
アルチュール・ランボー『地獄の季節(Une saison en enfer)』の中心に位置する「錯乱(Délires)」前半には、「愚かな乙女(Vierge folle)」と題された散文詩が置かれている。
そこでは、ポール・ヴェルレーヌの目を通して描かれたランボーの自画像が描かれる。
他者の目を通した自画像?
1871年9月、ランボーはポール・ヴェルレーヌの呼びかけに応じて、シャルルヴィルを離れパリに向かう。その時、ランボーは17歳になる直前、ヴェルレーヌは27歳だった。
ヴェルレーヌは結婚して1年しかたっていなかったがランボーに夢中になり、翌1872年の夏から2人は北フランスやベルギーを通り、9月からはロンドンで暮らし始める。
しかし、2人の生活は平穏なものではなく、ランボーは何度かヴェルレーヌと別れようとして、フランスに戻ることもあった。それは、ランボーがヴェルレーヌに書き送った手紙の表現を借りれば、「喧嘩にあけくれ荒れた生活」だった。
その結末は1873年7月に訪れる。ブリュッセルで別れ話をする中で、ヴェルレーヌがランボーをピストルで撃ち、怪我をさせるという事件が起こる。その結果、ヴェルレーヌは約2年間、監獄に収監さることになる。

こうした経過を簡単に辿るだけで、2人の関係の中で、ランボーが男役、ヴェルレーヌが女役だったらしいことが推測できる。
「愚かな乙女」に目を移すと、最初に、地獄の夫(l’époux infernal)が、「地獄の道連れ(un compagnon d’enfer)の告白(la confession)を聞こう。」と話を始める。
次の、その内容が、彼の道連れである愚かな乙女(vierge folle)の打ち明け話(une confidence)として語られる。
夫はランボー、乙女はヴェルレーヌを思わせる。
その告白の中で、愚かな乙女が地獄の夫のことを延々と語り、言葉によって夫の肖像を描くとしたら、それは、ランボーがヴェルレーヌの視線を通して自分の肖像を描いていることになる。
その自画像でとても興味深いのは、ランボーの自己意識を知ることができると同時に、ヴェルレーヌに対する意識も知ることができることである。
ランボーにとって、ヴェルレールは何だったのか?
そのヴェルレーヌにどのように見られていると思っていたのか?
こうした他者意識と、他者を通して見る自己意識という仕組みは、実は、私たちが自分について考える時の仕組みかもしれない。
そのように考えると、「愚かな乙女」がますます興味深い散文詩に思えてくる。