マリー・ローランサン 「鎮静剤」 Marie Laurencin « Le Calmant »

マリー・ローランサン(Marie Laurencin)の「鎮静剤(Le Calmant)」。
フランス語を聞きながら、掘口大學の訳を読んでいくと、それ以上の説明が何もいらない、といった感じさえする。

映像は、西島秀俊がペール・ラシェーズ墓地を歩いている場面。
掘口大學とマリー・ローランサンとの恋愛の足跡を追って、雑誌記者の西島がパリを中心にブルッセルやマドリードも訪れるといった趣向のドラマ「堀口大學 遠き恋人に関する調査」から。

Marie Laurencin « Le Calmant »

Plus qu’ennuyée Triste.
Plus que triste Malheureuse.
Plus que malheureuse Souffrante.
Plus que souffrante Abandonnée.
Plus qu’abandonnée Seule au monde.
Plus que seule au monde Exilée.
Plus qu’exilée Morte.
Plus que morte Oubliée.

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楽しいヴァイオリン

とても面白いyoutubeビデオに出会ったので、紹介したい。

フランスのヴァイオリニスト、エスター・アブラミ(Esther Abrami)が、同じヴァイオリンを使い、500ドルから160.000ドルの弓を変えて弾き、Can you hear the difference between a cheap and expensive violon bow ?というもの。

もう1つは、ヴァイオリンを聞いて猫たちがどんな反応をするでしょうか、というもの。

こんな風に聞くと、クラシック音楽も身近になってくる。

太宰治 「駆け込み訴え」 愛する人から愛されない — 愛と憎しみの葛藤

愛する人から愛されていないと感じる時、人はどれほど悲しみ、悩み、苦しむことだろう。時には最悪の行動を取ることさえある。

そうした葛藤を、太宰治は、1940(昭和15)年に発表した「駆け込み訴え」の中で、イエスを裏切ったユダの口を通して生々しく語った。

ユダは「役所」の「旦那さま」に向かい、イエスの最後の日々の出来事を辿りながら、自らの感情の動きを赤裸々に語っていく。
そこで述べられる言葉はユダの主観の反映であり、全てが彼の心の内を明かすことになる。

読者はそれらの言葉を自分なりに解釈し、ユダの心理を読み解いていく。そんな楽しみが読書にはある。例えば、最初の一節。

申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷(ひど)い。酷い。はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。(「駆け込み訴え」)

このユダの言葉は、本当に「あの人」に対する憎しみから発せらたものなのか? 「可愛さ余って憎さ百倍」的なものなのか? 訴え出たユダにはイエスへの愛が残っているのか? イエスを「売った」自分をどのように感じているのか? 等々。


ここでは、キリスト教に焦点を当てるのではなく、愛と憎しみの葛藤という心理劇を、ユダの訴えの生々しい言葉から読み解いてみよう。

「駆け込み訴え」本文(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277_33098.html

youtubeの朗読(文字が表示される)

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 5/5 神は生まれ変わる?

Zurbaran, Le Christ en croix

「オリーブ山のキリスト」の5番目のソネットはこの詩全体の結論となる部分であり、どのような解決がもたらさせるのだろうか? 
ここまで4つのソネットを辿ってきた読者は、ユダの裏切りと、それに続くピラトによる判決の後、キリストの苦しみが十字架の上で終わりを迎えるのかどうか、興味を引かれるだろう。

しかし、ネルヴァルは全く違う展開を構想した。
第4ソネットの最後に置かれた「その狂人(ce fou)」という言葉を受けた上で、古代ギリシアやオリエントの神々、つまりキリスト教が誕生する以前の神々を思い起こさせる。

その理由を知るためには、第1四行詩に秘められた暗示を読み説くことから始めなければならない。

V

C’était bien lui, ce fou, cet insensé sublime…
Cet Icare oublié qui remontait les cieux,
Ce Phaéton perdu sous la foudre des dieux,
Ce bel Atys meurtri que Cybèle ranime !

