マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』の世界 3/4 マドレーヌの記憶

プルーストと言えば、紅茶に浸したマドレーヌが過去の思い出を甦らせるというエピソードが語られるほど、マドレーヌと記憶の関係はよく知られている。
また、『失われた時を求めて』の解説などを読むと、「無意志的記憶」や「心の間歇」といった表現をよく目にする。

しかし、記憶の問題はプルースト特有のものではない。
哲学の分野では、アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』が1897年に出版されている。ベルクソンはその中で、物質の「知覚」ではなく、「記憶」に焦点を当て、外的現象と精神の交差するところに生まれるイメージを問題にした。

文学の分野では、「フロベールの”文体”について」(1920)という雑誌記事の中で、プルースト自身が、「記憶の現象」を作品の構成原理として用いた作家として、シャトーブリアンとジェラール・ド・ネルヴァルの名前を挙げている。二人の作家の作品では、物語の流れの中で突然記憶が甦り、それが新たな展開のきっかけとなる技法が用いられることがった。
とりわけネルヴァルの「シルヴィ」に関しては、「心の間歇(Intermittances du cœur)」という題名を付けてもいいとさえプルーストは言う。(”間歇”と訳したintermittanceという言葉は、”一時的に中断する”とか”断続”といった意味。)

プルーストは、先行するこうした思想や文学作品を前提としながら、最初は「心の間歇」という総題を考えた作品である『失われた時を求めて』を創作する中で、「記憶」を人間の「生(せい)」の中核に位置づけたのだった。
マドレーヌのエピソードもそうした視点から理解することが求められるし、一見無関係に思われるが、作品の中でしばしば語られる絵画、音楽、文学についての考察に関しても、「記憶」の働きと同様に理解することができる。

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プルースト 『失われた時を求めて』 Proust À la recherche du temps perdu マドレーヌと記憶のメカニスム 2/2

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の語り手である「私」は、ある冬の日、母の準備してくれた紅茶にマドレーヌを入れて味わった時の「甘美な喜び(un plaisir délicieux)」を思い出す。
その感覚が、飲み物によってもたらされたものではなく、自分自身の中にあるものだった。

Il est clair que la vérité que je cherche n’est pas en lui (le breuvage), mais en moi.

明らかに、私が探している真実は、その飲み物の中にあるのではなく、私の中にある。

「私」はその真実に達しようとするのだが、試みる度に抵抗があり、「自分の底にある(au fond de moi)」ものが浮かび上がってこない。

と、突然、思い出が蘇る。

 Et tout d’un coup le souvenir m’est apparu. Ce goût, c’était celui du petit morceau de madeleine que le dimanche matin à Combray (parce que ce jour-là je ne sortais pas avant l’heure de la messe), quand j’allais lui dire bonjour dans sa chambre, ma tante Léonie m’offrait après l’avoir trempé dans son infusion de thé ou de tilleul.

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