プルースト 『失われた時を求めて』 Proust À la recherche du temps perdu マドレーヌと記憶のメカニスム 2/2

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の語り手である「私」は、ある冬の日、母の準備してくれた紅茶にマドレーヌを入れて味わった時の「甘美な喜び(un plaisir délicieux)」を思い出す。
その感覚が、飲み物によってもたらされたものではなく、自分自身の中にあるものだった。

Il est clair que la vérité que je cherche n’est pas en lui (le breuvage), mais en moi.

明らかに、私が探している真実は、その飲み物の中にあるのではなく、私の中にある。

「私」はその真実に達しようとするのだが、試みる度に抵抗があり、「自分の底にある(au fond de moi)」ものが浮かび上がってこない。

と、突然、思い出が蘇る。

 Et tout d’un coup le souvenir m’est apparu. Ce goût, c’était celui du petit morceau de madeleine que le dimanche matin à Combray (parce que ce jour-là je ne sortais pas avant l’heure de la messe), quand j’allais lui dire bonjour dans sa chambre, ma tante Léonie m’offrait après l’avoir trempé dans son infusion de thé ou de tilleul.

 突然、思い出が現れた。その味、それはマドレーヌの小さなかたまりの味だった。日曜の朝には、コンブレーでは、(その日、私はミサの時間の前には外出しなかったから。)レオニ叔母の寝室にお早うを言いに行くと、叔母が私に出してくれたものだった。それは紅茶かシナノキのハーブティーの中に浸してあった。

「突然(tout d’un coup)」という言葉が、「無意志的記憶」のメカニスムのサインとなる。
以下に語られる思い出は、意識的に思い出したものではなく、自分の意志とは関係なく突然出現したのだ。

「その味(Ce goût,)」で始まる文は、「マドレーヌと記憶のメカニスム 1/2」でも説明したように、語り手である「私」の意識に浮かぶ順番に言葉が連ねられ、「意識の流れ」を辿っている。

実際、「マドレーヌの小さなかたまり(petit morceau de madeleine )」と、それを「レオニ叔母が出してくれた(ma tante Léonie m’offrait)」の間に、以下の4つの要素が挿入されている。
「日曜日の朝毎に( le dimanche matin)」、「コンブレーで(à Combray)」、「その日(日曜日)にはミサの時間の前には外出しなかった。(ce jour-là je ne sortais pas avant l’heure de la messe)」、「彼女の寝室にお早うを言いに行った( j’allais lui dire bonjour dans sa chambre)」。

日本語の語順であれば、伯母さんはマドレーヌをハーブティーの中に浸した後、それを私に出してくれたと、出来事の順番と言葉の順番が対応する。
他方、フランス語では、動詞の複合形(avoir, être + pp.)があるために、言葉の順番を逆にすることも可能になる。
ここで、「伯母さんが出してくれた(ma tante Léonie m’offrait)」の後ろに、「それがハーブティーの中に浸してあった( l’avoir trempé dans son infusion )」と記されているが、動詞の複合形のおかげで行為の前後関係が分かる。
語り手の「私」は、まず始めに、伯母さんが出してくれたことを思い出し、その後からハーブティーの中に浸してあったことを思い出した。言葉はその順番を辿っている。


次に、記憶は、視覚よりも臭覚や味覚に強く依存することが明かされる。

La vue de la petite madeleine ne m’avait rien rappelé avant que je n’y eusse goûté ; peut-être parce que, en ayant souvent aperçu depuis, sans en manger, sur les tablettes des pâtissiers, leur image avait quitté ces jours de Combray pour se lier à d’autres plus récents ; peut-être parce que, de ces souvenirs abandonnés si longtemps hors de la mémoire, rien ne survivait, tout s’était désagrégé ; les formes — et celle aussi du petit coquillage de pâtisserie, si grassement sensuel sous son plissage sévère et dévot — s’étaient abolies, ou, ensommeillées, avaient perdu la force d’expansion qui leur eût permis de rejoindre la conscience. Mais, quand d’un passé ancien rien ne subsiste, après la mort des êtres, après la destruction des choses, seules, plus frêles mais plus vivaces, plus immatérielles, plus persistantes, plus fidèles, l’odeur et la saveur restent encore longtemps, comme des âmes, à se rappeler, à attendre, à espérer, sur la ruine de tout le reste, à porter sans fléchir, sur leur gouttelette presque impalpable, l’édifice immense du souvenir.

