プルースト 『失われた時を求めて』 Proust À la recherche du temps perdu マドレーヌと記憶のメカニスム 1/2

マルセル・プルースト(Marcel Proust)の『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』は20世紀を代表する小説の一つであり、忘れていた思い出を一気に甦らせるマドレーヌの挿話は現在でもよく知られている。

フランス語を学び、フランス文学に興味があれば、『失われた時を求めて』を一度は読んでみたいと思うのだが、しかし小説全体は7巻からなり、7000ページにも及ぶ。その上、プルーストの文章は、一文が長いことで知られているために、読むのを諦めてしまうこともある。

日本人にとって、フランス語の長い文はハードルが高い。
その理由は、日本語では、核となる名詞や動詞の前に付随する形容詞や副詞が位置するのに対して、フランス語では後に続くという、構文上の違いにある。
そのために、文が長く続けば続くほど、出てきた要素がどこに関係しているのか分からなくなってしまう。

プルーストの文章は、フランス人にとっても長いといわれる。名詞を説明する関係代名詞に先行された文や、挿入句や文がいくつも繋げられ、なかなか終わらない。
しかし、決して不明瞭な文だと言われることはない。

日本語の文では、時として主語と動詞の関係がずれ、文意が不明瞭なことがある。それでも、日本語母語者にはなんとなくわかってしまう。外国人にはなんと難しいことだろうか!と思ったりもする。
反対に、フランス語では、文がどんなに長くなっても、そうしたズレは生じない。構文は明確であり、主語と動詞の関係がずれるということはない。

混乱するとしたら、頭の中で日本語に訳し、語順を変えてしまうからだ。
関係代名詞や挿入文が出てくるときは注意を要する。英語の授業で、関係代名詞に続く文を「訳し上げる」ことを教わることがある。それこそが英語の構文を混乱させる大敵なのだ。
文章を前から読んで、そのまま理解していく。当たり前のことだが、それがどんな言語でも、読む時の基本となる。

なぜプルーストの文が時として非常に長いのかは、人間の意識や記憶に関する本質的な問題を含んでいる。その点に関して、マドレーヌが最初に出てくる場面を読みながら、考えて行くことにしよう。

『失われた時を求めて』は、語り手である「私」がベッドの中で本を読みながら半分眠ったようになり、自分がかつて過ごした色々な部屋の思い出を辿るところから始まる。

その後、「私」は、幼い頃にバカンスを過ごした田舎町コンブレーでの出来事、眠る前には必ず母親にキスをせがんでいたこと、近くに住んでいたスワンが家に来ている時には母が2階の部屋に来てくれないためにとても辛かったことなどを思い出す。

そうした思い出に続くマドレーヌの挿話は、プルーストの小説にとって本質的な二つの要素を提示している。
一つは、文章の流れが「意識の流れ」の表現であること。
もう一つは、「無意志的記憶」の働き。意識的に思い出そうとして思い出すのではなく、思い出が思わぬ瞬間に突然甦って来る様子が描かれる。

Il y avait déjà bien des années que, de Combray, tout ce qui n’était pas le théâtre et le drame de mon coucher n’existait plus pour moi, quand un jour d’hiver, comme je rentrais à la maison, ma mère, voyant que j’avais froid, me proposa de me faire prendre, contre mon habitude, un peu de thé. Je refusai d’abord et, je ne sais pourquoi, je me ravisai. Elle envoya chercher un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblaient avoir été moulés dans la valve rainurée d’une coquille de Saint-Jacques.

 もう何年も前のことになるが、コンブレーに関して、寝るときの舞台(部屋)やその時の出来事でないことは全て、私にはもはや存在しなかった。そんなある冬の日、家に戻ってくると、母は、私が寒がっている様子を見て、そういう習慣はなかったのだが、紅茶を少し飲ませてあげようかと言ってくれた。最初私はいらないと言ったのだが、なぜかわからないけれど、考えを変えた。母は(召使いに)小さくて丸まったお菓子を一つ取りに行かせた。プチット・マドレーヌと呼ばれるお菓子で、ホタテ貝の溝のついた殻で形作られたようだった。

「意識の流れ」を辿る文

最初の文は、« Il y avait »から始まり、« un peu de thé »まで続く。
冒頭の« Il y avait bien des années que »によって、これから記されることが、すでに何年も前のことであることが示される。

次の句切れは、« de Combray »から、« pour moi »まで。
コンブレーでの思い出の中で、ベッドに入ったときのこと以外は、もう全て忘れている。

3番目が、Quand以下の従属文。
この部分を読む際に、後ろの文を先に訳し、「・・・の時」というように語順を逆転して理解しようとすると問題が起こる。
Quandを「その時・・」と理解し、フランス語の語順を尊重することが重要である。

