Renaud  Mistral gagnant ルノー  ミストラル・ガニャン

1852年生まれのルノー(Renaud)は社会問題や政治に関わるテーマを俗語などを交えて歌う歌手で、フランスでは現在でも一定の人気がある。
そんなルノーには珍しく、1985年に発表した「ミストラル・ガニャン」(Mistral gagant)は、子ども時代への郷愁が強く滲み出した曲で、娘ロリータに捧げられている。
そのために、歌詞の中には、ミストラル・ガニャン、ココ・ボエール、ルドゥドゥ、カール・アン・サック、ミントォなど、すでに発売されなくなったお菓子の名前がたくさん出てくる。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 3/3

(歴史を振り返り 世界の今を知る 2/3 から続く)

D. 18世紀後半から19世紀前半:ロシアとアメリカ合衆国

18世紀後半になると、新たに二つの国が台頭し、19世紀にはイギリスやフランスに並ぶ大国として国際政治の中で重要な役割を担うようになった。それがロシアとアメリカ合衆国である。

この二国は、歴史的な背景こそまったく異なるが、18世紀後半から19世紀前半にかけて急速に領土を拡大した点では共通している。また、その拡大の方法にも類似性がある。西欧諸国が遠隔地を植民地化するのに対し、ロシアとアメリカは自国に隣接する地域を次々と自国領に編入していったのである。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 2/3

欧米諸国が「国際社会」のルールを形成してきたのに対し、近年では「グローバル・サウス」という言葉が用いられ、欧米の価値観や世界観とは異なる主張が一定の支持を得るようになってきた。
こうした変化に対する評価は、立場や視点の違いによって分かれるのが当然であり、一方が自由や人権を訴えても、他方は搾取やダブルスタンダードを指摘し、双方が納得する結論に達することは容易ではない。

ここで問題にしたいのは、こうした二つの世界観の対立が、16世紀以来の世界の歴史に起源を持つという点である。歴史を振り返ることで、二つの世界の根底に植民地主義の構造が存在していることが見えてくる。
植民を行った側とされた側を大まかに分けるなら、前者は現在のG7を中心とする国々、後者はグローバル・サウスの地域ということになる。

ただし、そこには例外もある。たとえばアメリカ合衆国は、もともと植民された側であったにもかかわらず、現在ではその立場が逆転している。また、ロシアや中国の歴史的背景や現在の位置づけも、それぞれに特異なものがある。こうした点も、歴史をたどることで理解が深まる。

歴史を振り返ることで、私たちは現在を理解するための手がかりを得ることができる。言い換えれば、私たちは今、歴史の連続性の中にある「現在」という時間を生きているのだ。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 1/3

どこの国でも同じことだが、一つの環境に身を置いていると、限られた視点からの情報にしか触れることができず、そのことにすら気づかないことが多い。
「情報過多の時代」と言われるものの、実際には視野の狭さは、以前とそれほど変わっていないのかもしれない。

日本にいると、「国際社会」という言葉がいまだに頻繁に使われ、欧米中心の世界観が現在でも国際的に認められていると思い込みがちである。
その結果、少なくとも国の数の上では、そうした状況が変化しつつある、あるいはすでに変化していることに気づかないままでいることが多い。
さらに、たとえ「国際社会」のダブルスタンダードに気づいたとしても、それをやり過ごしてしまう。欧米の価値観を基準に物事を判断する習慣から抜け出せず、抜け出そうともしない。

こうした中で、日本の価値観や世界観は、欧米の側に位置づけられている。そのため、「G7唯一のアジアの国」という表現が一種の誇りのように語られ、民主主義や自由といった価値がことさら重視される。
一方で、日本独自の価値観にも言及されることがあり、「欧米出身者が日本のここを評価した」「あそこに驚いた」といった内容が、マスコミやSNSを通じて盛んに発信される。こうした情報の発信元や評価の主語は、たいてい欧米出身者であり、それ以外の地域の人々が取り上げられることはほとんどない。
そのような二重基準の背景には、欧米諸国の人々に対する劣等コンプレックスと、それ以外の地域の人々に対する根拠のない優越コンプレックスがあるにもかかわらず、そこに無自覚なままでいることが多い。

