
1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いて以降、社会が安定するに連れて高級商人たちの台頭が見られ、17世紀後半から18世前半の元禄時代(1688−1704)に至り、文藝、絵画など多方面で文化的な開花が見られた。
井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、菱川師宣、尾形光琳。こうした名前を挙げるだけで、日本の文化において、この時代の果たした役割の大きさがわかるだろう。
当時の時代精神を一言で言えば、「浮世への道」と言っていいかもしれない。
戦国時代が終わり、江戸幕府の幕藩制度が強化されていく。幕府の将軍がそれぞれの藩主と主従関係を結ぶ封建制度の中で、将軍が大名を支配する構図が出来上がる。
その主従関係を絶対的なものとする思想は、家康・秀忠・家光・家綱という4代の将軍に仕えた林羅山の朱子学だった。
彼の学説を簡単に要約すれば、理論的には天を助けることが人の道であり、実践道徳としては、将軍と大名、親と子といった上下関係、士農工商という身分制度の維持こそが社会の安定を保証するというもの。理性が情欲を支配することを理想とした。
そうした朱子学の禁欲的で、義理を重視し、社会秩序の維持を担う儒教思想が表の顔だとすると、その裏にもう一つの面があった。それは、人情を尊び、人間としての感情に流されながら、快楽を求める感性。
建前は建前としながらも、本音で生きることに喜びを感じることで、日々の生活を「憂世」から「浮世」へと変えようとする。そうした精神性が、17世紀を通して強まっていった。
井原西鶴と菱川師宣
本音をそのまま表現した作家の代表は、井原西鶴(1642-1693)。
西鶴の代表作『好色一代男』(1682)は、上方の大きな商家に生まれた浮世之介(略して世之介)が、7歳で恋を知り、60歳で女護ヶ島に船出するまで、数多くの恋愛に費やした生涯を描いている。
彼は、建前の世界を支配する仏教の教えや儒教的な道徳を無視し、現世の快楽を追求し、最後はこの世を超えた世界である女護ヶ島にまで快楽主義を延長して憚らない。
西鶴のこうした現世主義の基本には、「世はうとまし」という基本的な世界観があった。つまり、現実の世界は「憂世」だという認識。
だからこそ、「世の無常を観じ、人の嘆きにかまうことなかれ。」という現実主義が生まれた。
死後に極楽浄土に行くことなど考えず、物質的な快楽主義を貫くことで、この世を「浮世」として生きる主人公を作り出した。

『好色一代男』が1684年に江戸で刊行される時、挿絵を担当したのが菱川師宣(1618?-1694)だった。
彼は最初に狩野派を始めとする御用絵師の画法を学び、その後、吉原の遊郭、歌舞伎、名所案内などの挿絵を描いて、人気を博した。
師宣を始めとする画家たちの挿絵(木版画)には、繊細な表現は見られない。しかし、荒削りな描線により人物の躍動感やなまめかしさが的確に表現され、当時の風俗を生き生きと描き出している。
そこには、現実社会の有様を観察した上で、娯楽性を加味しようとする精神が働いている。そのために、束の間の現世を浮き浮きと楽しい世界として表現する意識を感じ取ることができる。

「江戸風俗絵図」では、人物の姿態表現の巧みさは変わらないが、その上に、極彩色の人物と淡彩の風物のコントラストが効果を上げ、見事な風俗画となっている。

江戸時代初期の絵画では、こうした風俗画から徐々に人物へと焦点が移り、寛文の美人画のように、背景は無地にして女性だけにスポットが当たる絵画へと進んでいった。
ここで、遊郭を描いた風俗画から、室内の人物たちへ、そして寛文美人画へと至る過程を見ておこう。



一人立美人図は、無背景に立ち姿の美人一人を描いており、力点は、女性の美貌と着衣の描写だった。
菱川師宣も、こうした流れに従い、女性の数を限定し、背景を最小化する。そして「見返り美人図」に至り、浮世絵という新しい絵画表現への道を開いた。


尾形光琳
江戸時代の絵画というと私たちはどうしても浮世絵を中心に考えてしまいがちであるが、当時の本流は狩野派や土佐派といった幕府や大名のお抱え絵師集団だった。
菱川師宣にしても、尾形光琳にしても、出発点は狩野派であり、そこから独自の様式を開発することになる。
尾形光琳(1658-1716)の場合には、俵屋宗達の造形性や柔軟な描線から多くを学んだ。
光琳による宗達の「槙楓図」の模写を見ると、影響の大きさと同時に、光琳の特色も確認することができる。


最初に気づくのは、色彩が鮮明になり、全体が明るくなっていること。
この明るさは、浮世の色だと考えてみたい。
宗達にある奥行き感が、光琳では希薄になることも、大きな違いである。
宗達の楓の木の曲がり具合、槙の木の密集する様子や曲線の組み合わせは、奥行きを感じさせる。
それに対して、光琳では、大木の曲がり方が少なくなり、槙の枝の組み合わせが単純化されることで、平面的な構成になっている。
その結果、光琳の模写は、現代のグラフィック・アートを思わせる。つまり、描かれているものの関係性と同時に、それぞれの物の美的形象が明確にされ、装飾性の強い作品に仕上がっている。
以上の特色は、尾形光琳の代表的な作品において十分に表現される。


