ドゥニ・ディドロ 盲人に関する書簡 Denis Diderot Lettres sur les aveugles à l’usage de ceux qui voient 唯物論的世界観

Van loo, Denis Diderot

18世紀の思想を代表する『百科全書』の編集において中心的な役割を果たしたドゥニ・ディドロ(1713−1784)は、物質主義的で科学主義的精神が、伝統的な権威に基づく絶対的な価値観を覆し、個としての人間の自由に価値を置く思考へと続くことを示した。

ディドロは唯物論者と言われる。
唯物論とは、世界の全ての現象を物質的な要素が相互に関連によって解明できるとする思想であり、精神現象の根底にも物質があり、物質が精神に先立つと考える立場。
一つの例を挙げれば、肉体(物質)に依存する五感が、知覚だけではなく、知識、感情、道徳観等の根底にあり、全てを決定するものと見なす。

1749年に出版された『盲人に関する書簡、目の見える人々用(Lettres sur les aveugles à l’usage de ceux qui voient)』では、唯物論的な視点に立ち、視覚を持たない人間の世界観が、視覚を備えた人間の世界観とは違うことが、書簡の形で示されている。
その中で、ディドロは、感覚が精神性に先立ち、感覚の違いにより道徳観も世界観も違うことを具体的に示した。

ディドロは、視力を持たない人間に質問をし、その回答から様々な考察を導き出した。それをピュイジユー夫人に宛てた書簡の中で語っていく。

視覚の有無で道徳がどのように違うのか述べる前に、まず前提となる事項が示される。

 Comme je n’ai jamais douté que l’état de nos organes et de nos sens n’ait beaucoup d’influence sur notre métaphysique et sur notre morale, et que nos idées les plus purement intellectuelles, si je puis parler ainsi, ne tiennent de fort près à la conformation de notre corps, je me mis à questionner notre aveugle sur les vices et sur les vertus.

 私が決した疑わなかったことがあります。私たちの身体組織や感覚の状態は、私たちの形而上学や道徳に大きな影響を持っています。また、最も純粋に知的な思想は、もしこう言ってよければ、肉体の構造と非常に近い関係にあります。そこで、私は、盲人に、悪徳と美徳に関する質問をすることにしました。

まずディドロが確認するのは、肉体という物質的な要素に依存する感覚が、物質を超えた観念(形而上学)や道徳感と関係しているということ。

その関係を探るために、彼は視覚を持たない人間の道徳が、視覚を持つ人間の道徳とどのように違うのか、考察していく。
最初は、盗みついて。

Je m’aperçus d’abord qu’il avait une aversion prodigieuse pour le vol ; elle naissait en lui de deux causes : de la facilité qu’on avait de le voler sans qu’il s’en aperçût ; et plus encore, peut-être, de celle qu’on avait de l’apercevoir quand il volait. Ce n’est pas qu’il ne sache très bien se mettre en garde contre le sens qu’il nous connaît de plus qu’à lui et qu’il ignore la manière de bien cacher un vol.

私が最初に気づいたことがあります。その盲人は、盗みを大変に嫌っていました。その嫌悪感は、二つの原因から生まれてきたものです。原因の一つは、彼が気づかないうちに、人が彼からものを盗むのは容易であることにあります。さらに大きな原因となるのは、彼が何かを盗んだら、人に容易に気づかれてしまうことでした。彼は、私たちに密着しているとわかっている感覚(視覚)に対して、用心することを知らないわけではありません。また、盗みを隠す方法を知らないわけでもありません。

ディドロが質問した盲人は、盗みを嫌悪している。その理由は、二つとも目が見えないことに関わっている。
盗まれた時は、それが見えない。自分が盗む時には、見られてしまう。つまり、盗みの主体になった時も、対象になった時も、視覚の欠如のために不利な立場にある。
そのために、盗みが嫌いなのだという。

次は、羞恥心を表現する行動の違いについて。

Il ne fait pas grand cas de la pudeur : sans les injures de l’air, dont les vêtements le garantissent, il n’en comprendrait guère l’usage ; et il avoue franchement qu’il ne devine pas pourquoi l’on couvre plutôt une partie du corps qu’une autre […]. Quoique nous soyons dans un siècle où l’esprit philosophique nous a débarrassés d’un grand nombre de préjugés, je ne crois pas que nous en venions jamais jusqu’à méconnaître les prérogatives de la pudeur aussi parfaitement que mon aveugle. Diogène n’aurait point été pour lui un philosophe. 