V

確かに彼、あの狂人だった。正気を失った崇高な者。・・・
あの忘れられたイカロス。彼は天の駆け上った。
あのパエトン。彼は神々の雷の下で打ち落とされた。
あの美しいアッティス。死んだ彼を、キュベレーが生き返らせる!

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 4/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

Salvator Dali, Christ de saint Jean de la Croix

第4詩節に進むと、大変に意外な展開が待っている。 

ここでは、ユダが姿を現す。
ユダはイエスを裏切り、イエスは捕らえられ、十字架に架けられる。ユダと聞けば裏切り者と誰もが連想する。

ところが、ネルヴァルの描くユダは「目覚めた者」。
彼の裏切りは、イエスが自分を敵に売り渡すようにユダを強いたからだとされる。
そこにはどんな理由があり、ネルヴァルは何を考え、キリスト教の教義と反する展開にしたのだろう?

IV

Nul n’entendait gémir l’éternelle victime,
Livrant au monde en vain tout son cœur épanché ;
Mais prêt à défaillir et sans force penché,
Il appela le seul – éveillé dans Solyme :

IV

誰一人、この永遠の犠牲者がうめくのを耳にしてはいなかった。
心の内を人々に打ち明けたが、無駄だった。
気を失いうようになり、力なく体を前にかがめ、
主は「たった一人の男」に声を掛けた、— エルサレムでただ一人目を覚ます者に。

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 3/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の三番目のソネットでも、主イエスの独白が続く。

その中で、まず最初に、「運命(Destin)」と「必然(Nécessité)」と「偶然(Hasard)」に対する呼びかけが行われる。

III

« Immobile Destin, muette sentinelle,
Froide Nécessité !… Hasard qui, t’avançant
Parmi les mondes morts sous la neige éternelle,
Refroidis, par degrés, l’univers pâlissant,

III

「不動の「運命」よ、お前は無言の見張りだ、
冷たい「必然」よ!・・・ 「偶然」よ、お前は進んでいく、
永遠の雪に覆われた死の世界の中を、
そして、じょじょに宇宙を冷やし、宇宙は色を失っていく。

(朗読は1分37秒から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 2/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の2番目のソネット(4/4/3/3)は、主イエスの独白によって構成される。従って、「私(je)」が主語であり、一人称の語りが続く。
言い換えると、三人称の物語ではなく、個人的な体験談ということになる。

第1のソネットで明かされた神の死の「知らせ(la nouvelle)」を受け、「私」は確認のため、神の眼差しを求め、宇宙を飛び回る。
その飛翔の様子は、すでに見てきたジャン・パウルの「夢(le songe)」 の記述をベースにしている。しかし、ここでも前回と同じように、最初は読者がそうした知識を持たないことを前提し、詩句を解読していこう。

II

Il reprit : « Tout est mort ! J’ai parcouru les mondes ;
Et j’ai perdu mon vol dans leurs chemins lactés,
Aussi loin que la vie en ses veines fécondes,
Répand des sables d’or et des flots argentés :

II

主は言葉を続けた。「全ては死んだ! 私はあらゆる世界を駆け巡った。
銀河の道を飛翔し、彷徨った、
はるか彼方まで。生命が、豊かな血管を通して
金の砂と銀の波を拡げていくほど彼方まで。

(朗読は1分から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 1/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

現代の読者がジェラール・ド・ネルヴァルの「オリーブ山のキリスト(Le Christ aux oliviers)」を読み、詩の伝える内容を理解し、詩句の味わいを感じ取ることができるのだろうか?

こんな風に自問する理由は、ネルヴァルという作家・詩人は作品の根底に、彼が生きた19世紀前半に流通していた数多くの知識を置いたため、そうした知識がないと理解に達することが難しいと思われるから。
もし知識がなければ理解できないとすると、彼の作品を現代の読者が味わうことは不可能ということになる。

では、知識なしで、彼の作品を味わうことはできるのか? 
「オリーブ山のキリスト」の場合、題名からは、扱われているのがイエス・キリストであることはわかる。
しかし、”オリーブ山のキリスト”となるとどうだろう?

