日本における漢字の導入と仮名の発明 3/4 仮名の成立から確立へ

(6)仮名の成立

平仮名と片仮名は9世紀から10世紀にかけて、漢字を変形して作られたとされている。そのはどちらも表音文字という点では共通しているが、使用目的には違いがあった。

片仮名は、学僧たちが漢文を和読する補助として、文字の音を示すために、漢字の一部の字画を省略して付記したことから始まる。

平仮名に関しては、文字を早く書くためというのが、一般的に認められる考えになっている。
正式な文書であれば漢文で書いた貴族や官吏たちが、私的な文書になると、より簡潔に早く書くために、複雑な漢字を崩した書体で書くようになる。その過程で、字画が簡略化された字体が平仮名として定着していったと考えられている。

「仮名」という名称は、漢字を指す「真名」が「正式な文字」だとすれば、「仮の文字」を意味する。
ここでは、平仮名が発生する段階と、日本で発明されたその書記表現が確立した状況を見ていこう。

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日本における漢字の導入と仮名の発明 2/4 『古事記』『万葉集』の漢字表記

(4) 『古事記』

日本最古の文字資料として現在まで残っているのは、712年に編纂された『古事記』。
720年に編纂された『日本書記』が正規の漢文で書かれているのとは異なり、『古事記』は日本語を漢字で表記したものであり、当時の日本語がどのような状態で書き記されていたのかを教えてくれる。

日本において漢字の存在が確認できる最初の証拠は、1世紀頃の「漢委奴国王」の金印。漢字が日本語の表記文字として使われ始めたことが確認できる隅田八幡神社の銅鏡が制作されたのは、5世紀から6世紀。その時期からでさえも200年以上経過した8世紀において、漢字を使い日本語を書き記す作業がいかに難しく、一貫した規則が定まっていなかったかを、『古事記』の文字表現は今に伝えている。

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日本における漢字の導入と仮名の発明 1/4 最初の漢字から普及まで

日本語の最大の特色の一つは、漢字と仮名(ひらがな、カタカナ)という二つの文字表記を併用していること。私たちにとってあまりにも当たり前すぎて気付かないのだが、そうした例は他の言語にはなく、驚くべきことだといえる。

文字が存在していなかった古代日本において、文字として漢字が使われるようになり、日本が漢字文化圏の中に組み込まれる。その後、ひらがなやカタカナが発明され、独自の文化や精神性が生み出されてきた。
その結果、漢字と仮名を併用した文が私たちにとって最も自然に感じられ、過去に漢字文化圏に入った朝鮮半島やベトナムなどは漢字の使用を廃止したのとは反対に、日本では漢字の使用を続けている。

そうした歴史的な展望を視野に入れながら、無文字社会だった日本に漢字が導入された時代から、仮名が発明されるまでをたどってみよう。

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人種(race)という言葉に潜む意識

「人種(race)」という言葉は一見すると価値判断を含まず、「皮膚の色や頭の骨など目に見える身体の特徴を基本にして人間を分類」するという意味を持つ、ニュートラル言葉だと思える。

「人種」は、元々は一族の先祖から子孫までを含むメンバー全体を意味していたと考えられている。そこから、17ー19世紀を通して、身体の外見的な特徴に基づき一定の人間の集団を指すようになった。
そして、その時期が、ヨーロッパの国々が植民地政策を強めていったと重なることを知ると、ある価値判断が入っていることに納得がいく。

当時のヨーロッパ諸国の植民地主義は、大まかに言えば、ヨーロッパとアフリカ大陸とアメリカ大陸を結ぶ「三角貿易」をベースにしていた。
ヨーロッパからアフリカに工業製品を運び、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北アメリカに運ぶ。そこからタバコ、綿花、砂糖といった農産物をヨーロッパに運ぶ。こうした交易のもたらす富みが、産業革命を推進した。
この地理的三角形において、底辺にはアフリカ大陸とアメリカ大陸があり、頂点に置かれるのがヨーロッパであることは言うまでもない。

植民地化や奴隷貿易といった非人道的な政策が行われたこの時代、他方では、デカルトを始めとした哲学者や思想家が数多く出現し、人間における理性の価値を強調し、フランス革命のスローガン「自由、平等、友愛」へとつながる啓蒙思想が育まれていた。

この二つの現象のズレの出所を探ることで、21世紀まで続く世界のあり方が見えてくる。

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ジョアシャン・デュ・ベレーの遺骨 ノートルダム・ド・パリで発見!Joachim du Bellay à Notre-Dame de Paris

16世紀のフランスで、ピエール・ド・ロンサールとともにプレイヤード派の礎を形成した詩人ジョアシャン・デュ・ベレー(Joachim du Bellay, 1522- 1560)の墓が、2024年9月、パリのノートルダム寺院で発見された。

Les fouilles archéologiques à Notre-Dame ont permis de découvrir une sépulture qui pourrait être celle du poète Joachim du Bellay, dont on sait qu’il a été inhumé dans la cathédrale sans connaître l’emplacement exact, ont indiqué des chercheurs de l’Inrap lors d’une conférence de presse mardi 17 septembre.

