ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 4/5

第3部では、具体的に一人の女性に焦点が絞られ、公園にたたずむ彼女の姿と彼女を取り囲む世界が絵画のように描き出される。
その絵は、生命感に溢れ、日常でありながら英雄性を持ち、ボードレール的美を表現したものになっている。

(朗読は2分55秒から)

冒頭の一行は、すでに見てきたように、ヴィクトル・ユゴーの「亡霊たち」の詩句の「模倣」であり、
社会的な底辺に置かれた者たちへの「暖かい眼差し=哀れみの情(charité)」を思い起こさせる役割を果たしている。

さらに、それに続く « Une, entre aures (他の老婆たちの中でも、一人は)»も、ユゴーの「亡霊たち」第3部の冒頭« Une surtout. — Un ange, une jeune Espagnole ! — (とりわけ一人の娘ー一人の天使、若いスペインの娘!)»と響き合い、多くの女性たちの中から一人に焦点を当てる詩句の「模倣」だと見なしうる。

III

Ah ! que j’en ai suivi de ces petites vieilles !
Une, entre autres, à l’heure où le soleil tombant
Ensanglante le ciel de blessures vermeilles, 
Pensive, s’asseyait à l’écart sur un banc,

Pour entendre un de ces concerts, riches de cuivre, 
Dont les soldats parfois inondent nos jardins, 
Et qui, dans ces soirs d’or où l’on se sent revivre, 
Versent quelque héroïsme au cœur des citadins.

III

ああ、私は、何と多くの小さな老婆たちの後を追ったことか!
その中の一人は、沈もうとする太陽が、
空を、深紅の傷で血まみれにする時刻になると、
考え深げな様子で、一人離れてベンチに腰掛け、

楽隊の演奏の一つを聞いていた。ラッパの音が豊かに響き、
兵士たちが、時に、公園中に響き渡らせる軍楽。
そしてそれが、黄金の夕べ、人々が生き返ったように感じる時、
英雄的な気持ちを、街に住む人々の心の中に注ぎ込む。

老婆を包む夕闇は、二つの様相を与えられる。
最初、夕日の赤は血の色と見なされ、「空(ciel)」全体が「深紅の傷(blessures vermeilles)」によって、「血まみれ(Ensanglante)」にされる。
しかし、第2詩節では、血まみれの空が「黄金の夕べ(soirs d’or)」に変わり、その時、人々は「生き返った(revivre)」かのように感じる。

血を黄金に変えるその錬金術を可能にするのが、兵士たちの演奏する音楽。「ラッパ(cuivre)」の音が豊かに響く。
その軍楽が公園を「満たし(inonder)」、そして、「街に住む人々(citadins)」の心に「英雄性( héroïsme)」を注ぎ込む。

ボードレールの美学では、「英雄性」は、軍隊の勇ましさという意味ではなく、日常の光景を永遠の美へと変化させるエネルギーを意味する。

絵画論であり美学書でもある「1846年のサロン」の最終章は、「現代生活の英雄性について(De l’héroïsme de la vie modernre)」と題され、英雄性の概念が次のように説明されていた。

偉大な伝統が何だったかといえば、古代の生活の、習慣化され、ありふれた理想化だといえる。戦闘の逞しい生活。個人が自らを守る状態で、真剣に活動し、堂々としていたり、激しい態度を取ったりした。(中略)
あらゆる美は、潜在的な全ての現象と同じように、永遠なものと束の間のもの、— 絶対的なものと固有なもの、を内蔵している。(中略)それぞれの美の固有な要素は、熱情(パッション)に由来する。私たちは固有の熱情を持っているために、私たちの美を有している。

古代においては、生活そのものが英雄的であり、それを再現することで英雄的な美が作り出された。
現代生活では、生活は英雄的ではなく、全ては儚く、束の間なもの。その個別的で、奇妙で、醜く、人を驚かせるものを、情熱(パッション)によって英雄的なものにする。そこに、束の間と永遠性を合わせ持つ現代的な美が生まれる。
それが、ボードレールがモデルニテと呼ぶ美学に他ならない。

