中原中也 月の光 癒しがたい悲しみを生きる

中原中也の「月の光 その1」と「月の光 その2」は、最愛の息子、文也の死をテーマにした詩で、痛切な悲しみが激しい言葉で綴られていてもおかしくない。
しかし、それとは反対に、感情が押さえられ、全体がおぼろげな雰囲気に包まれている。

その雰囲気は、ポール・ヴェルレーヌの『艶なる宴(Fêtes galantes)』に由来する。
題名は「月の光(Clair de lune)」からの借用であり、「マンドリン(Mandoline)」に出てくる二人の人名チルシスとアマントも使われている。

そこでの風景はまさに、「あなたの魂は、選び抜かれた風景(Votre âme est un paysage choisi)」とヴェルレーヌによって表現されたような、「死んだ児(子)」を悼む詩人の心象風景。
その中で、現実の死と直面した中也が、詩人として死を受け入れようとする。そうした心の在り方を描き出している。

月の光 その1

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れているのは死んだ児(こ)だ

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持っては来ているが
おっぽり出してあるばかり

  月の光が照っていた
  月の光が照っていた

一つの詩節は2行からなり、それぞれの行は、7/5のリズムで規則的に構成されている。
さらに、6つの詩節の半分は、「月の光が照っていた」という全く同じ詩句が反復され、言葉の意味よりも音楽性が強調されている。

ヴェルレーヌの「マンドリン」に出てくるチルシスとアマントは、セレナードを演奏する楽士たちの一員であり、彼らは「数多くのつれない女性のために数多くの愛の詩を歌う(pour mainte / Cruelle fait maint vers tendre)」。
中也は二人を芝生の上に登場させるが、しかし、彼らが演奏することはなく、ギターはほっておかれたままだ。

なぜ?
「死んだ児」が、庭の隅の草叢の影に隠れているからだろうか?


「月の光 その2」では、最初にチルシスとアマントが出てくる。

月の光 その2

おおチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵(よい)
なまあったかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にいる

ギタアがそばにはあるけれど
いっこう弾き出しそうもない

芝生のむこうは森でして
とても黒々しています

おおチルシスとアマントが
こそこそ話している間

森の中では死んだ子が
蛍のように蹲(しゃが)んでる

チルシスとアマントは、春の日暮れ時、生暖かい靄に包まれ、月の光に照らされたベンチの上に座り、ギターを弾くこともなく、ただこそこそと話をしている。
その状況が、5つの詩節(10行の詩句)を通して語られる。
その限りでは、「月の光 その1」が少し詳しく描かれているだけに留まる。

違いは、庭の外にある黒々とした森に目が向けられること。
先ほどは、庭の隅の草叢に隠れていた「死んだ児」が、今度は、森の中で、「蛍のように蹲(しゃが)んでる」。

その姿が詩人には見えたのだろうか? それとも、幻を見たのだろうか? 
しかも、その姿から「蛍」を連想したことに、何か意味があるのだろうか?


中原中也は、 昭和8(1933)年12月、 遠縁にあたる上野孝子と結婚し、翌昭和9(1934)年10月18日には長男の文也(ふみや)が生まれた。

しかし、昭和11(1936)年11月初旬、文也の病気が悪化し、急死してしまう。

11月4日の日記では、「坊やの胃は相変わらずわるく、終日むづがる。明日頃にはなほるであろう。」と、さほど重病でもないような記述が見られる。
しかし容体は改善せず、中也は看病のため、7日から10日までの3日間、一睡もしなかったらしい。
しかし、そのかいもなく、文也は11月10日午前9時20分に息を引き取る。
死因は小児結核で、最後に脳膜炎の症状も現れたらしい。

日記には、「午前9時20分/文也逝去」と太い大きな文字で書かれ、その後に戒名の「文空童子」と書き加えられている。
葬儀は11月12日。そのため、この記述は葬儀の後で書かれたものと考えられる。

中也の悲しみは一通りではなく、中也の母フクによれば、葬儀の際、中也は遺体を抱いて、なかなか棺に入れさせなかったという。

まあ、気のすむまで抱かしてやったらいいじゃろう、とみんな黙って見ておりました。けど、中也はいつまでも抱いて離さんのです。それで、仕方ないので、私がやっとのことであきらめさせて、文也の遺体を棺の中に入れさせました。(中原フク述『私の上に降る雪は』)

息子の遺体を抱いて離そうとしない中也の姿は、葬儀に立ち会った人々の胸に深く刻まれたことだろう。
子供を失った父親の悲しみの深さが、どれほどのものだったのか、推し量ることさえできない。

次の月、12月15日には、次男の愛雅(よしまさ)が生まれる。しかし、中也の悲しみが和らぐことはなかった。
文也の死んだ日から四十九が明ける12月28日まで、中也は一歩も家から出ず、毎日、僧侶を招いて読経してもらったという。

そうした悲しみの中で、中也の神経衰弱が高まり、昭和12年1月9日から2月15日まで、千葉市にあった療養所に入院することになる。
退院後は鎌倉に住むが、そこでも心身の疲労が激しく、8月になると妻子を連れて山口の実家に戻る決心をする。
しかし、そのままずるずると鎌倉に留まり、10月に肺結核性脳炎を発症し、その月の22日午前0時10分に永眠した。