小さなマドレーヌを見ても何も思い出さなかった、それを味わう前には。その理由は、たぶん、あの時以来、食べることはなかったけれど、しばしばお菓子屋のケースの棚に乗っているのを目にしたので、マドレーヌの姿がコンブレーで過ごした日々から離れ、もっと最近の日々と結びついたからかもしれない。たぶん、それらの思い出が長い間記憶の外に捨てられ、何も生き残らず、全てが分解してしまったからかもしれない。様々な形 — お菓子の小さな貝殻の形、厳格で敬虔な襞の下でたっぷりと官能的な形 — は、廃棄されてしまったか、眠っているか、拡張する力を失ってしまっていた。その力こそ、様々な形が意識に到達することを可能にするものだ。しかし、古い過去に関して、何も残っていない時、全ての生き物が死んだ後、全ての事物が破壊された後、ただ、もっと虚弱だが、より生き生きし、より非物質的で、より永続性があり、より忠実な、香りと味が、長い間持続し、魂のように、思い出し、待ち、期待し、残ったものの残骸の上に、たわむことなく、ほとんど知覚できないほどの小さな粒の上で、思い出の巨大な建造物をもたらすのだ。

マドレーヌを「見(vue)」ても何も思い出さない。
思い出すのは、「味わった(goûter)」後だという。記憶には、「視覚」よりも「味覚」の方が強い効果をもたらすのだ。

その理由を語り手は考えるのだが、まだ確信が持てないらしいことが、「たぶん、その理由は(peut-être parce que)」という表現で示される。

一つ目の理由は、コンブレーの時代以降にも何度かお菓子屋でマドレーヌを見たため、マドレーヌの「姿(image)」が後の時代の思い出と結びついているから、というもの。

次に考えた理由は、目にした物体の形が「記憶の外に( hors de la mémoire)」に捨て去られしまった、つまり忘れられているというもの。
マドレーヌの形が「たっぷりと官能的(grassement sensuel )」であるにもかかわらず、「廃棄されてしまった(s’étaient abolies)」か、「眠っているか(ensommeillées)」か、それらの形が意識に上ってくるのを可能にする「拡張する力を失ってしまった(avaient perdu la force d’expansion)」のだと考えられる。

このように、視覚的映像に関しては、全てが記憶の外に置かれてしまうが、その一方で、残るものがある。
それを説明する文は、まず最初に、記憶の残るものが何かが示されるのではなく、属性がいくつも連ねられる。
「もっと虚弱だが、より生き生きし、より非物質的で、より永続性があり、より忠実な(plus frêles mais plus vivaces, plus immatérielles, plus persistantes, plus fidèles)」もの。
それは何か?

答えは、「香りと味( l’odeur et la saveur)」。

臭覚と味覚は、視覚が失ってしまう「拡張する力(la force d’expansion)」を保ち続け、ひとかけらのマドレーヌのような「ほとんど知覚できないほどの小さな粒(gouttelette presque impalpable)」の上に、「思い出の巨大な建造物( l’édifice immense du souvenir)」をもたらすことができる。

記憶を喚起する際に「香り」が重要な役割を果たすことは、シャルル・ボードレールの「香水瓶」などの詩によって歌われ、フランス文学の中で広く受け入れられてきた。
プルーストもその流れの中にいるのだと考えられる。


続く文章では、マドレーヌの味を思い出した瞬間に、コンブレーの町全体が忘れられていた記憶から一気に立ち上がってくる様子が、「思考の流れ」の順番に綴られていく。

何度も繰り返すことになるが、日本語に訳そうとすると、語順が混乱し、意味がわからなくなってしまう恐れがある。
とにかく、フランス語を前から辿っていく。そうすることで、「私」の意識に次々と浮かび上がってくるものを共に目にしていくと、プルーストの文に親しみ、味わうことができる。

 Et dès que j’eus reconnu le goût du morceau de madeleine trempé dans le tilleul que me donnait ma tante (quoique je ne susse pas encore et dusse remettre à bien plus tard de découvrir pourquoi ce souvenir me rendait si heureux), aussitôt la vieille maison grise sur la rue, où était sa chambre, vint comme un décor de théâtre s’appliquer au petit pavillon donnant sur le jardin, qu’on avait construit pour mes parents sur ses derrières (ce pan tronqué que seul j’avais revu jusque-là) ; et avec la maison, la ville, la Place où on m’envoyait avant déjeuner, les rues où j’allais faire des courses depuis le matin jusqu’au soir et par tous les temps, les chemins qu’on prenait si le temps était beau.