彼は、恥じらいの感情を重視していません。天候が悪くなると服が彼を守ってくれますが、天気が悪くなければ、羞恥心の使い方がわかわからないようです。率直に話してくれたところによると、なぜ服で覆うのが体のある部分であり、別の部分でないのか、彼にはわからないということです。(中略)私たちは哲学精神のおかげで数多くの偏見が取り除かれた時代に生きています。しかし、私が質問した盲人と同じ程度まで、羞恥心の特性を完全に見誤るところにまで来ているようには思えません。ディオゲネスさえ、彼にとって、哲学者ではなかったでしょう。

盲人にとって、服は寒いときには体を保護してくれる役割を果たす。それは、羞恥心とは何の関係もない。
それに対して、目の見える人にとって、体の一部を隠すことは、体の保護以上に、羞恥心と関係している。暑い寒いにかかわらず、隠すべきところと隠さなくていいところは決まっている。
盲人には、服は隠す隠さないの問題ではない。従って、羞恥心とも関係しない。

François Boucher, Vénus et Amour

一般的に、私たちは何も考えず、服を着るときに、どこを隠し、どこを隠さないか、決めている。その選択に自由があるとは思っていない。
もし隠すべきと思われている部分を晒したら、自然に羞恥心が湧く。

そうした状況に対して、盲人の例を挙げることで、ディドロは、羞恥心という精神的な問題も、実は視覚という感覚に依存していることを明らかにしている。
この挿話は、心が肉体に先行しているのではなく、身体が精神を条件付けるという、ディドロの唯心論の正当性を証明しているのである。

次は、哀れみの感情に関して。

 Comme de toutes les démonstrations extérieures qui réveillent en nous la commisération et les idées de la douleur, les aveugles ne sont affectés que par la plainte, je les soupçonne, en général, d’inhumanité. Quelle différence y a-t-il pour un aveugle, entre un homme qui urine et un homme qui, sans se plaindre, verse son sang ? Nous-mêmes, ne cessons-nous pas de compatir lorsque la distance ou la petitesse des objets produit le même effet sur nous que la privation de la vue sur les aveugles ? tant nos vertus dépendent de notre manière de sentir et du degré auquel les choses extérieures nous affectent ! Aussi je ne doute point que, sans la crainte du châtiment, bien des gens n’eussent moins de peine à tuer un homme à une distance où ils ne le verraient gros que comme une hirondelle, qu’à égorger un bœuf de leurs mains. Si nous avons de la compassion pour un cheval qui souffre, et si nous écrasons une fourmi sans aucun scrupule, n’est-ce pas le même principe qui nous détermine ?

 私たちの内部に同情や苦痛の観念を目覚めさせる外的なあらゆる表現といったものに関して、盲人達が心を動かすとしたら、それはうめき声によってです。私は彼等のことを、一般的に言って、非人間的ではないかと疑っています。目の見えない人にとって、排尿する人間と、うめき声を出さずに血を流す人間の間に、どんな違いがあるというのでしょう? 私たち自身に関しても、目に入る物が遠くにあったり、小さかったりした時に私たちに及ぼす効果と、視覚が奪われていることが盲人に及ぼす効果が同じだとしたら、(血を流す人に)同情を抱き続けるでしょうか? それほど、私たちの美徳は、感じ方や、外的な物体が私たちに作用する程度に依存しているのです! だからこそ、次のことを疑いはしません。罰を受ける恐れがなければ、多くの人々にとって、燕と同じ位の大きさに見える距離にいる1人の人間を殺す時に感じる苦痛は、自分の手で牛を殺すのと同程度でしょう。苦しんでいる一頭の馬に哀れみを持ち、何のためらいもなく一匹の蟻を踏み潰すとしたら、同じ原則が私たちの行動を決定しているのではないでしょうか? 

ディドロは、人間に自然に備わっていると考えられている感情が、実は視覚によって条件付けられていることを、盲人の例を通して証明する。

見えなければ、排尿する人と血を流す人の違いはわからない。従って、尿をする人を見ないようにし、地を流す人に同情するという、異なった行動をすることはない。

物の大小が感情に及ぼす影響は、誰にも納得がいくだろう。
蟻や蚊をつぶすことはできても、もっと大きな動物を殺すことには抵抗を感じる。

視覚が捉える外的な世界が、人間の内面の感情を左右する。そのことが、ここでも明確に示されている。

以上の考察から導き出される結果を、ディドロは、話相手の夫人にこう告げる。

Ah, madame ! que la morale des aveugles est différente de la nôtre ! que celle d’un sourd différerait encore de celle d’un aveugle, et qu’un être qui aurait un sens de plus que nous trouverait notre morale imparfaite, pour ne rien dire de pis !

