
『悪の華(Les Fleurs du mal)』の中に収録された猫を歌った3つの詩の中で、「猫たち(Les Chats)」だけが複数形の題名になっている。
その理由を考えることは、この詩の原理を理解することにつながる。
この詩は、1847年に、『猫のトロ(Le Chat Trott)』というシャンフルリーの小説の中で引用された。
その作品の中で、ボードレールは、とても猫好きな男として描かれている。道にいる猫を手に取ったり、猫が店番している店の中に入っていったり、猫を撫でたり、じっと見つめたりする。
この詩「猫たち」をシャンフルリーがトロに聞かせると、トロは飼い主の女性のところを離れ、ボードレールの膝の上に飛び乗り、詩人を褒めた。そんなエピソードが綴られている。
猫のトロを喜ばせる詩とは、どんな詩だろう。
Les chats
Les amoureux fervents // et les savants austères
Aiment également, // dans leur mûre saison,
Les chats puissants et doux, // orgueil de la maison,
Qui comme eux sont frileux // et comme eux sédentaires.
熱烈な恋人たちと厳格な学者たちが、
成熟した季節の中で、共に愛するのは、
力強く、穏やかな猫たち。家の誇りだ。
彼等と同じように、寒がり。彼等と同じように、いつも家にいる。
この四行詩は、二つの対立する要素によって特徴付けられている。
恋人(amoureux)と賢者(savant)。
その二者が表すのは、感情と理性の対比。形容詞の熱烈な(fervant)と厳格な(austère)が、その対照を強調する。
猫は、力強い(puissant)性質と穏やかな(doux)性質を合わせ持つ。
猫が家の誇りなのは、その二重性による。
寒がり(frileux)で、いつも家にいる(sédentaire)性質は、猫だけではなく、恋人たちや学者たちにも共通する。
「雪やコンコン・・・犬は喜び庭駈け回り、猫はコタツで丸くなる。」は、フランスでも同じらしい。
学者は常に家の中で研究する人間。
恋人たちも、もっとも愛の高まる時期(熟した季節: leur mûre saison)には、二人だけで家の中にいるのを好むだろう。
こうした2元論的な詩の展開は、12音節で構成される詩行が、6/6で規則正しく区切れ、整然と対比される詩句のリズムによっても表現されている。
音色では、[ a ]と[ en / an ]の音が全体の基礎的な色づけとなっている。
[ a ]は、Chatの中心の母音。その音が、amoureux, savantに含まれ、反復される。
鼻母音[ en / an ]は、fervents、savants と、対照をなす単語の中で響き合う。また、猫を形容する puissantsとも反響し、この詩句の最後に置かれたsédentairesまで続く。
こうした音の配列は、詩句の音色を決定するだけではなく、意味的にも興味深い。
二元論的に対立する要素が、実際には溶け合い響き合うことが、音によって示されているのである。
Amis de la science // et de la volupté,
Ils cherchent le silence // et l’horreur des ténèbres ;
L’Erèbe les eût pris // pour ses coursiers funèbres,
S’ils pouvaient au servage // incliner leur fierté.
科学と官能の友である
猫たちが探すのは、沈黙と闇に対する嫌悪。
地獄は猫たちを不吉な乗り物にしただろう、
もし猫たちが、彼等の誇りを従属へと向かわせることができるなら。
2番目の四行詩でも、二元論的対比は続く。(6/6のリズム)
科学(science)と官能(volupté)は、学者(savant)と恋人(amoueux)と対応する。
ただし、順番が逆転している。こうした語順は、修辞学では、キアスム(chiasme : 交差配列法)と呼ばれる。
もう一つのキアスムは、愛する主体と愛される対象の交代。
第1四行詩だと、主体は人間であり、対象は猫。
ここではそれが逆転し、猫が科学と官能を愛する主体となる。
その猫たちは、静かにしていること(le silence)を好み、闇を嫌う(l’horreur des ténèbres)。
いつもは日向で日光浴をしながら、のんびりとしている。
こうした特色は、猫の昼の側面であり、その意味では、寒がり(frileux)で、いつも家の中にいる(sédentaire)性質の発展として描かれている。

しかし、その一方で、闇の側面もある。
それを暗示するかのように、ボードレールは、地獄・エレボス(Erèbe)という言葉を突然取り上げる。
エレボスErèbeとは、ギリシア神話の中で、原初のカオスから生まれた地獄の神。冥界の闇の部分を指すこともある。
猫たちはプライドが高く(fierté)、地獄の王にさえ従属すること(servage)はないだろうと、詩人は感じている。
Ils prennent en songeant les nobles attitudes
Des grands sphinx allongés au fond des solitudes,
Qui semblent s’endormir dans un rêve sans fin ;
Leurs reins féconds sont pleins d’étincelles magiques,
Et des parcelles d’or, ainsi qu’un sable fin,
Etoilent vaguement leurs prunelles mystiques.
猫たちが、夢を見ている時の高貴な姿は、
孤独な砂漠の底に横たわる偉大なスフィンクスの態度。
終わりのない夢の中で、眠っているように見える。
彼等の肥沃な腰には、魔法の煌めきが満ちる。
そして、黄金の欠片が、細かい砂のように、
彼等の神秘的な瞳をぼんやりときらめかせている。
第2四行詩の最後に暗示された闇の側面が、2つの三行詩で全面的に展開される。

猫たちがうとうと眠り、夢を見ている(en songeant)ように見える時、彼等の姿は、ボードレールの目には、砂漠のスフィンクスのように映る。
謎めいていて、夢(rêve)の世界には終わりがない(sans fin)、つまり無限(infini)を思わせる世界にいる。
孤独の底(Au fond des solitudes)の孤独とは、砂漠を意味すると考えてもいいだろう。

猫の腰(reins)が肥沃(féconds)なのは、昼と夜、現実と夢、理性と感情、科学と官能性等が単に対立しているだけではなく、一つの物として統合されているところから来ている。
対立するものの一致(coincidentia oppositorum)は、理性的な理解を超えるものであり、魔術的。
そこで、猫の腰の煌めき(étincelles)も、魔法的(magiques)だと形容される。
ボードレールは、現実的でもあり、超自然的(surnaturel)でもある猫たちの存在を、最後に彼等の瞳によって特徴づける。
猫たちの瞳がキラキラと輝いているのは自然な姿。
その黄金の輝きは、しかし、現実を超えた何かを感じさせる。
その輝きは、白日の下に全てをさらすのではなく、朧気に(vaguement)瞳(prunelles)を星のように輝かせる(étoiler)。
そのために、神秘的な(mystique)何かを感じさせるように、ボードレールには思われる。

このように「猫たち」を詩句の順に読みんでみる(lecture linéaire)と、なぜ題名が複数なのかわかってくる。
それは決して何匹かの猫を歌っているためではなく、猫の中にある対立的な要素を暗示するためだ。
ボードレールは、それらの対立を明示しながら、秘められた一致を常に指し示す。
そうした神秘的な雰囲気は、いつもそこにいながら、いつの間にか姿を隠し、なついているようで、何を考えているのか分からない、誰もが知る猫のあり方と対応している。
シャンフルリーの猫トロがこの詩を褒めたという逸話が、「猫たち」の魅力を見事に語っている。