
18世紀前半、幕府の政策の修正があり、キリスト教を除く外国の文物が解禁されるようになる。
1720年、徳川吉宗は、主に科学技術の導入を目的として、オランダからの本の輸入を解禁した。その政策が蘭学の基礎となり、科学的、実証主義的な思考が日本に芽生え始める。
1731年になると、沈南蘋(しん なんびん)が来日。長崎に2年間留まり、写実的な花鳥画を日本に伝え、18世紀後半に活動する画家たちに大きな影響を与えた。
この時代になり、初めて、日本の絵画の伝統に、写実という概念が導入されたと考えてもいい。
それ以前の絵画は、現実の事物を目に見えるままの姿で再現するという意識はなく、「装飾的に描く」か、あるいは、「造化の真を捉える」という意識が強かった。
現在では当たり前になっている「写生」が意識的に行われるのは、日本では18世紀後半においてである。その時代になって、伝統的な「装飾的表現」に「写実的表現」が加わったのだといえる。
この新しい時代精神は、京都を中心に活躍した画家たちだけではなく、江戸の浮世絵師たちにも共通している。そのことは、現実の事物をリアルに再現するという意識が日本に移入されたことをはっきりと示している。
京画壇の円山応挙が描いた「写生雑録帖」と江戸の喜多川歌麿の「画本虫撰(がほん むしえらみ)」に描かれた鳥、昆虫、植物等は図鑑の絵のようであり、見えるものを忠実に再現するという写実精神を確認することができる。

