陰謀論を信じること

陰謀論を信じ、客観的な事実に基づいた証拠を示されても、決してその輪から抜け出せない人たちがいる。
2016年頃には「ポスト真実」という言葉が盛んに使われ、「客観的な事実ではなく、個人の信じることが真実とされる」傾向が強まったことが話題になった。
しかし現代では、「ポスト真実」という語さえも忘れられ、自分たちが信じる「事実」の真実性を問おうとする姿勢すら見られなくなっている。

かつて「言った者勝ち」という言葉があった。
今は、発信して“バズり”、再生回数や「いいね」という承認を得た者が利益を得る時代である。
「ファクトチェック」が意味をなさない時代、と言ってもいいかもしれない。

では、日々接している情報をそのまま信じ、反復し、情報源も事実性も確かめようとしない人々が、なぜこれほど増えているのだろうか。
彼らは決して悪意をもつ人々でも、知的に劣る人々でもないように思われる。むしろ社会的な問題に関心をもち、悪に対して義憤に駆られるタイプの人々のようにも見える。
それなのになぜ? そんな疑問が湧いてくる。

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柿本人麻呂 飛鳥時代の抒情 失われたものへの愛惜を詠う

『万葉集』を代表する歌人である柿本人麻呂は、あえて時代錯誤的な表現を用いるなら、日本で最初の抒情詩人といっていいかもしれない。実際、人麻呂の和歌には、時間の流れに運ばれて失われていくものへの愛惜を美しく表現したものが数多くあり、現代の私たちが読んでも心にすとんと落ちる情感が詠われている。

そのことを最もよく示しているのが、「かえり見る」という姿勢である。そして、振り返るとともに甦ってくる「いにしえ」に思いを馳せるとき、そこに「悲し」の情感が生まれ、飛鳥時代から現代にまで繫がる日本的な抒情が、美として生成される。

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飛鳥時代の謙遜 蓮と芋の和歌

『万葉集』巻十六に収められた一首の和歌を目にして、思わず笑ってしまった。持統天皇の催した宴席で、長意吉麻呂(ながのおきまろ)が即興的に詠んだと考えられる歌である。

蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之

訓読:
蓮葉(はちすは)は かくこそあるもの、意吉麻呂(おきまろ)が、家(いへ)なるものは、芋(うも)の葉にあらし

現代語訳:
この宴席に並ぶ蓮の葉は、まことに美しい姿を見せている。
それに比べて、わが意吉麻呂の家にあるのは、蓮の葉ではなく、どうやら芋の葉に違いない。

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習慣こそ最強の武器

何かができるようになるための最も効果的な方法は、習慣化することだ。習慣にしてしまえば、意識的に努力しなくても自然に繰り返せるようになる。そして続けているうちに、できるようになりたいと願っていたことが、気がつけば達成できている。

習慣については次のような研究がある。
「日常生活はどれくらい習慣でできているのか? ― エコロジカル・モーメンタリー・アセスメント研究」
(筆頭執筆者:アマンダ・L・リーバー〔Amanda L. Rebar〕、掲載誌 Psychology & Health、オンライン公開:2025年9月18日)
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/08870446.2025.2561149

この論文によると、人間の行動のおよそ80%は、習慣としてスムーズに行われているという。

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ジャン・ヌーヴェルと屋久島 Jean Nouvel à Yakushima 

フランス人建築家ジャン・ヌーヴェル(Jean Nouvel)が屋久島で手がける「NOT A HOTEL YAKUSHIMA」という計画が決定されたというニュースが流れている。

屋久島を「開発」することに賛否はあるだろうが、ジャン・ヌーヴェルのコンセプトは、それなりに興味深い。

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宗教は平和をもたらすのか

私たちは、宗教は慈愛をもたらし、人々に平穏を与えるものだと、漠然と信じている。しかし、現実の世界に目を向ければ、キリスト教圏とイスラム教圏の対立は激しく、宗教的な衝突が戦争やテロを引き起こしている。歴史を振り返っても、キリスト教の内部ではカトリックとプロテスタントの間に殺戮があり、ユダヤ教徒への迫害も繰り返されてきた。現代のイスラム教においても、シーア派(イランなど)とスンニ派(サウジアラビアなど)の対立は続いている。

こうした現実を前にすると、「愛」を説くはずの宗教が、なぜ争いを生み出してしまうのかという問いがどうしても浮かんできてしまう。私自身、この疑問を長く抱いてきたが、柄谷行人による伊藤仁斎論を読んでいて、一つの答えに出会った。

柄谷が解説する儒学者・伊藤仁斎(1627-1705)の思想は、「私」と「あなた」という対の関係を出発点にしていて、その関係を一般化・抽象化することを拒む。ここに重要な視点がある。以下の引用を読んでいくと、宗教が実際の殺戮を抑止する方向に働かない理由が見えてくる。

仁とは愛であり、愛は「実徳」である。つまり、愛は、対関係においてのみある。それゆえに「実徳」なのだ。朱子は、仁を「愛の理」、すなわち愛の本質または本質的な愛とみなす。

(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』「伊藤仁斎論」、p. 224.)

