日本の歴史 超私的概観 (9) 幕末から明治へ  植民地化の危機を前にして 

江戸幕府は初期に開始した鎖国政策を継続していたが、19世紀に入ると、西欧諸国によるアジアへの植民地政策に対応を迫られるようになった。

一方では、圧倒的な軍事力を持つ欧米列強に対して断固たる拒否を貫き、攘夷、すなわち夷人(いじん)を攘(はら)い、外国勢力を排除しようとする主張があった。
もう一方では、妥協的な態度を取り、何らかの条約を結ぶという現実主義的な立場があった。
こうした対立が、最終的に江戸幕府を倒し、明治維新をもたらした一つの要因になる。

国内に目を向ければ、幕府および諸藩の財政は恒常的に逼迫しており、農民に対しては年貢を、商人に対しては上納金を過重に課すことで財源の確保を図った。
しかし、その結果として農民一揆が頻発し、都市部においても打ちこわし等の破壊的な民衆運動が勃発するなど、社会的混乱が継続的に生じていた。

このような情勢下において、薩摩藩や長州藩などの一部有力藩では、有能な下級武士を登用し、内部改革に着手することで藩政の再建を図った。
これにより、これらの藩は次第に政治的・軍事的な実力を蓄積し、幕府に対抗し得る勢力として台頭していくこととなる。

明治維新後、国家形成の主導的役割を担ったのは、こうした改革過程において頭角を現した若年層の下級武士たちであり、彼らは新政府の中枢を構成することとなった。

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日本の歴史 超私的概観 (8) 江戸時代 後半 幕藩体制の揺らぎ 外国文化の足音

江戸時代の後半、幕藩体制の土台が揺らぎ始めると同時に、鎖国を続けていた日本にも、少しずつ外国文化の影響が入り込んでくるようになった。

幕藩体制について言えば、商業活動の活発化は、幕府や藩の経済だけでなく、武士たちの社会的な立場をも危うくすることとなった。
江戸時代前半には幕府が藩を支配する封建体制が確立し、武士の兵士としての役割は終わりを迎えていたが、彼らの主な収入源は農民から取り立てる年貢に限られ、自ら商売などをして収入を得る道は閉ざされていた。
その一方で、町人の経済力は増大し、武士階級が町人階級に依存するような状況さえ生まれ、幕藩体制は次第に弱体化していった。

外国文化の影響について見ると、当時の人々の暮らしの中に直接入り込むことはほとんどなかったものの、学問や芸術の世界ではその影響がはっきりと現れていた。
特に絵画の分野では、古くから続く日本独自の表現方法に新しい風が吹き込み、大きな変化が生まれたことは注目に値する。

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日本の歴史 超私的概観 (7) 江戸時代 前期 美意識の形成

江戸時代前期には幕藩体制が確立し、儒教精神が武士だけではなく平民にまで浸透した。16世紀の戦国時代が終わり、社会全体が安定期に入る中で、人々の生活様式も変化し、それにともない文化的な表現も前の時代とは異なったものになっていく。

武士階級においては、幕府の圧倒的な支配の下で戦闘要員という本来の役割を果たす場がなくなり、藩主から俸禄を受領することで生計を立てる非生産者となる。
農民は幕府や藩からの様々な統制にもかかわらず、新田開発や治水・感慨事業、そして農業技術の向上により生産性を増し、農産物を商品として流通させることも可能になる状況が生まれた。
そうした動きに連動し、商業活動も活発化し、街道の整備や貨幣経済の発展にともない、大規模な商売で富を獲得するなどして、町人が経済の実験を握る状況なども生まれ始めた。

このように人々の生活が安定するに従い、京都の宮廷や武士階級だけではなく、都市の住民も、絵画や演劇、読み物などといった文化活動に参加するようになっていく。
江戸時代前期において、その中心は上方、つまり京都と大阪にあり、江戸は徳川幕府と関係するものに限られていたといってもいいだろう。