そうした美学に従い、ボードレールは、軍楽に満たされた公園の「ベンチ(un banc)」に座り、「人々から離れて( à l’écart )」、一人たたずむ老婆の姿をくっきりと浮かび上がらせる。

彼女は、もはや、第1部第2詩節で描かれた、「 折れ曲がり、せむしで、ねじ曲がった怪物(Monstres brisés, bossus / Ou tordus)」には見えない。
その姿とは全く違う姿が、第3詩節に出現する。

Celle-là, droite encor, fière et sentant la règle, 
Humait avidement ce chant vif et guerrier ;
Son œil parfois s’ouvrait comme l’œil d’un vieil aigle ;
Son front de marbre avait l’air fait pour le laurier !

彼女は、未だに背筋が伸び、誇り高く、定規のようにピンとして、
貪欲に吸い込んでいた、あの活気ある軍楽を。
その目は、時に、見開いていた、年老いた鷲の目のように。
大理石の額は、月桂樹の王冠に相応しく作られたかのようだった!

最初の行では、真っ直ぐに伸び、堂々としているという体の状態が示される。
その老婆が、「活気ある軍楽(chant vif et guerrier)」を吸い込むことで英雄性を増す。

目は「鷲の目(l’œil d’un vieil aigle)」を思わせる。

そして、「額(front)」は、「大理石(marbre)」になり、「月桂樹の王冠( laurier)」を被るのに相応しいとされる。
その様子は、女神の顕現と言ってもいい。

小さく醜い老婆は、こうして女神になる。
しかし、彼女は決して老婆であることをやめたわけではなく、現実には老婆でありながら、同時に、英雄性を纏う女神でもあるのだ。

その変容を可能にするのは、第3部では英雄性を吹き込む軍人の音楽であるが、その根本には老婆たちに対する愛の心があり、「彼女たちを愛そう(aimons-les)」というボードレールの詩句が「小さな老婆たち」全体を貫いている。


愛が美を作り出すという考え方は、言ってみれば、「あばたもエクボ」だ。
どんな相手でも、好きになると、醜いあばたさえ可愛らしいエクボに見え、欠点でさえ長所に思われる。

とすると、ボードレールの探求した「新しい美」=モデルニテの美とは、なんら新しさのない、ごく当たり前のことにように思われるかもしれない。

しかし、ヨーロッパにおける美意識の伝統からすると、大きな変革だった。
古代ギリシア以来、ヨーロッパでは、感覚的な現象世界の彼方に超感覚的で普遍的なイデア界があり、現実世界の美も普遍的な美の現実化したものと見なされていた。

より単純化して言えば、美しいものが存在し、それを人間が見て美しいと感じるというのが、美の鑑賞だった。
その考え方は今でも続いているので、容易に理解できるだろう。
美しいものが予め存在し、私たちはそれを見て、美しいと思う。

それが伝統的な美の鑑賞だったとすると、ボードレールは、美しいものが予め存在するのではなく、これまでは美しいと見なされなかったものでも、鑑賞者の愛によって美が生み出されるという美学を構想した。

二つの美意識には大きな違いがある。
伝統的な美意識は二元論的な世界であり、そこでは、先験的にまず美しいものが存在し、目がそれを捉えて美を感じという、二つの次元から成り立っている。

ボードレール的美意識によれば、美は見る者が作り出すものである。
そこにあるのは一次元の世界観であり、私の目に映るのは、あばたでなく、エクボでしかない。あるいは、あばたでもあり、エクボでもある。

19世紀後半になり、伝統的な美意識は一般的な思考の中では残り続けるが、芸術の先端ではボードレール的な美の概念が主流を占めるようになっていった。
そこでは「再現」ではなく、「表現」そのものが問題になる。
そして、その美の概念は、21世紀もずっと続いている。

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