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 詩的散文 Nerval Voyage en Orient Ni bonjour ni bonsoir

ジェラール・ド・ネルヴァルは、目の前の現実を明晰な意識で観察し、そこから出発して、繊細な感受性と幅広い知識に支えられた、音楽性豊かな詩的散文によって独自の文学世界を築き上げた。このことは、「夢と幻想の作家」という先入観を外せば、誰にでも見えてくるだろう。

『東方紀行』(Voyage en Orient)の「ドリューズたちとマロニットたち」(Druses et Maronites)の章には、「朝と夕べ」(Le Matin et le Soir)と題された一節がある。その冒頭では、イタリアの詩人ホラティウスの詩句と、オリエントの船乗りの歌う民謡の一節が掲げられており、そうした詩や歌の調べに呼応するかのように、ネルヴァルの文も音楽性に満ちた詩的散文となっている。

Que dirons-nous de la jeunesse, ô mon ami ! Nous en avons passé les plus vives ardeurs, il ne nous convient plus d’en parler qu’avec modestie, et cependant à peine l’avons-nous connue ! à peine avons-nous compris qu’il fallait en arriver bientôt à chanter pour nous-mêmes l’ode d’Horace : Eheu ! fugaces, Posthume… si peu de temps après l’avoir expliquée… Ah ! l’étude nous a pris nos plus beaux instants ! Le grand résultat de tant d’efforts perdus, que de pouvoir, par exemple, comme je l’ai fait ce matin, comprendre le sens d’un chant grec qui résonnait à mes oreilles sortant de la bouche avinée d’un matelot levantin :

Ne kalimèra ! ne orà kali !

( Gérard de Nerval, Voyage en Orient, « Druses et Maronites », Le Prisonnier, I. Le matin et le Soir.)

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 Nerval, Voyage en Orient, description et impression 2/2

ネルヴァルは、繊細な感覚で現実を捉え、的確かつ生き生きとした描写を行い、その印象を率直でありながら詩的な散文で綴る作家だ。そのことは、カイロから出発したサンタ・バルバラ号ががベイルートの港に入港する場面を描いた一節からも実感できる。
(ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 1/2)

ここでは、そうした印象が、旅行者の幅広い知識と密接に結び付き、独自の文学世界を創造していく様子を、ベイルートの街を散策しながら港へと至る行程を通して見ていくことにしよう。

Le quartier grec communique avec le port par une rue qu’habitent les banquiers et les changeurs. De hautes murailles de pierre, à peine percées de quelques fenêtres ou baies grillées, entourent et cachent des cours et des intérieurs construits dans le style vénitien ; c’est un reste de la splendeur que Beyrouth a due pendant longtemps au gouvernement des émirs druses et à ses relations de commerce avec l’Europe. Les consulats sont pour la plupart établis dans ce quartier, que je traversai rapidement. J’avais hâte d’arriver au port et de m’abandonner entièrement à l’impression du splendide spectacle qui m’y attendait.

(Gérard de Nerval, Voyage en Orient, Les Femmes du Caire, VII. La Montagne, V. Les Bazars. – Le Port.)

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ネルヴァル 東方紀行 レバノンの旅 描写と印象 Nerval, Voyage en Orient, description et impression 1/2

ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval)は、19世紀中葉にパリの場末で首を吊って世を去って以来、「夢と狂気の作家」というレッテルを貼られ、現在に至るまでその偏見は根強く残っている。そのため、彼について語られるときには常に「神秘主義」や「幻想的」といった言葉がつきまとい、何の先入観もなく彼の言葉そのものに向き合うことが難しい状況が続いている。この傾向はフランスに限らず、日本でも同様である。

しかし、ネルヴァルの言葉を無意識の色眼鏡を外して読んでみると、彼は目の前の現実を繊細な感受性でとらえ描写し、そのうえで豊かな知識と教養に支えられ、素直でありながら詩的な文章を通して独自の世界を紡ぎ出す作家であることが、ひしひしと伝わってくる。

ここでは、『東方紀行』(Voyage en Orient)の中から、エジプトのカイロを旅立った「私」が、レバノンのベイルート港に近づく船の上から眺めた光景(1)と、港に降り立って街を歩く場面(2)を紹介してみたい。

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Nerval Ni Bonjour Ni bonsoir ネルヴァル お早うでもなく、お休みでもなく

ジェラール・ド・ネルヴァルの「お早うでもなく、お休みでもなく」は、わずか4行からなる短詩であり、非常にわかりやすい言葉で綴られている。
また、10音節の詩行は5/5のリズムでなめらかに流れ、冒頭に記された「ギリシア民謡にのせて」という指示と相まって、音楽性豊かな響きを持っている。
その一方で、内容は一見わかりやすいようでいて、深い思索を促し、さらにどこか悲しみを漂わせ、抒情的な余韻を抱かせるものとなっている。

こうした特色は、題名の « Ni bonjour (3), ni bonsoir (3) » にすでに明確に示されている。
3/3のリズムの中で ni と bon の音が重なり、その後に jour と soir が対照的に置かれる。
その響きに耳を傾けると、否定の表現 ni が bon を打ち消し、「bonjourでもなく、bonsoirでもない」と告げることで、ではいったい何なのか、という問いが自然に立ち現れてくる。

Ni Bonjour, Ni bonsoir

Sur un air grec

お早うでもなく、お休みでもなく

ギリシア民謡にのせて

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