この2つの燕子花(かきつばた)の絵では、紫の花と緑の茎の束がリズミカルに並べられ、そのリズム感が見事な造形性を作り出す。
「紅白梅図」では、さらに装飾性が強くなると同時に、全体の動きが独特の生命感を表現している。

大きな水の流れが画面全体を左右に切断する構図は、ヨーロッパの遠近法に基づく絵画では考えられない大胆さを示している。
その巨大な流れは、尾形光琳が京都の名門呉服屋の生まれであることを示すかのように、小袖模様を思わせる。一見すると現代の工芸デザインのようであるが、それ以上に、数多くの渦の動きからは力強い生命感が溢れ出している。
その川を中心にして、右に紅梅、左に白梅を配置した構図。右の木は幹中心、左の木は枝中心。それらが明確な左右対照を構成し、絵画の安定性を生み出している。
また、二本の梅はともに素晴らしい脈動感に満ちているが、とりわけ紅梅の幹や枝の動きは人間が踊りを踊るかのようであり、生きているとさえ思われる。
光琳の顧客は、主に京都の富裕な町衆であり、建前は士農工商という身分制度の下層に置かれていたとしても、経済的な発展を遂げ、実質的には武士に劣らない社会的な地位を獲得していた。
そうした上層の商人たちの活力を、明るく力強い光琳の絵画の中に感じ取ることができる。彼らの建前は武士や貴族に支配された憂世であっても、実質は浮世と感じることも多かっただろう。
「躑躅(つつじ)図」は、伝統的な水墨画に彩色を施した作品だが、渓流の流れ、傍らに咲く紅色や白の花々が、明るく鮮やかな世界を感じさせる。

元禄文化の時代、江戸の町人たちだけではなく、京都の町人にも浮世が訪れていた証である。
英一蝶と俳諧の心
英一蝶(はなぶさ いっちょう)(1652-1724)の絵画を見て最初に感じるのは、軽みであり、洒脱さである。
京都生まれの一蝶は、幼い頃に家族と共に江戸に移住し、狩野派に入門して絵画修行を始め、後になると菱川師宣の影響の下で都市風俗を主題として取り上げた。
そうした江戸での生活の中、当時流行していた俳諧に親しみ、宝井其角や松尾芭蕉といった俳人とも親しく交わった。
俳諧は滑稽とか戯れを意味する漢語であり、江戸時代に流行した談林派はとりわけ屁理屈的な理屈や発想の意外性を重視し、自由で、笑いの要素を強く打ち出した。
俳諧師であった松尾芭蕉(1644-1694)も初めは滑稽な俳諧に親しんでいたが、晩年に至り、「古池や蛙飛びこむ水の音」の句に代表される蕉風俳句の世界を確立した。
芭蕉はある意味で隠遁者であり、江戸の市民生活から断絶し、深川で静寂で孤独な生活を送ろうとした。
さらには、旅に出ることで現世から身を遮断して、芸術のみに生きようとした。旅先で訪れるのはいつも歌枕の地や名所旧跡のみであり、彼の関心が旅先で出会う人々の生活ではなかったことからも、芸術探求が旅の目的だったことがわかる。
芭蕉の目には、現世は憂世と映ったに違いない。
「侘びてすめ 月侘斎(つきわびさい)が 奈良茶哥(うた)」
この句で強く表現される「わびしさ」は、芭蕉の世界観の中核にあるもとの思われる。
この世は、「物言えば 唇寒し 秋の風」なのである。
そうした世界観を持つ芭蕉が、俳諧の発句(5/7/5)だけを取り上げ、俳句という芸術形式を完成させる。そのことは、連歌や俳諧の連続性の中から「瞬間」を取り上げ、その一瞬を捉えることで日常の時間を芸術に昇華することを意味している。
芭蕉の言葉で言えば、「不易流行」。
「流行」という現実世界を流れ行く時間の一瞬を捉えることで、「不易」つまり変わらざるものにする。
「物の見えたる光 いまだ心に消えざるうちに いひとむべし」
言い止められた光は、重さがなく、軽々としている。「軽み」もそこから生まれる。
井原西鶴は現世を本音で捉え、流れる時間を流れるままに描いた。あくまでも現実主義に徹し、快楽を追求することでこの世を浮世として描いた。
芭蕉は西鶴と同じように現実を踏まえた上で、ほんの些細な現象に意識を集中させ、時間を瞬間に凝縮した。そのことで、世界は美の対象となる。
例えば、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」。
1642年生まれの西鶴と1644年生まれの芭蕉は、同時代人として同じ現実を生き、同じ現実の捉え方をし、その上で全く異なった芸術を生み出すに至ったのだといえる。
西鶴から10年後に生まれた英一蝶は、西鶴に近い菱川師宣の影響を受けながら、芭蕉的な「軽み」を感じさせる絵を描いた画家である。