江戸時代というとどうしても江戸中心に考えてしまがちだが、大和朝廷以来の伝統を考えると、上方から江戸への移行が一気に行われたわけではないことは、むしろ自然なことだと言える。

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日本の歴史 超私的概観 (6) 江戸時代 前期 封建制度の確立

織田信長と豊臣秀吉によって戦国時代にほぼ終止符が打たれ、戦国大名が各地で勢力を振るった時代から、再び幕府が全国を支配する中央集権制度が確立する時代へと移行する。

その過程において最も大きな転機となったのは、1600年に起こった関ヶ原の戦いだった。
豊臣秀吉の死後、徳川家康を総大将とした東軍と、毛利輝元を総大将とした西軍が、現在の岐阜県に位置する関ヶ原を初めとして各地で戦闘を繰り広げ、最終的に東軍が勝利を収めた。
その結果、強大な権力を掌握した徳川家康は、1603年、京都の朝廷から” 征夷大将軍 “に任命され、江戸に幕府を創設する。

江戸時代の前期、幕府が最も力を尽くしたのは、徳川家が代々世襲する将軍が、各地の藩を統治する大名たちと封建的主従関係を結び、”幕藩体制”と呼ばれる支配体制を確立することだった。

徳川政権が採用した様々な施策は、政治体制だけではなく、庶民の日常生活や精神性、そして芸術の分野にも大きな影響を及ぼし、私たちが現在 “日本的”と感じる多くの要素の源になっている。

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日本の歴史 超私的概観 (5) 鎌倉時代から江戸時代へ (その2)

安土桃山時代:1573年 – 1603年

室町時代の後期、各地を支配する領主が室町幕府の統制から自由になり、勢力争いを繰り広げる時期が、15世紀末から16世紀末まで約100年間続いた。
その戦国時代の最後に戦乱を制したのが、織田信長と、彼に続く豊臣秀吉だった。

しかし、安土桃山時代と呼ばれるその時期は30年程度で終わり、1600年の関ヶ原の戦いの後、1603年には徳川家康によって江戸幕府が開かれる。

その安土桃山時代、日本は初めて西欧と接触を持ち、その影響が天下統一に大きな役割を果たすことになった。
また、戦さの時代が終焉を迎えることで、例えば城の形体が、戦闘時の防御拠点となる山城(やまじろ)から、平地に築かれ、川や沼、人工的に造られた掘りなどを防御施設とする平城(ひらじろ)へと変わり、城下町が作られるなど、文化的な面でも大きな変化が見られるようになる。

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日本の歴史 超私的概観 (4) 鎌倉時代から江戸時代へ (その1)

平安時代の後半、平家や源氏といった武士団が勢力を拡大し、源平の合戦を経て、12世紀後半になると源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでに至った。
その後、江戸幕府が崩壊する1868年までの約700年間、武士階級が政治の支配権を握ることになる。

その間、天皇家を中心とした貴族たちは京都に留まり、名目上は天皇が国家を支配し、武家の棟梁は征夷大将軍といった称号で朝廷に仕えるといった政治体制が取られた。
政権は鎌倉幕府から室町幕府、信長や秀吉の時代を経て江戸幕府へと移行したのだが、形式上は朝廷と武家による権力の二重構造が継続されたのだった。

その一方で、時代と共に農民や商人といった庶民の勢力が拡大し、文化の担い手は、京都の宮廷や寺院だけではなく、武士階級へ、そして一般の民衆へと広がっていった。
平安時代の公家文化が、鎌倉時代に入ると禅の影響を強く反映した武士の文化を生みだし、最終的には江戸時代の町人文化の中で成熟したといってもいいだろう。
私たちが現在日本の伝統と見なすものは、こうした歴史の流れの中で徐々に生み出されて来たものに他ならない。

ここではまず最初に、鎌倉時代と室町時代を通して、平安時代から何が変化し、何が新たに産み出されたのか、見ていくことにする。

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日本の歴史 超私的概観 (3) 奈良時代から平安時代へ (その2)