ああ、奥様、盲人たちの道徳は、私たちの道徳とどれほど違っていることでしょう! 耳の聞こえない人の道徳が目の見えない人の道徳とどれほど違っていることでしょう! 感覚をもう一つ多く持っている人がいるとしたら、私たちの道徳を、ひどく悪い言葉で言わないとしても、どれほど不完全だと思うことでしょう!

視覚の有無、聴覚の有無で、感情や道徳も違ってくる。
もし五感以外にもう一つ別の感覚を持っている人がいるとしたら、五感しか持たない私たちの道徳を不完全だと思うかもしれない。

そうしたことは、感覚を通して得た情報に基づいて、感情や道徳感が形作られることを示している。
精神現象の根底に物質があり、物質が精神に先立つという思想が、このようにして論証されていく。

外的な物質世界が内的な感情や道徳のあり方を決定するという考え方は、信仰の問題にまでつながる。

 Notre métaphysique ne s’accorde pas mieux avec la leur. Combien de principes pour eux qui ne sont que des absurdités pour nous, et réciproquement !

私たちの形而上学は、盲人たちの形而上学とそれほど一致しているわけではありません。彼等にとって原則であるものが、私たちにとって馬鹿げたものだということが、どれほど多くあることでしょう。そして、その逆のことも!

形而上学とは、感覚や経験という外的世界を超え、世界の普遍的な原理を探る学問。
ディドロは、哲学的な思考に関しても、感覚の違いによって、違いがあるという。その際に、「馬鹿げたもの(absurdité)」という言葉を使い、真理の相対性を際立たせる。

そうした前提に立ち、奇跡の問題に入っていく。
奇跡は、キリスト教の信仰に直接関係する微妙な問題である。

Je pourrais entrer là-dessus dans un détail qui vous amuserait sans doute, mais que de certaines gens, qui voient du crime à tout, ne manqueraient pas d’accuser d’irréligion, comme s’il dépendait de moi de faire apercevoir aux aveugles les choses autrement qu’ils ne les aperçoivent. Je me contenterai d’observer une chose dont je crois qu’il faut que tout le monde convienne : c’est que ce grand raisonnement, qu’on tire des merveilles de la nature, est bien faible pour des aveugles. La facilité que nous avons de créer, pour ainsi dire, de nouveaux objets par le moyen d’une petite glace, est quelque chose de plus incompréhensible pour eux que des astres qu’ils ont été condamnés à ne voir jamais. Ce globe lumineux qui s’avance d’orient en occident les étonne moins qu’un petit feu qu’ils ont la commodité d’augmenter ou de diminuer : comme ils voient la matière d’une manière beaucoup plus abstraite que nous, ils sont moins éloignés de croire qu’elle pense. 

これから、一つの事柄に触れていこうと思います。そのことは、あなたをたぶん面白がらせるでしょう。しかし、どんなことにも罪を見つけるある種の人々は、必ず、信仰に反すると非難することでしょう。あたかも、彼等が見えるのとは違った見方で、私が盲人たちに見させているように思うからです。ここでは一つの事柄をお話しするだけにします。そのことであれば、みんなが認めていることだと思います。つまり、自然の素晴らしい奇跡から引き出す素晴らしい推論は、盲人たちにとっては、あまり根拠がない、ということです。私たちは、小さな鏡を使い、新しい物を作り出すことを簡単にします。そうした容易さが盲人たちに理解不可能なことであるのは、彼等が決して見ることができない惑星と同じくらいのものです。東から西へと進む輝かしい天球に彼等が驚く度合いは、簡単に強めたり弱めたりすることができる小さな灯よりも少ないものです。彼等は、私たちよりもずっと抽象的に物質を理解するので、物質が思考すると考えるところから遠くにはいません。

キリスト教が支配的な18世紀にあって、ディドロは「無神論(athéisme)」の立場を貫き、『盲人書簡』のために投獄されることになる。

ここでも、どんな事でもすぐに断罪する人々は、「反宗教(irreligion)」という非難をすると言う。これは、明らかにキリスト教に対する批判である。

そして、キリスト教が信仰の道具として利用する奇跡に関して、自然の奇跡(merveilles de la nature)の例を挙げ、目の見えない人間には見えないのだから、「素晴らしい推論(ce grand raisonnement)」をしても説得力がないと主張する。

さらに、大自然の偉大な太陽と身近な灯りを比較し、盲人にとっては、見えない太陽よりも、温かさを感じさせてくれる炎の方が驚くものだと、アイロニーを込めた論を展開する。