« un jour d’hiver (ある冬の日)»と« comme je rentrais à la maison (私が家に戻ってくると) »は、時を示す副詞句と副詞節。
« Ma mère »と« me proposa » の間に、« voyant que j’avais froid » が挿入されている。ここでも、「私が寒がっているのを見て、母が・・・」と語順を逆転するのではなく、「母は、私が寒がっているのを見て、・・・」と前から理解していくことが大切。
« proposa de me faire prendre »と« un peu de thé »の間にも、« contre mon habitude(習慣に反して) »という言葉が挿入されている。

こうした挿入は、語り手である「私」の意識に上ってきた順番のままであり、母が紅茶とマドレーヌを出してくれたことを思い出した時、その思い出にまつわること — 「私が家に戻った時のことだった」、「私は寒がっていた」、「おやつの習慣はなかった」— が、次々と思い浮かび、その「意識の流れ」のままに書かれているのだと考えられる。
« quand / un jour d’hiver,/ comme je rentrais à la maison, / ma mère, / voyant que j’avais froid, / me proposa de me faire prendre, / contre mon habitude, / un peu de thé.»という文を、語り手の「私」が様々なことを思い出す順番だと思って読んでみると、「意識の流れ」を実感することができる。

「無意志的記憶」

「私」にとって、就寝の時のこと以外は、もはや存在していなかった、つまり何も覚えていなかった。そのように記した直後、« quand un jour d’hiver »と、就寝のドラマとはまったく関係のない思い出が甦る。
その唐突さは、まったく忘れていた思い出が突然意識に上るときの唐突さと対応している。
その対応によって、マドレーヌのエピソードは、「私」が思い出そうとして思い出したことではなく、ふとした瞬間に何も意図せずに甦った思い出であることが示される。

その「無意志的記憶」のメカニスムを、マドレーヌが象徴することになる。

まず、非常に短く簡潔な文« Je refusai d’abord / je ne sais pourquoi / je me ravisai. »が、スタッカートで区切られたような心地よいリズムで、母がマドレーヌを取りにいかせる文を準備する。

«  Elle envoya chercher un de ces gâteaux »は単純な構文だが、そのお菓子に細かな説明が加えられる。
(ちなみに、母が« envoyer(送る、差し向ける)»するのは、私でも母自身でもなく、第三者、つまり召使いだと考えられる。)

courts / et / dodus /
形は、小さくて(courts)、背が丸まっている(dodus)。
appelés Petites Madeleines /
名前は(appelés)、プチット・マドレーヌ(Petites Madeleines)。
qui semblaient avoir été moulés dans la valve rainurée d’une coquille de Saint-Jacques.
「ホタテ貝(coquille de Saint-Jacques)」の「溝のある殻(valve rainurée)」で「形作られた(moulés)」ように見える。

こうした描写によりマドレーヌが読者に強く印象付けられ、マドレーヌが「無意志的記憶」を象徴することになる。


次に、マドレーヌのもたらした幸福感について語られる。

Et bientôt, machinalement, accablé par la morne journée et la perspective d’un triste lendemain, je portai à mes lèvres une cuillerée du thé où j’avais laissé s’amollir un morceau de madeleine. Mais à l’instant même où la gorgée mêlée des miettes du gâteau toucha mon palais, je tressaillis, attentif à ce qui se passait d’extraordinaire en moi. Un plaisir délicieux m’avait envahi, isolé, sans la notion de sa cause. Il m’avait aussitôt rendu les vicissitudes de la vie indifférentes, ses désastres inoffensifs, sa brièveté illusoire, de la même façon qu’opère l’amour, en me remplissant d’une essence précieuse : ou plutôt cette essence n’était pas en moi, elle était moi. J’avais cessé de me sentir médiocre, contingent, mortel.

まもなく、機械的に、どんよりとした一日と、明日も悲しい日になるという思いに打ちひしがれながら、私は口元にスプーン一杯の紅茶を運んだ。そこにマドレーヌの一かけらを溶かしておいたのだった。さて、お菓子の小さなかけらの混ざったその一口が口蓋に触れたまさにその瞬間、私は激しく身震いし、自分の中で起こっている何か特別なことに注意を向けた。ある甘美な喜びが私を満たしていたのだった。その喜びは孤立し、原因が何かわからなかった。それは、人生の様々な変化を無関心なものにし、よくない出来事を害のないものにし、人生の短さをどうでもいいものに思わせた。恋愛と同じように、私を貴重なエキスで満たした。というか、そのエキスは私の中にあるのではなく、私そのものだった。私は、自分が凡庸で、当てにできず、いつかは死ぬものだと、感じないようになっていた。

最初の文には唐突な挿入があり、「機械的に(machinalement)」と言った後、「今日もつまらなかったし、明日も悲しいに違いないという思いに打ちひしがれて」という思いが書かれ、続く「私は運んだ(je portai)」とmachinalementとが引き離されている。
日本語的には、「機械的に、スプーンを口元に運んだ」とした方が分かりやすい。しかし、私たちが何かを考える時、様々な思いが入り交じることがよくあり、プルーストの文は、ここでも、「意識の流れ」をそのまま辿っているのだと考えることができる。