 あのマドレーヌの一切れの味だとわかるとすぐに、それはハーブティーの中に漬けられたもので、叔母が出してくれたのだが、(その時には私はまだわからなくて、もっと後になってから、どうしてその思い出が私をこれほど幸せにしてくれるのかわかるのだが)、すぐに、灰色の古い家が、通りに面していて、叔母の寝室はそこにあったのだが、ちょうど芝居の装飾のように、小さな東屋にぴったりとくっついた。その東屋は庭に面し、その庭は、私の両親のため、東屋の裏に立てられたものだった。(その傷んだ壁を、私だけが再び目にしたのだった。)そこに一緒にあったのは、家、町、「広場」には昼食の前によく行かされた。色々な通りに私は買い物をしに行った、朝から晩まで、どんな天気の時も。そして、天気がいい時に散歩した道。

これ全体で一つの文であり、主文は、« La vieille maison (…) vint (…) s’appliquer au petit pavillon. »(古い家が、小さな東屋にぴったりとくっついた。)
ちなみに、家が命を持ち、動しているといった印象を与えるが、それはコンブレーの町全体が「思い出の巨大な建造物(l’édifice immense du souvenir)」として立ち上がってくるからだろう。

そのきっかけとなるのは、ハーブティーに浸したマドレーヌの味が「それとわかった( j’eus reconnu)」こと、つまりレオニ叔母の出してくれたものだと分かったこと。

その後、カッコの中に入れて、その思い出がなぜ自分を幸福にしてくれるのか、その時には理由が「まだわからなかった(je ne susse pas encore)」し、それを「発見する(découvrir)」のは「ずっと後になって(remettre à bien plus tard)」からだという注が挿入される。

その挿入が少し長くなったため、「味が分かるとすぐに(dès que j’eus reconnu le goût)」という部分を、「すぐに(aussitôt)」と言い直し、次に、「古い家(la vieille maison)」で始まる主文が続く。

その家については、「灰色(grise)」で、「通りに面して(sur la rue)」いて、その通り側に「叔母の寝室があった(où était sa chambre)」ことが思い出される。
というか、思い出の中で、そうした要素が組み立てられていく。その様子は、ちょうど芝居の舞台の上で、「舞台装置(un décor de théâtre)」が組み立てられるのと似ている。

「小さな東屋(le petit pavillon)」に関しても、同様の仕方で、いくつかの要素が積み上げられる。
それは、「庭に面し(donnant sur le jardin)」ていたが、その庭は、「私の両親のために(pour mes parents)」、東屋の「裏(ses derrières)」に作られたものだった。

さらに再びカッコが挿入され、後の時代になり、東屋が傷んだことを思い出し、その頃にはたぶん両親は亡くなり、「その傷んだ壁(ce pan tronqué)」を「ぼくだけが見た(seul j’avais revu)」という思いが付け加えられる。

レオニ叔母の住む家の様子が細かに記された後、今度は、「一緒に(avec)」という言葉によって、コンブレーの町で親しんだ様々なもの — 家、町、「広場」、通り、散歩道 — が追加される。
「広場(la Place)」には、お昼ご飯の前によく「行かされた(on m’envoyait)」ものだった。
色々な通りには、「買い物をしに行った(j’allais faire des courses)」。
「天気がいい時にはsi le temps était beau) 」、「よく歩いた散歩道(les chemins qu’on prenait)」があった。

フランス語の構文を気にせず、日本語に変えて理解しようとせず、単語が出てくる度にレオニ叔母の家やコンブレーの町を作り上げるような気持ちで読んでいくと、この一文の長さが苦にならず、「私」の思い出を辿っていくことができる。


こうした思い出の開花を前にして、語り手である「私」は、日本のあるおもちゃを思い描く。

Et comme dans ce jeu où les Japonais s’amusent à tremper dans un bol de porcelaine rempli d’eau de petits morceaux de papier jusque-là indistincts qui, à peine y sont-ils plongés s’étirent, se contournent, se colorent, se différencient, deviennent des fleurs, des maisons, des personnages consistants et reconnaissables, de même maintenant toutes les fleurs de notre jardin et celles du parc de M. Swann, et les nymphéas de la Vivonne, et les bonnes gens du village et leurs petits logis et l’église et tout Combray et ses environs, tout cela qui prend forme et solidité, est sorti, ville et jardins, de ma tasse de thé.

