やら喋(しゃべ)ていたけれど、その言葉は私の耳には入ってはいなかった。ふと、我にかえった。「イヅツ」「イヅツッ!」と先生の声が呼んでいた。「どこを見ている。さ、訳してごらん。」
見上げると黒板に、 There is an apple on the table.と書いてある。なぁんだ、これくらいなら僕にだって。
「テーブルの上にリンゴがあります。」
「うん、それじゃ、これは」と言って先生は、There are apples on the table.と書いた。
「テーブルの上にリンゴがあります。」

正解? 不正解?

an appleに続けてapplesと書いた先生の意図は、生徒に単数と複数の区別を教えることにある。
井筒少年の訳では、その区別ができていない。試験であればバツがつく。

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国語の授業と読むこと

小学校から高校までの「国語」の授業で、読むことの訓練が12年間にわたり行われ、誰でも読むことはできるようになっている。実際、日本の識字率は高い。
他方で、「国語」教育の問題点も指摘されている。例えば、長文読解ができない、論理的な文章が書けない、発信力が弱い、本(文学)を好きにならない、国語嫌いが多い、等。

そうした現状に関して考えて行くヒントとして、生徒の印象に残った作品名を上げてみると、中学と高校で次のような結果らしい。
中学:竹取物語、走れメロス、奥の細道、等。
高校:羅生門、こころ、山月記、舞姫、檸檬、源氏物語、等。

こうした作品が心に残っているとしたら、生徒にとって大きな意味があるに違いない。

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『竹取物語』は、日本人的な心の在り方を私たちに教えてくれる。
一般的に、かぐや姫が月に戻っていくところで話は終わるように思われているが、実はその続きがある。
月に戻る前、姫は育ての親に対する愛情を強く示し(人情)、愛する帝には不老不死の薬を残していく。その薬を、帝は富士(不死)の山に投げ入れる。
そうしたエピソードは、月よりも地上を、不死=永遠よりも現実=時間を好む、日本的な心性を表現している。

太宰治の『走れメロス』と芥川龍之介の『羅生門』は、対極的な倫理観を提示する。一方は、真実の友情の物語。他方は、下人が生き延びるために老婆を犠牲にするエゴイスムの物語。
『羅生門』と同じように、他者の犠牲の上で生き延びる「私」という枠組みは、夏目漱石の『こころ』や森鴎外の『舞姫』にも見られる問題であり、多くの犠牲を出した第二次世界大戦の後の、日本人の心の在り方を考えるきっかけになる。

エゴイスムに孤独感が加わると、中島敦の「山月記」になる。
そして、生きることの孤独感は、「えたいの知れない不吉な塊」が心を常に押さえつけることをテーマにした梶井基次郎の『檸檬』や、「月夜の晩に、拾つたボタンは/どうしてそれが、捨てられようか?」と歌う中原中也の詩「月夜の浜辺」によっても取り上げられる。

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こうした作品を通して、国語教育を受ける一人一人の子供たちは、濃淡の差はあれ、自分の中に抱える切実な問題を感じ取っているだろう。
そして、それぞれの作品を通して、自分自身について考え、人とのつながりについて考え、話し合うことで、「自分の考えを根拠に基づいて的確に表現すること」の訓練ができるに違いない。

しかし、現実には、「長時間かけても文章を理解できるようにならない」子供たちが多数発生し、読むことも、言葉で論理的に表現することも十分にできない、という統計結果が出ている。

せっかく素晴らしい文学作品に接しながら、なぜ本嫌いが増え、読書離れが加速しているのかを考えるために、国語教育の中で、文学作品について行われるテストの問題を覗いてみよう。

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日本語の文字表記(漢字、ひらがなの併用)と日本的精神

日本語の最も大きな特徴は何かと言えば、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットなどを併用することだといえる。その歴史的な過程を辿ると、それが日本的な精神と関係していることがわかってくる。

古代の日本は無文字社会であり、活字は中国大陸から移入したものだった。「漢」字という名称がその由来を現在でも残している。英語で漢字はChinese characters、フランス語ではcaractères chinois。現在の日本で使われている漢字は中国語の漢字とはかなり違っているが、起源が同じであることに変わりはない。

しかし、私たちは漢字が外来のものだと意識することなく使っている。そのことが、日本的な精神の一つの表現かもしれないのだ。

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日本語と英語・フランス語の根本的な違い 概念と状況

英語やフランス語を勉強してもよくわからないことがある。その理由は簡単で、日本語に同じ概念がないこと。

例えば、中学や高校で過去形と現在完了形を教わったのだが、私には違いが明確にわからなかった。大学のフランス語の授業で接続法を教わったが、ただ活用を覚えただけだった。
それ以外にも色々とあるのだが、なぜそうしたことが起こるかといえば、日本語表現がベースとするものと、英語やフランス語のベースとするものが違っているからだ。

そうした違いを、実際の生活の中でも感じたことがある。
フランスで話をしていて、神戸に住んでいると言うと、東京から何キロ?と聞かれることがあった。そんな時、私は何キロか知らないので、新幹線で3時間ちょっとと答えたりしていた。
また、初めてフランスに来たのはいつかと質問されると、20数年前とか、もう随分前のこと、とか答えていた。しかし、フランス人の知り合いは、1998年といった年号で言うことが多いことに気づいた。

ここからわかるのは、日本語を母語にする者にとって、物事を表現するときの基準が「私」にあり、空間的にも、時間的にも、「私」からの距離を表現する傾向にあるということ。
逆に言うと、「私」とは直接関係しない客観的な基準に基づいて表現することが少ないことになる。
実際、「コロナでマスクをしないといけなくなったのはいつから?」と聞かれて、「もうけっこうになる」とか「2・3年前から」と答え、年号で答えることは少ないだろう。

こうした違いがあるにもかかわらず、日本語と英語、フランス語などの根本的な違いがあまり語られないのには理由がある。
現在の国語(日本語)文法が整えられたのは明治時代初期のことであり、西洋の文典に基づき日本語の文法が編纂された。つまり、国文法は西洋語の文法の応用として作られた。
そのために、日本語と欧米の言語の根本的な違いが見過ごされる傾向にあると考えられる。

ここでは、その違いについて簡単に考えてみたい。

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