こうした世界的な状況は、象徴的に言えば、「1492年のコロンブスによる新大陸の発見」に端を発する、西欧諸国による世界戦略に由来していると考えられる。
それ以来、ヨーロッパの国々はアフリカ大陸、アメリカ大陸、アジア各地を次々と植民地化し、支配してきた。その構造は、経済的には現在に至るまで形を変えて持続している。

ここでは、そうした歴史の流れを大まかに振り返りながら、現在の世界がどのような状態にあるのかを、先入観にとらわれずに理解することを目指したい。

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摩耶山 忉利天上寺 焼失以前の姿

摩耶山の頂上付近にあった忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は、646年(大化2年)に開創された。その後、空海(弘法大師)が仏の母である摩耶夫人(まやぶにん)像を、留学先の唐から持ち帰り、この寺に奉安したと考えられている。なお、寺名の「忉利」は、摩耶夫人が死後に転生したとされる天界 ── 忉利天(とうりてん)に由来する。

このように由緒ある寺だが、大変に残念なことに、1976年(昭和51年)1月30日に放火され、仁王門など一部を除いて全焼してしまった。現在は、北方約1kmに位置する摩耶別山に場所を移して再建されていて、旧天上寺の跡地は摩耶山歴史公園として残されている。

この奥には、三権現社(さんごんげんしゃ)の跡もある。

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石川淳 「山櫻」 フランス語訳の試み 6/6  ISHIKAWA Jun, « Le Cerisier de montagne », essai de traduction en français 6 / 6

Voici la dernière partie du « Cerisier de montagne ».

わたしは椅子の上にくず折れ、もう一歩を踏み出す力もうせて、どこでどんな位置におかれていようとかまいなく、きょとんと眼を空に据えていた。しかし、決してぼんやりしているどころか、かかる場合にこそ到底ぼんやりしてなどいられるものではない。理性につながるわがための命綱がさいわいにまだ朽ちきっていないならば今こそ綱の端にすがらなければならないときだろう。だが、いったいどこの綱手をどう手繰れば鈴が鳴るというのか。堂堂たる理法の綾の中にまぎれこもうなどという贅沢な望みではなく、どんな頼りないことばの藁ぎれでもつかみたいとあえいでいる有様なのだが、それほどの手がかりさえぷっつり断たれているほどわたしは痴呆性だといよいよ相場がきまったのであろうか。それならそれで、わたしにも覚悟のきめようがあろうに・・・・・しかしその覚悟にたどりつくまでのゆとりもこのとき許されなかった。というのは、いつの間にか上って来た善太郎の声をついそばに聞かなければならなかったのだ。
「おじさん邪魔だよ。轢いちゃうよ、ぼう、ぼう。」

Je m’étais effondré sur ma chaise, incapable de faire un pas de plus, et, sans me soucier de l’endroit ni de la situation, je dirigeais vaguement les yeux vers le ciel. Mais, loin d’être distrait, c’était justement dans une situation pareille qu’il m’était absolument impossible d’être perdu. Si la corde de vie qui me reliait encore aux subtils entrecroisements des principes rationnels n’avait pas complètement pourri, c’était le moment ou jamais de m’attacher à son bout. Mais, où donc faudrait-il tirer sur cette corde de salut, et de quelle manière, pour qu’une clochette sonne ? Ce n’était pas un espoir de luxe que j’avais de me mêler aux entrelacs d’une noble logique, mais je m’acharnais à saisir un moindre brin de paille d’un mot peu fiable. Était-il établi qu’à ce point, où aucune prise ne subsistait, je sombrais dans la démence ? » Si tel était le cas, soit, je pourrais m’y résoudre… Mais à ce moment-là, on ne m’a pas laissé le temps de parvenir à cette résolution. Car, j’ai dû entendre la voix de Zentaro, qui montait je ne sais quand.
— Monsieur, vous êtes embarrassant. Je vais vous écraser,  whoo, whoo !

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石川淳 「山櫻」 フランス語訳の試み 5/6 ISHIKAWA Jun, « Le Cerisier de montagne », essai de traduction en français 5 / 6

Suite à la page 4. Le texte qui suit constitue un paragraphe entier.