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「数」が見えなくするもの  ベルクソン『時間と自由』 Henri Bergson Essai sur les données immédiates de la conscience

「数を数える」ことは誰もがいつもしている。しかし、そのことで、「見えているもの」が見えなくなることに気付くことは少ない。

家の近くには、アカとシロという地域ネコがいる。アカはキジシロだし、シロは白いネコ。性格も行動パターンも違うし、考え方もたぶん違っている。二匹にははっきりとした個性の違いがある。
そのネコたちについて誰かに話すとき、「家の近くに二匹のネコがいて」と言うのはごく普通のことだ。

その際、ネコがいることと同じ程度に、「2」という「数」に、言葉の焦点が当たる。そして、その時点では、アカとシロの違いは問題になっていない。
つまり、違うものを足し算する時、それぞれのもの自体の存在は「数」の後ろに追いやられていることになる。

アンリ・ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』(英語訳の題名『時間と自由』)を読んでいて、そうした「数」の不思議について気付かされる一節があった。

 Il ne suffit pas de dire que le nombre est une collection d’unités ; il faut ajouter que ces unités sont identiques entre elles, ou du moins qu’on les suppose identiques dès qu’on les compte. Sans doute on comptera les moutons d’un troupeau et l’on dira qu’il y en a cinquante, bien qu’ils se distinguent les uns des autres et que le berger les reconnaisse sans peine ; mais c’est que l’on convient alors de négliger leurs différences individuelles pour ne tenir compte que de leur fonction commune.
   ( Henri Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, chapitre II. )

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柔道を始める小さな子どもたち mini-judokas 

フランスでは、オリンピックの後、3歳くらいの小さな子供たちが柔道をするようになったというニュース。

En cette période de rentrée, nos enfants ont repris leurs activités extrascolaires.
Et après cet été olympique, les disciplines dans lesquelles les Français ont excellé ont le vent en poupe.
Le judo en fait partie et il séduit notamment les plus jeunes.
Certains clubs proposent même des cours dès l’âge de trois ans. Ils n’ont qu’une seule envie, celle de faire comme les grands.
Fouler le tatami, s’entraîner très dur pour espérer devenir Teddy Riner, quintuple champion olympique de judo.

世論の「からくり」 「みんな」を作る仕組み

2002年に出版された高橋秀実の『からくり民主主義』は、1995年から2002年までの間に日本各地で話題になった出来事を扱ったジャーナリスム的な内容を持った本。
時事的な話題を扱うジャーナリスムの宿命もあり、例えば、横山ノックのセクハラ事件やオウム真理教の問題などは、2024年にアクチュアルなテーマとはいえなくなっているために、当時のことを知らない読者にはそれほど興味がない読み物になっているかもしれない。

他方、出版後20年以上を経た時事的な本であっても参考になると思えることがある。それは一つ一つの事件に対する一貫した姿勢。それを一言で言ってしまうと、「結論がない」ということ。白黒を付けるのではなく、どのように白黒が付けられるのかという「からくり」=仕組みを明らかにしようとする姿勢だ。

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マルクス・ガブリエル 「新実存主義」 われわれはある人格になりたいと望み、またそう望むことでその人格へと変わっていく 

1980年生まれの哲学者マルクス・ガブリエルの『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書)は、サルトルの実存主義と同様に、「意識」を人間の中心に置き、人間とはどのような存在であるかを解き明かそうとする試みとして読むことができる。

マルクス・ガブリエルは、日本の出版界やマスメディアで、” 哲学のロックスター”とか “天才哲学者 “というレッテルで紹介され、世界的なベストセラーといわれる『なぜ世界は存在しないのか』は日本でもかなり売れたらしい。

ただし、哲学書を読むと常に感じることだが、専門用語が多く使われ、一般の読者にはあまり分かりやすいものではない。これまでの哲学の歴史を踏まえ、マルクス・ガブリエルの場合であれば、唯物論的な科学主義を仮想敵として前提にした上で、自説を展開する。そのために、なかなか要旨を掴むことができない。

 新実存主義が掲げる根本の主張は次のようなものである。(中略)われわれは、物理的法則が支配する無生物と、生物的パラメーター によって突き動かされる動物であふれた世界にただ溶け込んで生きているのではない。人間のそうした特異なあり方をさまざまなかたちで説明できるのが心的語彙であり、その説明能力をもつかぎりで心的語彙はひとつのグループとしてとらえることができる。
       (マルクス・ガブリエル『新実存主義』、p. 16-17.)

この文章を読んでも、新実存主義の主張は分かりずらい。
「生物的パラメーター 」や「心的語彙」といった用語が何を意味するのかよく分からないし、「動物であふれた世界にただ溶け込んで生きているのではない」という表現も、何を意味しているのかはっきりしない。

ここでは、新実存主義(Neo-existentialism)という用語に注目し、人間という「存在(実存:existence)」についてマルクス・ガブリエルがどのように捉えているのか、そして彼の人間観が私たちに何をもたらしうるのか、具体的な例にそって考えてみたい。

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What a wonderful world 「この素晴らしき世界」とその背景

ルイ・アームストロングが歌うWhat a wonderful worldは、「この素晴らしき世界」という曲名で日本でもよく知られている。
歌詞を辿ると、穏やかで美しい世界の様子が描かれ、« I see friends / shaking hands / saying,”How do you do ?” / They’re really saying / “I love you”と、愛を歌っている。

ほぼ同じ題名の曲( What a ) Wonderful world が、サイモンとガーファンクル、そしてジェームズ・テーラーによって歌われたことがある。
学校で勉強する色々な教科のことはよくわからない(Don’t know much about … )し、自分は成績がいい生徒(’A’ student)ではないけれど、でも、1+1が2ってことは知っているし、ぼくが君を愛していることも知っている、だから、その1が君と一緒で、君がその1である僕を愛してくれたらいいなと、こちらの歌も愛を歌っている。

どちらの場合も、youが大好きな君であるのが最初の意味だが、その背景にはもっと大きなyouがある。二つの曲の背景にあったのが、差別や偏見に満ち、戦争が起こり、人間と人間が対立する社会情勢だったことが分かると、歌の意味がもっとはっきりと伝わってくる。

最初に、ルイ・アームストロングとアート・ガーファンクルたちの歌を聴いてみよう。

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