「朝暾曳馬(ちょうとんえいば)図」の最大の特色は、水の上に映った人と馬の影の製造。日本の絵画の伝統の中で、これまで水面の影を描くことはなかったという。
それは、まさに、一蝶が、現実に流れる時間の一瞬を捉えたことを意味している。
しかも、背景には具体的な事物が描かれない余白のまま残され、薄い墨で簡潔に描かれた人馬の姿は軽々として、滑稽味がある。
庶民の生活は苦の娑婆であり憂世であったに違いないが、一蝶の絵に暗さはなく、滑稽さや軽みが強く感じられる。
菱川師宣の「釈迦涅槃図」を模したと言われる模写も、そのパロディである「業平涅槃図」にも暗さはない。
涅槃図(ねはんず)とは、釈迦が入滅する時の様子を描いたもので、基本的には右手を枕にし、頭は北向き、顔は西向きで描かれる。


平安時代の歌人、在原業平(ありわら の なりひら)は、『伊勢物語』の主人公と考えられ、数多くの恋物語を通して、美男の色男とされてきた。
「業平涅槃図」では、その業平が釈迦の代わりに右手を枕にして横たわっているが、業平の装束に死を思わせるものではなく、ただ居眠りをしているだけのようにも見える。
他方、彼の周りでは、風俗画に描かれるような着物を着た庶民たちが、死を歎き悲しむ様子をしている。
その対比が、パロディの滑稽さを際立たせるのである。
英一蝶は、元禄11(1696)年に伊豆諸島の三宅島に島流しの刑に処せられたが、その島から宝井基角に送った俳句が残されている。
「初松魚(はつがつお) カラシガナクテ 涙カナ」
三宅島で初めて鰹を釣った。しかし、島には辛子がないほど、不便な暮らしを強いられている。島に流されたことを実感し、涙が出てくる。
島流しにあった悲哀をユーモラスに歌うこの俳句は、娑婆の苦を軽々と受け流そうとする一蝶の精神をよく示している。
そうした精神は、島流しの時代に描かれたと考えらる「布晒舞図(ぬのさらしまいず)」の中でも表現されている。

3人の囃方から舞妓の扇へと向かう、画面左下から右上への向かう構図を基本にし、舞妓は空中に踊り上がるように踊っている。三味線の棹がその方向性を示し、舞妓の肩と腕が並行にして上昇の曲線を描き、顔はさらに上にある扇子を見上げる。
腰を下ろした囃方と舞妓を結ぶ白い布は緩やかな曲線を描き、画面全体に軽やかなリズム感を与える。
「布晒舞図」のどこにも暗さはなく、鰹を釣っても辛子のないような生活の悲哀を味わうとしても、そうした現世を浮世として捉える時代精神の反映が明るく描かれている。
恐ろしい雷の落ちる場面を描いた「雷神」でも、諧謔と軽みが強く感じられる。

普通の雷様の絵であれば、雷神は力強い鬼の姿で描かれる。しかし、一蝶は雷神の姿を木の葉と雲の中に隠し、破れ傘を持って大急ぎで逃げ去ろうとする人間の姿を描く。
片足は空中にあがり、傘とともに、風で吹き飛ばされそう。
尾形光琳の雷神と比べると、一蝶における俳諧の精神をより明確に感じ取ることができる。

尾形光琳は、平安時代の貴族文化から江戸時代初期の武家文化へとつながる装飾美術の伝統を、江戸時代前期に台頭した高級商人たちの感覚に即してアレンジしたという意味で、日本絵画の伝統の内部に留まった画家だといえる。
文藝で尾形光琳に近いのは、近松門左衛門の浄瑠璃だろう。
「曽根崎心中」(1703)に代表される「心中物」で、主人公たちは社会的な規範である義理と、個人の感情である人情の間に挟まれ、道行きの末に死を選ぶ。
井原西鶴の主人公たちが社会規範など全く気にせず、快楽主義を貫く姿とは異なり、近松の主人公たちの心には儒教道徳が重くのしかかっている。そうした中で、個人の感情を貫き、死によって愛を崇高化する。
そのようにして、近松において、伝統の中にありながら、新しい精神性を加味し、時代に即した作品が成立した。
それに対して、英一蝶は、深川の庵に籠もり、精神的には隠者のように俗世間から離脱した松尾芭蕉に近いといえる。
一蝶の絵画がどこまで蕉風であるかは別にして、彼の絵画から発する「軽み」は、明らかに蕉風俳句と関連性があると言ってもいいだろう。
菱川師宣、尾形光琳、英一蝶という画家たちの画業を辿ってみると、三人がそれぞれの気質に応じて、17世紀後半の時代精神を反映した絵画を描いたことがわかってくる。
表では朱子学による儒教道徳が強化され、主従や親子の上下関係を尊重することが求められる。裏では、個人の感情に価値が置かれ始め、義理よりも人情に動かされる。
建前と本音を使い分ける時代精神の中で、社会の表面を覆う抑圧的な精神を一時でも忘れ、憂世を浮世と見なす心持ちを、その時代の作品は反映している。
師宣、光琳、一蝶の絵画が三者三様であっても、明るく心楽しませる美を表現しているのは、日常生活を浮世と捉えようとする時代精神に基づいているからに他ならない。