江戸時代前期 浮世の絵画 — 菱川師宣 尾形光琳 英一蝶

英一蝶 布晒舞図(部分)

1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いて以降、社会が安定するに連れて高級商人たちの台頭が見られ、17世紀後半から18世前半の元禄時代(1688−1704)に至り、文藝、絵画など多方面で文化的な開花が見られた。
井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、菱川師宣、尾形光琳。こうした名前を挙げるだけで、日本の文化において、この時代の果たした役割の大きさがわかるだろう。

当時の時代精神を一言で言えば、「浮世への道」と言っていいかもしれない。

戦国時代が終わり、江戸幕府の幕藩制度が強化されていく。幕府の将軍がそれぞれの藩主と主従関係を結ぶ封建制度の中で、将軍が大名を支配する構図が出来上がる。
その主従関係を絶対的なものとする思想は、家康・秀忠・家光・家綱という4代の将軍に仕えた林羅山の朱子学だった。
彼の学説を簡単に要約すれば、理論的には天を助けることが人の道であり、実践道徳としては、将軍と大名、親と子といった上下関係、士農工商という身分制度の維持こそが社会の安定を保証するというもの。理性が情欲を支配することを理想とした。

そうした朱子学の禁欲的で、義理を重視し、社会秩序の維持を担う儒教思想が表の顔だとすると、その裏にもう一つの面があった。それは、人情を尊び、人間としての感情に流されながら、快楽を求める感性。
建前は建前としながらも、本音で生きることに喜びを感じることで、日々の生活を「憂世」から「浮世」へと変えようとする。そうした精神性が、17世紀を通して強まっていった。

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浮世絵への道 étapes vers le Ukiyo-é 

江戸時代を代表する浮世絵が17世紀の後半に描かれるようになるまでには、室町時代後半からの絵画の伝統があった。
その流れを辿ってみると、平安時代に確立した大和絵と、鎌倉時代以降に大陸から移入された漢画が融合され、新しい時代の美意識を生み出していく様子を見ることができる。

地獄草紙 東博本 雨炎火石

「うき世」とは、元来は、「憂世」と記され、日々の生活の過酷さを表す言葉だった。
来世に極楽「浄土」に行くことが理想であり、この世は「穢土(えど)」であり、厭わしく、憂うべき場所。

そうした現実感は、地獄絵等によって表現されている。
地獄の絵とされているが、実際には、現実の過酷さの実感を伝えるものだったと考えられる。

その「憂世」が「浮世」に変わる。
現実の厳しさは変わらない。しかし、束の間の一生だからこそ、昨日の苦しさを忘れ、明日の労苦を思い煩わず、今日この時を、浮き浮きと楽しく生きようと考える。
最先端をいくファッションを楽しみ、最新の話題や風俗を享受する。
そうした時には、官能性を隠すことなく、悪所と言われた遊里と芝居町を住み処とする美女や役者たちをモデルにして、美人画や役者絵が描かれる。

浮世絵は、現実を「浮世」と思い定めた時代精神を表現する絵画なのだ。

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