第3章
ここで私にとって始まったのが、現実生活への夢の流入と呼ぶことになるものだった。この時から、全てが時として二重の様相を帯びるようになった。—— そうした時でも、決して論理性が欠如することはなかったし、身に起こったごく小さなことまで記憶を失うことはなかった。私の行動はばかげているように見えたのだが、人間の理性からすると幻影と呼ばれるものに従っていただけだった。・・・
何度も考えたことがある。生の重大な時期に、外の世界の精霊が突然普通の人間の姿に化身し、私たちに働きかけたか、働きかけようとした。しかし、その人もそれを知らないか、あるいは覚えていないのだ。
注:
ネルヴァルはここで出来事の流れを止め、そこで起こっていることをどのように理解すればいいのか、解説を挿入する。
理性的に見ると意味不明に見える幻影や妄想は、別の視点からすると論理性があり、『オーレリア』の冒頭の言葉を使えば「第二の生」。
20世紀であれば「無意識」という用語を使うかもしれない意識下の世界に関して、ネルヴァルは「外の世界」という言葉を使い、そこでの「自己」の姿を「精霊」と呼ぶ。
「現実生活への夢の流入」とは、意識に意識化されないものが混入することであり、そうした状態は、「夢想」であったり、「幻覚」や「妄想」に近づくこともある。
友だちは私と別れていた。いくら努力しても無駄で、私がある固定観念に捉えられているに違いないので、歩いているうちに落ち着くだろうと考えたのだった。私は一人になるとやっとのことで立ち上がり、星の方向に向かい再び歩き始めた。その星をずっと見すえていた。歩きながら、神秘的な賛歌を歌った。なにか別の生の中で聞いたことがあり、覚えていたもので、私を言葉にできないような喜びで満たしてくれた。歌を歌いながら、地上の服を脱ぎ捨て、あたりに投げ捨てた。道が上昇し続け、星が大きくなるように思われた。腕を広げ、あの瞬間を待った。魂が磁力によって星の光の中に引き寄せられ、肉体から離れるあの瞬間。その時、私は震えるのを感じた。地上と愛しい人々を懐かしむ気持ちが、私の心を捉えた。私を引き寄せる「精霊」に熱心に懇願し、私は人間たちの中に再び下りてきたように思った。夜回りの一団に取り囲まれていた。—— その時、自分の身体が巨大になり、電気的な力に満ち、近づくもの全てをひっくり返すことができると考えた。手加減して、私を収容した警官たちの命に危害を加えないようという私の配慮には、何か滑稽なものがあった。
作家の仕事とは人生の重大な状況において感じることを誠実に分析することだと考えないとしたら、そして、有益だと思われる目的を意図してないのであれば、私はここで筆をおくだろうし、馬鹿げているとか、俗に病的といわれるような一連の幻覚の中で感じたことを記述しようとはしないだろう。簡易ベッドの上に横たわっていると、空がヴェールを脱ぎ、数多くの前代未聞の壮麗な様相となって開いていくのが見えるように思われた。解放された「魂」の運命が啓示され、私が全精力を使い、離れつつあった地上に再び降りようと望んだことを後悔させるようだった。・・・巨大な輪が無限の中に描き出され、水の中に一つの身体が落ちる時にできる波紋のようだった。光輝く姿で満たされたそれぞれの部分が、代わる代わる、色を帯び、うごめき、溶け合っていた。そして、一人の女神、常に同じ女神が、様々に姿を変容させる度にまとう移ろいやすい仮面を、微笑みながら投げ捨て、最後には、アジアの空の神秘的な輝きの中に、捉えられることなく逃げ去っていった。
注:
夜中にパリの町を歩きながら服を過ぎ捨て、警官に捕まり、交番に連れて行かれる。ネルヴァルが本当にそんなことをしたのかどうかはわからない。しかし、それに類したことが実際に起こったらしいことは、そのすぐ後に発行された新聞の記事(3月1日の『ジュルナル・デ・デバ』)に記されていることから、推測することができる。
ネルヴァルはその記事を前提として、その出来事に彼なりの解釈を与える。つまり、歩く目的は愛する人のいる星に向かうことであり、磁気の力によって彼の身体は上空に浮き上がった。
その説明は非科学的で馬鹿げているように思われるかもしれないが、19世紀前半には、「動物磁気」などの理論が、「電気」と同様に科学の対象であったことを考えると、物理的ではない現実、精神的な現実を探る試みの中では、それなりに信憑性を持ち得たことだった。
ベッドに横たわりながら、上空に開ける壮麗な映像は、アジアとの関係から、曼荼羅のような図を連想してもいいのではないか。
精神の世界を探求することが、美の創造に繋がる一つの例だといえる。



この崇高な幻影は、誰もが夢の中で感じる現象の一つを通して、私が回りで起こることと無関係のままではおかなかった。簡易ベッドの上に横たわっていると、警官たちが、私と同じように補導されていた見知らぬ男について話している声が聞こえてきた。男の声が同じ部屋の中で響き、その振動の奇妙な効果によって、私の胸の中で共鳴し、私の魂が二重化したように思われた。—— 幻影と現実の間ではっきりと分離している状態。私は一瞬、問題の男の方に何とか振り向くこうと考えた。だが、ドイツでよく知られている言い伝えを思い出し、身震いした。それによれば、どの人間にも分身がいて、分身を見る時は死が近い。—— 目を閉じると、私は混乱した精神状態に陥った。まわりを取り囲む幻想的な像や現実的な像が、数多くの移ろいやすい姿に粉々に砕けた。一瞬、近くに二人の友だちの姿が、私を引き取りに来るのが見え、警官が私を指さした。扉が開き、私と同じ背丈で、私からは顔の見えない男が友人と一緒に出ていった。彼らを呼んでも無駄だった。—— 「ちがう!」と私は叫んだ。「二人は私を捜しに来たんだ。なのに別の奴が出ていく!」あまりにも大きな声を出したので、私は独房に入れられてた。
私は数時間の間、茫然自失とした状態でいた。その後、すでに「見たと思った」二人の友人が、馬車で迎えに来てくれた。どんなことがあったのか話すと、彼らは夜に来たことを否定した。彼らと静かに食事をしていたのだが、夜が近づくにつれ、昨日の夜に運命の時となるところだったあの時間が近づいてくるのを恐れないといけないように思えた。友だちの一人に、指にしている東洋の指輪を貸してくれと頼んだ。古いお守りのように見えたのだ。ハンカチを取りだし、痛みを感じている首の一点にトルコ石の玉が当たるように注意深くひっくり返し、指輪を首の回りに巻いた。私の考えでは、その点は、私が昨日の夜見た星から発した光が、私との関係で天頂と一致する瞬間に、魂が肉体から離れる危険のあるところなのだ。偶然なのか、あまりにも心配しすぎたせいなのか、昨夜と同じ時間に、私は雷に打たれたようになった。ベッドに寝かされ、長い間、目に入ってくる映像の意味や繋がりを見失ってしまった。数日間そうした状態が続いた後、ある精神病院に運び込まれた。たくさんの親戚や友人が見舞いに来てくれたが、私はそれを知らなかった。私にとって、起きている時と眠っている時のただ一つの違いは、起きている時、全てが姿を変えたことだった。近づいて来る人はみんな違っていた。物には薄い影のようなものがあり、形が変わっていた。光の動きと色彩の組み合わせが分解し、お互いの間で結び付き合う一連の似通った印象の中に、私は留められているようだった。そして、外的な要素から解放された夢が、それらの印象の本当らしさを引き継いでいた。