ネルヴァルのことを知らず、キリスト教への興味もない場合、この詩を手に取ろうとは思わないだろう。
それでも一歩前に踏みだし、最初の詩句を読み始めると、興味が湧いてくるだろうか?

そんなことを考えながら、5つのソネット(4/4/3/3)からなる「オリーブ山のキリスト」を読み進めていこう。

Le Christ aux oliviers

Dieu est mort ! le ciel est vide…
Pleurez ! enfants, vous n’avez plus de père !
Jean Paul.

I

Quand le Seigneur, levant au ciel ses maigres bras
Sous les arbres sacrés, comme font les poètes,
Se fut longtemps perdu dans ses douleurs muettes,
Et se jugea trahi par des amis ingrats ;

オリーブ山のキリスト

         神は死んだ! 天は空っぽだ・・・
         泣くがいい、子どもたちよ、もう父はいない!
                            ジャン・パウル

I

主は、痩せ細った腕を天に向けて上げ、
神聖な木々の下で、ちょうど詩人たちのように、
長い間、声も出ないほどの苦痛の中に沈み込んでいた、
そして、恩知らずな友たちに裏切られたと思った時、

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芥川龍之介 「神神の微笑」 日本はいかに外国文化を受容してきたのか?

芥川龍之介は、1922(大正12)年に発表した「神神の微笑」の中で、キリスト教を布教するために日本にやってきたオルガンティノ神父の葛藤を通して、日本が古代から現代に至るまでどのように外国文化を受容してきたのかという問題に対して、一つの回答を提示した。

結論から言えば、日本は外国からやってくるのもを排除することなく全て受け入れたのだが、その際に、自国流に変形した。オルガンティノの前に現れた日本の霊である老人は、「我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力」だと言う。
しかも、造り変えて同化する際に、すでに存在したものと新しく到来したもののうちどちらかを排除するのではなく、すべてが同時に共存する。新しいものが古いものを消滅させることはない。

この二つの点を理解するために、「洋服」を取り上げてみよう。
私たちは「洋服」という言葉を何気なく使い、その由来について考えることはほとんどない。
しかし、同じものを指す言葉である「服」とはニュアンスの違いがある。普段であれば、「その服かわいい!」というように「服」を使い、多少丁寧であらたまった感じの時には、例えば「お洋服」のように「洋服」を使う傾向にある。

「洋服」という言葉は明治時代にできたもので、元来は「西洋服」だった。それを略して「洋服」になった。
それに対応し、日本の伝統的な服装(着物)は、「和服」と呼ばれるようになった。
その二つの様式は現在でも共存している。決して、「洋服」が「和服」を排除してしまったわけではない。その一方で、欧米由来の衣服にも日本風のアレンジが加えられ、日本人に適したものに造り替えられてきた。
このように考えると、「変形しつつの同化」と、すでに存在したものと新しいものの「共存」という、二つの現象を確認することができる。

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岡倉天心 「茶の本」 お茶か刀か

岡倉天心の『茶の本』は、アメリカ・ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、1906年(明治39年)に英語で出版した書籍で、茶道の紹介だけではなく、日本の文化や美意識が説かれている。

その背景には次のような時代があった。
1868年の明治維新以降、日本は欧米に匹敵する列強になることを目指し国の近代化に努め、大陸政策を進展させ、1894(明治27)年には日清戦争、1904(明治37)年には日ロ戦争へと突き進んだ。そうした戦争の勝利の中で、日本が西欧に劣った国家ではなく、独自の文化を持った国であるという自覚と誇りが芽生え、各種の日本論が提出された。

『茶の本』もそうした日本論の一つだが、とりわけ21世紀の今、次の一節に目を止めたい。

一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、そでの下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮さつりくを行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

(青空文庫 :https://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html

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