身から出た鏽とはいえ、わたしは京子の眼の前であまりの侮辱に忍びかね、今下へおりて行く善作の後姿に飛びかかろうとしかけたが、軍隊できたえた逞ましい腕に細い襟くびをねじあげられて猫の仔のように抛り出されるまでのことと思えば、腑甲斐なく椅子にしがみついたまま、一度恥をかき出すと止度なく恥をかくものだなと籐の網目にからだがちぎれるほどのせつなさで、うわべはすれからしの銭貰い同然しゃあしゃあとした面の皮をさらしている有様であった。

Même si ce n’était au fond que la rouille sortie de mon propre corps, un mal forgé par mes propres fautes, je ne supportais pas l’insulte, là, sous les yeux de Kyoko, et j’étais sur le point de me jeter sur le dos de Zensaku qui descendait en ce moment. Mais en pensant que je ne serais qu’un pauvre type à me faire tordre le col mince par ses bras vigoureux formés à l’armée et à être jeté dehors comme un chaton, je restai lâchement accroché à ma chaise. Et me disant qu’une fois qu’on commence à avoir honte on n’en finit plus d’en avoir, j’avais le cœur si serré que mon corps semblait se déchirer dans les mailles du rotin tandis qu’en apparence tel un mendiant blasé j’affichais un visage impudent.

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明治時代の日本の絵画 3/3 横山大観 菱田春草 下村 観山 竹内栖鳳

b. 日本画派系 

明治維新直後から、日本は文明開化の波に呑まれ、伝統的な日本絵画を低く評価する傾向にあったのだが、アーネスト・フェノロサ(Ernest Fenollosa 1853–1908)はその芸術的価値を見出し、日本画の復興と新たな創造を構想した。

彼が日本画に注目したのは、西洋絵画が写実性を重視し、対象を視覚的に忠実に再現しようとするのに対し、日本画は内面的な精神性を捉え、「妙想」(イデア)を表現していると考えたからである。

フェノロサの弟子であり、東京美術学校などで日本画の再興に尽力した岡倉天心(1863–1913)も、『日本美術史』の「序論」において、師と同様の見解を展開している。

十九世紀はこれ世界大変動の時期にして、その原因をなすところのものは種々なるべきも、主なるものは唯物論の勢力を得たることこれなり。かの高遠無辺なる空想をもって主となしたる宗教にして、なおかつまさに実物的たらんとす。美術のごときにいたりてもまた実物的ならざれば世に寄(い)れられず。一に実物に接近して霊妙に遠ざかれるイタリア文学再興以来、この方向を取りて醤々(とうとう)として底止するところを知らず。(中略)文学のごときも漸々(ぜんぜん)高尚なる思想を離れて器械的文学を生ぜんとす。社会万般の事、すでにかくのごとし。ゆえに美術またこれに化せられざるを得ず。日に月に写生に流れ、そのはなはだしきものにいたりては、一図を作らんとすればまず予(あらかじ)め図をなし、しかしてこれに応ずるの人物を写真してもってこれを描く。その各部分にいたりては、皆これ無味淡々たるの写真にすぎず。かの天真爛漫として飛動するがごとき真率なる風趣にいたりては、滅尽(めつじん)してその痕跡をだに留めず。これすなわち欧洲美術四百年来のありさまなり。

イタリア文学の再興、すなわち14世紀に始まるルネサンス以降の西洋的世界観について、岡倉天心は二元論的な構図で説明を行っている。
一方には、唯物論に基づく即物的な世界観があり、それは実物主義、機械的な文学、写生に徹した無味乾燥な絵画、すなわち写真のような美術といった言葉で表現されている。
他方には、高遠無辺の空想、高尚な思考、真率なる風趣といった、精神性に根ざした世界観がある。「霊妙」という言葉は、フェノロサの語る「妙想」(イデア)と呼応する概念である。

二人の見解によれば、日本画は、西洋絵画が失いつつある精神性を体現しており、決して西洋に劣るものではない。むしろ、その点において優れていると言ってよい。
しかし、近代文明が支配的となりつつあった明治期の日本においては、日本画にも西洋絵画の技法を取り入れ、新たな表現の可能性を拓くことが求められた。

この理念を実践に移し、日本画の革新を担った中心的存在が、岡倉天心の愛弟子である横山大観(1868–1958)、菱田春草(1874–1911)、下村観山(1873–1930)たちだった。

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石川淳 「山櫻」 フランス語訳の試み 4/6 ISHIKAWA Jun, « Le Cerisier de montagne », essai de traduction en français 4 / 6

À partir du sixième paragraphe, je vais les examiner un à un afin d’en mieux comprendre le sens.