«  je portai à mes lèvres une cuillerée du thé où j’avais laissé s’amollir un morceau de madeleine. »
この文でも、語順と出来事の順番が、フランス語的と日本語的発想で異なる。

je portaiの時制は単純過去、j’avais laisséは大過去。従って、一杯の紅茶を口に運ぶよりも前に、マドレーヌを一かけらを紅茶の中に浸しておいたのだった。

フランス語では、その順番が逆転しても、時制によって前後関係を明確に示すことができる。
前の文章から読んで来ている読者は、「母がマドレーヌを探しにやった(elle envoya chercher)」ことから、「私が紅茶ひとさじを口元に運んだ(je portai à mes lèvres une cuillerée du thé)」という、単純過去で示される行為の順番を追い、次に出てくる« où »以下の文で、紅茶にはマドレーヌが溶かしてあったことを知る。

日本語の文だと、時制による前後関係が明示できないために、出来事の順番と語順は対応させることになる。つまり、「マドレーヌを溶かしておいたひとさじの紅茶」とした方が、自然で理解しやすい文になる。

この後の文でも、単純過去と大過去によって前後関係が明示されるので、こうした点には注意を払いたい。


« Mais »はここでは「しかし」という逆説を意味するのではなく、前の文となんらかの関係を持つ次の文の開始を告げる役割を果たしている。上の日本語では、「さて」とした。

これ以降、マドレーヌの入った紅茶を飲んだ時の「私」の様子が描かれ、「私」が感じた感覚について細かな分析がなされる。

まず、マドレーヌが口の中に当たった時、「私」は「体が震える(je tressaillis)」。
それと同時に、「自分の中で何か特別なことが起こった(ce qui se passait d’extraordinaire en moi)」ようで、そのことに「注意を向ける(attentif)」。

その時に私に理解できたことは、「甘美な喜び(Un plaisir délicieux) 」に満たされていることだった。
私が体を震わせた時点で、その幸福感がすでに「私」の中に入ってきていたことは、« m’avait envahi »という動詞の大過去によって示されている。
至福の喜びに満たされていたから、体が震えたのだ。

その喜びは、他のものとは何の繋がりもなく、孤立していた(isolé)。
その原因(sa cause)がどういうものかという概念(notion)もつかめなかった。
つまり、マドレーヌはきっかけではあるが、喜びの原因ではないということになる。マドレーヌを食べれば、いつでも甘美な喜びを感じるわけではない。


次に、その喜びが私にもたらした効果について言及される。
ここでも、それがすでに起こったことであることは、« Il m’avait aussitôt rendu »という大過去によって明示される。

効果は3つ。
1)「人生の不確かな成り行き(vicissitudes de la vie)」が、「どうでもよくなる(indifférentes)」。
2)「人生における災害、とんでもなく悪いこと(ses désastres)」が、「無害(inoffensifs)」であるように感じられる。
3)「人生の短さ(sa brièveté)」が、「幻のように意味のないこと(illusoire)」だと感じられる。

こうした効果は、「恋愛の働きと同じよう(de la même façon qu’opère l’amour)」だと語り手は言う。
恋愛の絶頂期にある時には、幸福感に満たされている。

ただし、ここでは独特な説明がなされる。
喜びのために、「何か貴重なエキス(une essence précieuse)」によって「私が満たされる(me remplissant)」のだというのだ。
しかも、「そのエキスは私の中にあるのではなく(cette essence n’était pas en moi)」、「それが私自身である(elle était moi)」と説明される。
つまり、「私」が心の中で幸福感を感じるというのではなく、「私」が幸福感そのものだということになる。
「甘美な喜び(Un plaisir délicieux) 」は、それほどまでに絶対的な感覚なのだといえる。

そうした喜びに満たされる時、「私」は普段とは違う自分を感じることになる。
いつもは、自分が「平凡(médiocre)」で、「当てにできず(contingent)」、「いつかは死ぬ(mortel)」存在だと思っている。
自分が至福の喜びそのものである時には、そうした思いが消え、幸福感に満たされるだけの状態になる。

ただし、この時は、「私」に寒い冬の思い出が唐突に蘇り、幸福感を思い出したにすぎない。マドレーヌと「甘美な幸福」の関係がはっきりとはわからないままだった。


このエピソードの後、語り手の「私」は、幸福感の原因を探り出そうとするのだが、意図的にマドレーヌを口にしても、その感覚が戻らない。

そこで、さらに考えを進め、最後にその理由に思い至る。それが、コンブレーのレオニ叔母さんのところで食べたマドレーヌとして語られることになる。
(マドレーヌと記憶のメカニスム 2/2に続く)

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