平安時代:794年から1182-1192年

奈良時代は、隋や唐に使節団を派遣して積極的に政治や文化を学び、天皇を中心とする中央集権国家の確立に努めた時代だった。
平安時代になると、渡来した文物に関する受容の仕方が変化する。
約400年続く平安時代の間に「和様化」が大幅に進み、現在の私たちが「日本的」と感じるものが様々な面で出来上がっていった。

平安時代において、大きな転換点を示す象徴的な出来事は、遣唐使の廃止。
600年に第1回遣隋使が派遣され、630年からは唐が大陸の実権を握ったのに対応して、遣唐使に代わった。そうした制度が838年まで200年以上維持され、派遣が20回以上行われた。
その制度が、894年になりは正式に廃止されたのだった。

この外交関係の断絶は、江戸時代の「鎖国」に匹敵するものであり、その後の約300年の間、外来の文物が日本古来の心性を通して和様化する大きなきっかけとなった。

そうした和様化の過程で、仏教の仏と土着の神々が融合し、真名(まな)と呼ばれた漢字から仮名(かな)が発明された。
また、日本の風土にふさわしい真言宗や天台宗が形作られ、平等院鳳凰堂を頂点とする日本的な美が創造され、『古今和歌集』『枕草紙』『源氏物語』といった優れた文学作品が生まれたりもした。

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日本の歴史 超私的概観 (2) 奈良時代から平安時代へ (その1) 

奈良時代と平安時代は、現在の日本の政治的、文化的、思想的な基礎が形作られた時代だといえる。

710年に始まり793年に終わる奈良時代は約80年。それに対して、794年から1180年代まで続いた平安時代は約400年。その二つの時代が継続した約500年の間に、ヤマト政権は天皇を中心とした政治体制を整え、仏教を大幅に取り入れながら、私たちが「日本的」と感じる事物や精神性を作り上げていった。

奈良時代は、飛鳥時代の聖徳太子たちによって積極的に取り入れられた大陸の政治制度や仏教による国家運営を押し進め、国家としての体制を整えた時代だといえる。
その最も明確な印として、現存する日本最古の書籍である『古事記』と『日本書紀』を挙げることができる。
東大寺大仏殿は、その時代を視覚的に最も見事に表現する。

平安時代になると、奈良時代に受容した大陸の政治や文化の成果をしっかりと受け止めた上で、微妙でありながら重要な変化を加え、「もののあはれ」に美を見るといった感受性を醸成していった。
『古今和歌集』や『源氏物語』はその文学的な表現であり、平等院鳳凰堂はその美学を視覚的に表現している。

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日本の歴史 超私的概観 (1) 古代から飛鳥時代まで

日本のことを少しだけでも勉強しようと思った時、自分がほとんど何も知らないことに気付かされた。

知っていることといったら、学校で習った何人かの人物の名前やいくつかの出来事くらい。例えば、「1192(いい国) つくろう 鎌倉幕府」といった感じ。
最近の学説によれば、源頼朝が全国に守護・地頭を置き、実質的な支配を開始したのは1185年なので、「1185(いい箱)つくろう 鎌倉幕府」と言われるようになったらしい。
しかし、鎌倉時代が日本の文化においてどのような意味を持ったのかといったことに関しては、あいかわらずわからないままだ。

歴史に関するもう一つの傾向は、小説や芝居などで取り上げられたヒーローの個人的な物語を通して、自分たちの生き方の参考にするといったもの。
例えば、ある時期、坂本龍馬に脚光があたり、「死ぬ時はたとえどぶの中でも前向きにたおれて死ぬ」といった言葉だけが一人歩きしたことがある。
その時、幕末について少し語られることはあったとしても、明治維新が現代の日本のあり方にどのような役割を果たしたのか、私はまったく知らないままでいた。

そのような状況の中で自分の無知を自覚するにつれ、過去の日本が現在の日本にどのような痕跡を留めているのか知りたくなり、少しずつ調べてみることにした。

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