第4章に至り、「私」は本格的に夢の世界(=第二の生)に入って行く。そこは死後の世界を連想させる。
その内容は、合理主義精神から見ると荒唐無稽で、意味不明だと見なされるかもしれない。しかし、日本でも、死後の世界を考える時、先祖の人々がみんなで住む村があり、死後の魂はそこで暮らすとする考え方がある。
それと同じように、肉体を離れた魂が死後の世界を訪ね、一族の一人から死や虚無、永遠などについて教えを授けられることは、一つの宗教思想の教義としても興味深い。
第4章

ある夜、私はライン河の畔に運ばれたことが確かだと思った。目の前に不吉な岩があり、そのシルエットが闇の中にぼんやりと描かれていた。私は楽しげな家の中に入っていった。夕日が葡萄で飾られた緑の窓から、楽しげに差し込んでいた。すでに知っている家に戻ったような気持ちがした。家の持ち主は母方の伯父で、100年以上前に亡くなったフランドル地方の画家だった。あちこちに素描された絵が掛かっていた。その中の1枚は、この岸辺の有名な妖精を描いたものだった。私がマルグリットと呼び、子どもの頃から知っている年老いた召使いがこう言った。「お休みにならないのですか? あなたは遠くからいらっしゃったのですし、おじさまのお帰りは遅くなります。夕食の時に起こしてさしあげます。」
私は、柱付きのベッドに横たわった。柱は大きな赤い花模様のあるペルシャ織りの布でおおわれていた。正面には田舎びた時計が壁にかかっていた。その上に一羽の鳥が乗っていて、人間のように話し始めた。鳥の中には祖先の魂が宿っている、と私は考えた。しかし、鳥の言葉や姿に驚かないように、一世紀時代を遡ったことにも驚きはしなかった。鳥が話したのは、生きている家族や様々な時代に死んだ親族についてだった。そのために、みんなが同時に存在しているようだった。鳥はこう言った。「分かっている思うが、おじさんは予め「彼女」の肖像画をわざわざ描いてくれたんだ・・・ 。今、「彼女」は私たちと一緒にいる。」1枚の絵の上に目をやると、そこにはドイツ風の古い服を着た女性が描かれていた。彼女は河の畔で身を屈め、忘れな草の房に眼差しを向けている。—— そうこうするうちに、徐々に夜が更けてきた。見える物、聞こえる音、場所にまつわる感情が、ウトウトする私の心の中で混ざり合っていた。私は地球を貫通する深淵の中に墜落したように思った。溶けた金属の流れに運ばれるようだったが、苦痛は感じなかった。数多くの類似した大河が流れ、色彩が化学的な組成の違いを示している。それらが大地の懐を畝を作りながら流れる様子は、脳内の襞の間を蛇行する動脈や静脈のようだった。全てが流れ、循環し、振動していた。それらの流れは、生きている魂が分子の状態になったものから構成されている、と私は感じた。ただし、動きが速すぎて、それぞれの分子を見分けることはできなかった。白っぽい光が少しづつ通路の中に射してきた。最後に、巨大な丸天井のような形をした新しい地平が広がるのが見えた。光の塊に囲まれた島が幾つか描き出された。私は太陽のない光で照らされた海岸にいた。一人の老人が土地を耕しているのが見えた。彼は先ほど鳥の声で話しかけてきたのと同じ人だと分かった。彼が私に話したのか、あるいは私が自分自身の中で彼の言うことを理解したのか、とにかく私にとって明らかになったことがある。祖先は動物の姿をして地上の私たちを訪れ、無言の観察者として、私たちの人生の様々な局面に立ち会うのだ。
注:
『オーレリア』の冒頭で、睡眠の入る瞬間は死をイメージさせるとされ、「第二の生」に入って行くと、真っ暗な中に光が射し、徐々に新しい世界が開け、あたかも劇場の舞台の上で劇が開始するといった説明がなされていた。
ここでも一つの夢から次の夢に移行する際には、通路の中に光が射し始め、次の空間が設定されるといった場面の変化が見られる。
その上で、いくら場所や人間が違っていても、それらを構成する要素は同一であり、一旦形体が分解し、次ぎに新しい形へと結合するという様子が、様々な形で描かれる。
ここでは、ライン河の畔にある家の場面から、「太陽のない光」で照らされた海岸の場面に移行する過程で、構成要素に戻った状態が、地中を流れる溶けた金属の流れとして提示されている。
私たちの見る夢の中で、場面の展開はどのように行われるのだろうか? 次ぎに夢を見る時、それを意識してみたらどうだろう。

老人は仕事をやめ、近くに立つ家までついてきてくれた。回りの風景はフランス側のフランドル地方の風景を思わせた。かつて両親がそこで過ごし、墓もあるところ。森の端にある木立に囲まれた畑、地下の湖、小川、洗濯場、村、坂道、暗い砂岩の丘、エニシダとヒースの房、—— 私がかつて愛した場所が若返ったようだった。ただし、私が入っていった家にはほとんど見覚えがなかった。理解できたことは、その家は私が知らないなんらかの時代に存在したものであること、そして、その時に訪れていた世界では、事物の亡霊が肉体の亡霊に付き従っている、ということだった。
