柳田国男 『遠野物語』と文学  三島由紀夫に文学の「本質的なもの」を教えてもらう

柳田国男の『遠野物語』が日本人の根底に潜む心の在り方をひっそりと教えてくれる書物であることはよく知られているが、三島由紀夫の解説は、その中の一つの説話を通して、文学の本質が何かを教えてくれる。

最初に確認しておくと、『遠野物語』は、柳田国男が、遠野地方出身の佐々木喜善(きぜん)によって語られた話を筆記、編集したもので、明治43年(1910年)に出版された。

柳田は「序」の中で、そこに収められた物語を、『今昔物語』に類するものとしている。
そのことは、『遠野物語』の購入者の一人、芥川龍之介が、後に、『今昔物語』の説話を骨組みにしたいくつかの短編を執筆したことと、決して無関係ではないだろう。

かかる話を聞きかかる処(ところ)を見てきてのち、これを人に語りたがらざる者、果(はた)してありや。そのような沈黙にして、かつ慎(つつし)み深き人は、少なくも自分の友人の中にはあることなし。

いわんや、わが九百年前の先輩(せんぱい)『今昔物語』のごときは、その当時にありて、すでに今は昔の話なりしに反し、これはこれ目前の出来事なり。
たとえ敬虔(けいけん)の意と誠実の態度とにおいては、あえて彼(=『今昔物語』)を凌(しの)ぐことを得(う)というあたわざらんも、人の耳を経(ふ)ること多からず、人の口と筆とを倩(やと=雇)いたること、はなはだだわずかなりし点においては、彼の淡泊無邪気なる大納言殿(だいなごんどの=『今昔物語』の作者と推定されていた宇治大納言・源隆国)、却(かえ=帰)って来たり、聴くに値せり。

近代の御伽百(おとぎ・ひゃく)物語の徒に至りては、その志(こころざし)や、すでに陋(ろう=賤しい)、かつ決してその談の妄誕(もうたん=でたらめ)にあらざることを、誓いえず。窃(ひそか)にもって、これと隣を比するを恥(はじ)とせり。
要するに、この書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも、立派なる存在理由ありと信ず。
                         (読みやすさを考えて、句読点などを多少変更してある。)

敬虔さや誠実さにおいては、『今昔物語』が勝っているかもしれない。しかし、平安時代末期に成立した『今昔物語』は、当時にあっても「今となっては昔の話」。

他方、遠野で採集された物語は、「目前の出来事」を伝えている。つまり、「現在の事実」なのだ。
そして、事実としての重みがあるからこそ、そうした話を耳にすると、どうしても他の人に話たくなってしまう。

そこで、佐々木喜善の語る話を聞いた柳田が、『遠野物語』を出版するのは、そこに収められた物語の「真実性」に動かされてのこと、ということになる。

そして、三島由紀夫が「これこそ小説」と主張するのも、その真実性に他ならない。

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