「どうしたの、おじさん。上ろうよ、さあ。」
このときわたしの想像の中でわたしは善太郎の手を振りきってまっしぐらに門外に駆け出していたにも係らず、いつか雲を踏むような足どりで玄関を過ぎ露台へ通ずる階段を上っていたというのはもう他人の示す指先よりほかわたしには方向が・・・・・・いや、無意味なことをしゃべり出したものだ、今時分方向のあるなしがどうしたというのだ。じつはポオの書いたある人物のようにわたしはここでわが身が独楽になったと思いこみ、ぶんぶんからだを振りまわしかねない状態であったが、こうして階段の上に立ったわたしは鶯の谷渡りとでもいう独楽のすがたで、夢うつつの堺の糸に乗りながら、あれよと見る間にすべりのほる自分をどうしようもなかった。

 — Monsieur, qu’est-ce que vous faites ? Allez, montons.
  À ce moment, dans mon imagination, j’avais déjà repoussé la main de Zentaro et m’étais élancé droit dehors à travers le portail — Mais en réalité, je m’étais retrouvé en train de gravir les marches menant à la véranda, franchissant l’entrée d’un pas aussi incertain que si je marchais sur des nuages, et je ne pouvais me diriger qu’en suivant les doigts pointés par les autres… Non, voilà que je commence à parler de choses absurdes. Le sens d’une direction, en ce moment précis, qu’est-ce que cela pouvait bien vouloir dire ? En vérité, tel un personnage de Poe, je m’étais cru transformé en toupie, au point d’être presque prêt à me laisser entraîner dans un tourbillon frénétique. Mais me voici maintenant debout en haut de l’escalier, dans une posture de toupie qui chanterait comme un rossignol traversant la vallée, suspendu à un fil tendu entre le rêve et la veille — et je ne pouvais rien faire pour arrêter ce moi-même qui glissait et montait à toute allure sous mes yeux.

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明治時代の日本の絵画 2/3 黒田清輝 岡田 三郎助 藤島武二 青木繁 中村不折 鹿子木孟郎 吉田博 中川八郎

(明治時代の日本の絵画 1/3から続く)

明治時代の絵画においては、工部美術学校でフォンタネージにより洋画の教育が行われる一方、フェノロサによる日本美術擁護のもと、東京美術学校では日本画に西洋絵画の要素を取り入れることで、新たな日本画を創出しようとする動きも見られた。

こうした二つの潮流の中で、洋画では黒田清輝(1866–1924)が、日本画では横山大観(1868–1958)が、それぞれ一つの頂点とも言える作品を生み出すに至る。

また洋画においては、黒田がもたらした新しい表現 — 明るい色彩を用いた印象派的なスタイル — が、それまでの流れと一部で対立し、フォンタネージの影響を受けたヨーロッパ絵画の伝統を守るアカデミー的な画風を継承する画家たちとのあいだで分裂が生じた。

また、洋画に関しては、黒田がもたらした新しい要素が、それまでの流れと対立する部分があり、明るい色彩表現を用いた印象派的な絵画を探究する画家たちと、それに反対し、フォンタネージから受け継いだヨーロッパ絵画の伝統を守るアカデミー的な絵画を描き続ける画家たちの間で、一定の期間ではあるが分裂が見られた。

これら3つの動向は、西洋絵画の伝統的技法を日本絵画に取り入れるという方向で一致していたため、明治時代の終盤には一つの大きな流れとして収束していくことになる。

その一方で、1910(明治43)年には、後期印象派からフォヴィスムへと至るヨーロッパの全く新しい絵画潮流を紹介する雑誌『白樺』が創刊され、大正時代から昭和にかけて、明治とは異なる新たな絵画の動きが胎動し始めることとなった。

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