最後に、物質(matière)が思考する(penser)ことを盲人は信じているというのは、ディドロ自身の唯物論の表現だろう。

これまで見てきたように、盗み、服と羞恥心、視覚と哀れの感情、宗教について、具体的な例を提示しながら論じた後、盲人が少しの間だけ視力を回復した時の状態を仮定して、社会と個人の関係の考察が続けられる。

 Si un homme qui n’a vu que pendant un jour ou deux se trouvait confondu chez un peuple d’aveugles, il faudrait qu’il prît le parti de se taire, ou celui de passer pour un fou. Il leur annoncerait tous les jours quelque nouveau mystère, qui n’en serait un que pour eux, et que les esprits-forts se sauraient bon gré de ne pas croire. Les défenseurs de la religion ne pourraient-ils pas tirer un grand parti d’une incrédulité si opiniâtre, si juste même, à certains égards, et cependant si peu fondée ? Si vous vous prêtez pour un instant à cette supposition, elle vous rappellera, sous des traits empruntés, l’histoire et les persécutions de ceux qui ont eu le malheur de rencontrer la vérité dans des siècles de ténèbres, et l’imprudence de la déceler à leurs aveugles contemporains, entre lesquels ils n’ont point eu d’ennemis plus cruels que ceux qui, par leur état et leur éducation, semblaient devoir être les moins éloignés de leurs sentiments.

一日か二日の間だけ視力を回復した1人の人間が、盲人達の中に混ざり込んだとしたら、何も言わないでいるか、狂人と思われるか、どちらかの決心をしなければならないでしょう。彼は、毎日、新しい神秘を告げるでしょうが、それが神秘なのは盲人に対してだけであり、無信仰者であれば信じようとはしないでしょう。宗教を守ろうとする人々は、(新しい神秘に関する)疑い深さを利用できないでしょうか? その疑い深さは、大変に執拗で、ある点に関しては正しくさえあり、しかしほとんど根拠のないものなのです。もしあなたが少しの間、(視力を回復した人の)推測に耳を貸すのであれば、借り物の様相の下ですが、暗黒の世紀に不幸にして真理に出会った人々の話と、数々の迫害を思い出すことになるでしょう。彼等は、同時代の盲人たちに向かい、真実を明かすという不注意なことをしてしまったのです。盲人達の中で、彼等が持った酷く残忍な敵は、身分や教育によって、彼等の感情とはそれほど離れていないはずの人々でした。

この一節に至り、盲人という言葉が、視力のない人を指すのではなく、権威を盲信する人々を指すことになる。
それに対して、しばらくの間視力を取り戻した人とは、例えば天動説が信じられていた時代に地動説を唱えたガリレオのような人を指している。

では、盲信する人々に満ちた社会の中で、新しい事象を見た人はどのように受け入れられるのだろう。

天体が地球の回りを回ると信じている人々にとって、地球が太陽の回りを回るというのは、新たな神秘(nouveau mystère)だと見なされる。
しかし、天動説を信じていない無信仰者(esprit-fort)には、神秘でもないんでもない。

信仰を守る人々は、視力を取り戻した人間の言葉を信じようとはしない人々の疑いの気持ちを利用し、信仰を続けさせることができる。
その上、真実を語る人々を迫害する。ガリレオが断罪されたように。

実は、迫害者たちは、無知な人間たちよりも身分が高く、教育もあり、迫害される側の人と近い状態にいるのだと、ディドロは言う。
だからこそ、彼等はますます恐ろしい敵となり、迫害を続けるのだ。

ディドロは、『盲人書簡』を書きながら、自分が反宗教という理由で捉えられ、投獄されることを予想していたのだろうか。

Jean-Honoré Fragonard, Denis Diderot

ディドロの唯物論的な世界観は、こうして、感覚によって捉えられる外的な世界像に基づき、無信仰にまで行き着く。

それと同時に、「相対主義」的な世界観を生み出すことにもなった。

目が見えるか見えないかで、行動も、羞恥心といった感情も、道徳も、形而上学も、宗教観も違っている。
四つの感覚が捉える世界像と、五つの感覚が捉える世界像、そして六つの感覚があるとすれば、それらが捉える世界像は、それぞれ別のものになる。
そのことから、一つの絶対的な世界観があるのではなく、視点により、物事は違って見えることがわかってくる。

モンテーニュは16世紀後半に、新大陸の野生人とヨーロッパの文明人を対照させ、どちらにもそれぞれの価値があるという、相対的な思想を提示した。
18世紀の思想家ディドロは、同様の相対主義的思考を、感覚論に基づきながら具体的に展開したと考えてもいい。

絶対主義から相対主義への転換は、19世紀になると決定的なものとなる。
その意味でも、ディドロの思想の重要性を無視することはできない。


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