中也の死は、前年11月の文也の死から1年も経っていかなった。その短い期間、彼がどれほどの悲しみを抱えて生きたのか、想像を絶するものがある。


二つの「月の光」は、文也の死がもたらした悲しみを、父としての中原中也というよりも、詩人としての中原中也が描出したもの。

他方、同じ時期に書かれたと考えられる「また来ん春・・・」では、父と詩人の距離がとても近い。
来年になれば春は戻ってくる。しかし、あの子はもう二度と返ってこない。そんな思いが、直接的な言葉で語られる。

また来ん春・・・

また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といい
鳥を見せても猫(にゃあ)だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたつけが・・・

動物園での楽しい出来事は、実際にあった出来事らしい。

文也の死の約1ヶ月後の12月12日頃、中也は「文也の一生」という短い文を書いているが、その最後の部分に、文也と動物園に行った思い出が綴られている。

春暖き日坊やと二人で小沢を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊やは「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」という。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。

この思い出は、昭和11年5月頃のことで、文也は1歳半くらいだった。可愛い盛りの年齢。
5月の穏やかな光の中で、どの動物を見ても「ニヤーニヤー」と言った文也。その子がもう戻ってこない。
その残酷な現実を受け止めることは難しく、「私は辛いのだ。」とストレートに言葉にしたものが、「また来ん春・・・」だといえる。


それに対して、二つの「月の光」は、耐えきれない悲しみを月の光で包み込んでいる。
「春が来たって何になろ/あの子が返って来るじゃない」と言えば言うほど、失われた息子は遠くにいってしまうような気がする。

しかし現実は、死んだ後からも文也のことを考え続け、文也のことが頭から離れず、どこを見ても文也の面影が感じられる。

そんな時、詩人中原中也は、文也が死ぬ少し前に書いた詩を思い出しはしなかっただろうか。
それは、ヴェルレーヌの「月の光」から直接着想を得たと思われる「幻影」。
最初の詩節と最後の詩節には、月の光が射している。

幻影

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗(しや)の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びているのでした。
(中略)
しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

月光を浴びているのは、「薄命さうなピエロ」。
彼は、白々とした光の下、怪しげな霧に包まれた風景の中で、緩やかに体を動かしている。
詩の題名が「幻影」とされていることからもわかるように、文也の死の前には、おぼろげなピエロの姿は、月下の風景の中で見た幻だった。

しかし、文也の死後に書かれた「月の光」になると、詩人には、庭の隅の草叢に「死んだ児」の気配が感じられるだけではなく、芝生のむこうの森に「死んだ子」が座っているのが見える。
文也がそこにいる。
それが、中也の実感だったに違いない。

文也の死が11月の冬の朝だったにもかかわらず、月の光の風景が「ほんに今夜は春の宵/
なまあったかい靄もある」のは、5月の動物園での幸せな思い出と関係しているのかもしれない。

ただし、坊やの「ニヤーニヤー」という声は聞こえない。チルシスとアマントがギターを弾くことはなく、あたりは静まりかえっている。
庭で、2人が「こそこそ話している」のが見えるだけだ。

そして、黒い森に目をやると、「死んだ子」が「蛍のように蹲(しゃが)んでる」のが見える。
それは決してピエロのような幻影ではなく、中也の中に生き続ける文也だった。
その文也は、蛍のように闇の中で光っているのかもしれない。


死者と蛍に関して、中原の親しい友人だった小林秀雄が、自分の大切な母親が亡くなった時の不思議な体験について語ったことがある。

  終戦の翌々年母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたへた。(中略)
 仏に上げる蝋燭(ろうそく)を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷(おうぎがや)の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。(小林秀雄『感想』)

「おっかさんは、今は蛍になっている。」
小林によれば、この言葉は、実は、彼の実感を正確に表現しているものではないという。
なぜなら、こう言ってしまうと、「死んだ母親」が「蛍」になって彼の眼の前を飛んでいるということであり、母親と蛍は別々の存在という認識に基づいていることになる。

「おっかさんという蛍が飛んでいる。」
この言葉が、直接的な「生」の体験を正確に証言したものだと小林は言う。彼はこの時、「おっかさんという蛍」を見たのだ。
(参照:小林秀雄 ベルクソン 「生」の体験

「森の中では死んだ子が/蛍のように蹲んでる」という「月の光 その2」の表現も、詩人中原中也の生(なま)の体験としては、小林の言葉を借りれば、「文也という蛍」がしゃがんでいるということだったのかもしれない。

たとえチルシスとアマントが「ニヤーニヤー」というセレナードを奏でなくとも、月の光に照らされた生暖かい靄の風景には文也がいる。
その風景を言葉の力によって描き留めることも、癒しがたい悲しみを生きる一つの道なのだ。

もちろん、人間の自然な感情として、「私は辛いのだ/春が来たって何になろ/あの子が返って来るじゃない」と嘆いてもいい。
それと同時に、「月の光が照っていた」と呪文のように繰り返し、「森の中では死んだ子が/蛍のように蹲んでる」姿を目にし、その子とともに生きてもいい。
どちらも、悲しみを抱きながら生きることには変わりがなく、二つの生き方に優劣はない。

ただし、「月の光」の方が「また来ん春・・・」よりも、失われた人とともにいることができるという点では、心が癒されるのかもしれない。

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