たくさんの人が集まってる大きな広間に入っていくと、至るところに知っている人がいるのに気づいた。私がお葬式で涙を流した死んだ親戚の顔立ちが、別の人々の中に再現されていた。彼らは私が知っている親戚の服よりもさらに古い昔の服を着ているのだけれど、知っている人たちと同じように親しげに迎えてくれた。家族のお祝い事に集まっているようだった。一人が私のところにやってきて、優しく抱擁してくれた。色褪せた古い服を着ていた。微笑み、頭には髪粉をふりかけた顔は、どこかしら私に似ていた。その人は私にとって、他の人たちよりももっとはっきりと生きているように思われ、言うなれば、私の心とより気持ちがつながっているようだった。—— それは私の伯父さんだった。彼が私をそばに座らせると、二人の間に会話のようなものが成立した。というのも、彼の声が聞こえたと言うことはできず、ただ、私の考えがある一つの点の上に来ると、説明がたちどころにクリアーになったからだ。目の前のイメージが、動く絵画のようにはっきりと描かれた。
「だから、それは本当なんですね。」と私はとても嬉しそうに言った。「ぼくたちは不死であり、かつて住んでいた世界のイメージを、ここでも保っているのですね。ぼくたちが愛したもの全てが、いつでも身の回りにあるなんて、なんて幸福なことでしょう!・・・ぼくはもうひどく人生に疲れていたんです!」
「私たちのところに急いで来ようとしてはいけない。」と彼は言った。「なぜなら、お前はまだ上の世界に属していて、辛い試練の年月を過ごさなければならないからだ。お前がうっとりしているこの世界にも、苦しいことや戦いや危険がある。私たちが生きる地球は劇場であり、そこでは私たちの運命が組んだり、ほぐれたりしているのだ。私たちは、この世界を活気づける中心の炎の光線なのだが、中心の火はすでに衰えてしまった。・・・」
「なんですって!」と私。「地球も死ぬことがるんですか。ぼくたちが虚無に侵略されることがあるんですか?」
「虚無は」と彼が言った。「普通理解されるような意味では存在しない。しかし、地球はそれ自体で一つの物理的な肉体であり、精神の総体が魂なのだ。物質が精神よりも滅びやすいということはない。しかし、善悪に応じて変化することはある。私たちの過去と未来は連結している。私たちは一族の中に生き、一族は私たちの中に生きている。」
注:
ここで展開される会話は、ある組織における秘伝の伝達といってもいい。茶道や華道、武術などでも、お師匠さんから弟子へと教えが伝えられていく。ヨーロッパの伝統の中でも、様々な秘密結社で秘儀伝授の儀式が行われ、弟子は徐々に組織の段階を上がっていく。
ここで描かれる地底世界の中では、魂と肉体の関係、不死の秘密が「私」に明かされる。
その内容を馬鹿げたことと考えるか、興味深いと考えるかは、一人一人の読者の判断と、その後ろで働く感受性による。
その考えがすぐに実感できるようになった。広間の壁があらゆる方向に開いたかのようになり、男と女の切れ目のない鎖が見えてくるようだった。彼らの中に私がいて、彼らは私自身だった。全ての人の服やあらゆる国の映像が一度に現れた。私の注意力が倍増しながら混乱することがなかったのは、100年の活動を1分の夢の中に凝縮する時間の現象と同様のことが、空間の現象として起こったからだった。驚きがさらに大きくなったのは、その巨大な連なりが広間にいる人々だけによって構成され、彼らの姿が移ろい易い姿に分解したり、結合したりするのが見えた時だった。
「ぼくたちは7人なのですね。」と私は伯父に言った。
「実際に」と伯父。「それが人間の家族の典型的な数であり、7を7倍して拡張し、さらにそれ以上になっていくのだ。(原注)」
(原注:7はノアの家族の数字だった。しかし、7人の中の1人が彼らに先立つ古代の神々エロヒムの世代と神秘的な結び付きをしていた!・・・ /・・・想像力が、雷のように、インドの無数の神々を私の前に描き出した。それは原初的に凝縮された家族の姿のようだった。・・・ 私はこれ以上踏み込むのに戦慄を覚える。なぜなら、「三位一体」には今でも恐るべき神秘が宿っているからだ。・・・ 私たちは聖書の掟の下に生まれたのだ。)
私は、伯父のこの返事を理解してもらえると期待することはできない。私自身にとっても、ひどく曖昧なものだった。形而上学も、人間のこの7という数と普遍的な調和との関係からもたらされる認識について、説明できる言葉を提供してはくれなかった。自然の電気的な力に類似するものは、父と母との関係で考えることができる。しかし、父母から生まれる個人的な中心——— 彼らもそこから生まれてくるような中心を、どのように成立させたらいいのだろう? それは生命を持つ集合的な一つの「形」であり、その結合が複数でもあり、限定的でもあるようなものだ。しかしそうした問いは、花に向かい、花弁の数や花冠の別れ具合について・・・、 大地に向かい、それが描く地形について、太陽に向かい、それが作り出す色彩について、説明を求めるようなものだ。
注:
ネルヴァル自身、7という数字に関する伯父の言葉は意味がはっきりしないと言い、読者にも理解されることを期待できないと自覚している。従って、無理になんらかの解釈を無理に導き出すことはない。
18世紀後半から19世紀にかけての電気の発見は、目に見えないなんらかの力に対する考察を含み、人間の肉体(目に見えるもの)と心理(目に見えない力)との関係ともつながり、心理学あるいは形而上学とかかわることもあった。
また、宗教的な要素を含み、キリスト教との係わりも無視できず、古代の宗教とも関係していた。
従って、叔父の言葉は当時の人々が知的に論じた話題の一つであり、狂気に由来するものでないことは指摘しておきたい。