それはちょうど、日本人たちが楽しむ、あのおもちゃの中でのようだった。彼らは、水が一杯にはいった陶磁器の中に、紙の小さな塊を浸す。それまではごちゃごちゃだった塊は、水の中に沈められるとすぐに、伸び、くるくると回り、色がつき、それぞれに分離し、花や家や人間になる。しっかりとした形で、すぐにそれとわかる。同様に、今や、私たちの庭の全ての花々、スワンさんの庭園の花々、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、よき村人たちと彼らの小さな住まい、教会、コンブレー全体とその周辺、そうしたもの全てがはっきりとした形と堅固さを持って、出てきたのだった、町も庭も、私の紅茶カップから。

「日本人が水を満たした陶磁器の中に小さな紙の塊を浸して楽しむおもちゃ(ce jeu /où les Japonais s’amusent à tremper / dans un bol de porcelaine rempli d’eau / de petits morceaux de papier)」とは、「水中花」のこと。
彩色し小さく圧縮した木の芯や小さな木片を水の入ったコップの中に入れると、ぷくぷくと泡を出しながら花や鳥や人形の形になって浮かぶ。

その様子は、忘れていた記憶の小さな粒が、ふとした瞬間に突然意識に浮かび上がり、一気に展開して「思い出の巨大な建造物(l’édifice immense du souvenir.)」となる「無意志的記憶」のメカニスムそのものといえる。

くちゃくちゃになって「何かはっきりしない( indistincts)」紙が、水の中に「沈められるとすぐに(à peine y sont-ils plongés)」、「伸び(s’étirent)」、「くるくる回り(se contournent)」、「色がつき(se colorent)」、はっきりした形になって「分離し( se différencien)」する。
そして、花や家や人間の形になる。それらの形は、「しっかりとしていて(consistants)」、「すぐに何だかわかる。(reconnaissables)」。

このように「水中花」が、小さな紙の塊から明確な形を取るまでの過程を描いた後、それと同様の仕方で、両親と住んだ家や庭の花をはじめ、コンブレーの町全体が、「私の紅茶のカップ」から出てきたのだと言われる。

その文では、カップから出てきたものが先に言われ、そうしたものを「それらすべて(tout cela)」という言葉で受けた上で、「出てきた(est sorti)」という動詞と連動させている。
そして、文の最後に「私の紅茶のカップから( de ma tasse de thé)」という言葉が置かれることで、カップにスポットライトが当たり、そこから全てが始まることが強く印象付けられる。

さらに、「出てきた」と「カップ」の間に、構文的には説明の付かない「町と庭(ville et jardins)」という言葉が挿入され、「全てが出てきた、町も庭も、カップから」と続き、語り手である「私」の意識の流れが、そのまま写し取られている。


『失われた時を求めて』の作り出す世界では、題名が示す通り、「失われた時」、つまり「過去」が中心になり、「無意志的記憶」によって甦る思い出の数々が巨大な建造物を作り上げている。

ここで注意したいことは、思い出の中の過去は、決して過ぎ去り、もはや存在しない過去ではなく、「今という時」に属しているということである。
思い出す時は「今」であり、思い出すのは「今の意識」に他ならない。
何かを思い出す時、私たちはその思い出を今まさに生きているのだ。

こうした考え方は、時間を時計によって計測される直線的な流れと捉えるのではなく、意識の生きた流れと捉える考え方と対応している。

時計に測定される時間に従えば、8時の次は9時であり、9時になったら8時はもう戻ってはこない。
しかし、私たちの意識は、9時の時点で8時にしたことを思い出すし、昨日したことも、10年前にしたことも思い出す。
思い出している時は、「今」だ。

その「生きた時間」の中では、9時に何かをしている最中に8時のことを思い出したら、9時の次は8時の思い出となり、次は10年前の思い出が続くかもしれない。
それが人間の意識の流れであり、私たちはそうした「今」を生き続けている。

プルーストが「失われた時」を求めて思い出の巨大な建造物を作り上げたのは、決して過去へのノスタルジーのためではなく、思い出をも含めた「今」を生きる意識、言い換えれば「生命の動き」を捉えることだったといえるだろう。

プルースト 『失われた時を求めて』 Proust À la recherche du temps perdu マドレーヌと記憶のメカニスム 2/2」への2件のフィードバック

  1. アルバ 2022-10-29 / 12:32

    この大長編をどのように読んだらよいかヒントを与えてくださり、ありがとうございました。

    いいね: 1人

    • hiibou 2022-10-29 / 14:19

      プルーストの文章は、単語さえ知っていれば、前から順番にフランス語を辿っていくと、自然に理解できるように書かれています。
      早く読もうとせず、じっくりと時間をかけ、終わることを考えずに少しづつ読んでいくと、長い間楽しむことができます。
      Bonne lecture !

      いいね

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