エリュアール ゲルニカの勝利 Paul Éluard La Victoire de Guernica 

ポール・エリュアールは、アンドレ・ブルトンの主導するシュルレアリスム運動に参加した詩人。
ピカソなど他分野の芸術家とも親しく、1937年のパリ万国博覧会でピカソが「ゲルニカ」を展示した際には、エリュアールの「ゲルニカの勝利(La Victoire de Guernica)」も同時に掲げられた。

絵画と詩の題材は、1937年4月26日にドイツの爆撃機がスペイン北部の都市ゲルニカに対して行った爆撃であり、ピカソやエリュアールは、一般の市民たちが蒙った戦争の惨禍に衝撃を受け、抗議の声を上げたのだった。

「ゲルニカの勝利」の特色の一つは句読点がないこと。そのために、言葉と言葉の関係が自由になり、多様な解釈の仕方が可能になる。しかし他方では、その自由さが理解の難しさを生むことにもなる。

詩全体は14の詩節で構成される。その中で、第1詩節から第4詩節までは、ゲルニカの町と住民たち、そしてそこに死が襲ってきたことが歌われる。

ちなみに、第1詩節と第2詩節には、手書き原稿に残された版と1938年に出版された詩集『自然の流れ(Cours naturel)』に掲載された版で、語句の変化が二箇所ある。De la nuit / de la mine(1) au fond / au froid(2)
ここでは出版された版を本文とし、もう一方をカッコの中に入れて記載することにする。

La victoire de Guernica

I
Beau monde des masures
De la nuit (mine) et des champs

II
Visages bons au feu visages bons au fond (froid)
Aux refus à la nuit aux injures aux coups

III
Visages bons à tout
Voici le vide qui vous fixe
Votre mort va servir d’exemple

IV
La mort cœur renversé

「ゲルニカの勝利」

I
美しい世界よ 貧しい家々の
夜(炭鉱)の 田園の

II
善良な顔よ 火に焼かれ 善良な顔よ 地の底に投げ出され(寒さに晒され)
拒絶され、夜に晒され、ののしられ、殴られる

III
善良な顔よ すべてを甘受し
ここにあるのは虚無 あなた方をじっと見つめる
あなた方の死は 前例として役立つだろう

IV
死 ひっくり返された心

まず最初に、直接戦闘に加わっていない普通の市民の住むゲルニカの町に対し、「美しい世界よ(Beau monde)」と呼びかける。
その世界は、あばら屋のような貧しい家々(masures)、夜(nuit)、田園(champs)から成り立っている。

夜という言葉は、最初、炭鉱(la mine)だったが、ゲルニカの町は炭鉱ではないため、エリュアールは手を加えたのだろう。

第2詩節では、住民たちに対し、「善良な顔よ(Visages bons)」という呼びかけが、2度反復される。
その善良な顔の人々が、無差別の爆撃によって、à …以下で示される状態におかれる。
à は、語源的には、ラテン語のadに由来し、これから向かう方向を示す。
ここでは善良な顔(の人々)が、feu(火)、fond(底、地面の底)、froid(寒さ)、refus(拒絶)、nuit(夜)、injures(ののしり)、coups(一撃、殴ること)などに向けられている、つまりそうした不幸に晒されている状態を示している。

第3詩節になると、再びvisages bons(善良な顔よ)と反復され、詩句の冒頭に同じ言葉を繰り返す頭語反復(anaphore)が用いられ、人々の善良さが強調される。
その上で、悲惨な状況がtout(全て)という言葉にまとめられ、戦争の悲惨が更に強調される。

その直後、voici(ここに・・・)と目の前にあるものが示される。
示されるものは、le vide(虚無)。その虚無がvous(あなた方)を見つめている(fixe)。
あなた方とは、善良な顔の人々。彼らを見つめる虚無とは死(la mort)であり、人々の死がこれからまだまだ続くと思われる戦闘の例(exemple)となるだろうという、悲しい予想が口にされる。

第4詩節では、あなた方の死(votre mort)という具体的な出来事から、死そのもの(la mort)へと視点が移される。

その後に続く、ひっくり返された心(cœur renversé)は、何を意味するのだろうか?
a. ハートマークが逆転すると、尖った部分が上にあるトランプのスペードの形になり、武器を暗示する。
b. 死(mort)と心(cœur)が、「明るい闇」のように撞着語法を構成し、心が逆転していることで、戦争による損害を強く印象付ける。
c. ひっくり返った心のイメージが、ピカソの「ゲルニカ」の混沌とした状況を連想させる。
こうした解説が提示されたりもするが、ここでは単に、死は人々の心を動転させ、美しい世界(beau monde)や善良な顔(visages bons)が破壊されるといった意味に解しておこう。


第5ー7詩節では、攻撃する人間たちの行為が描かれるが、エリュアールは攻撃する軍人たちを単に「彼ら(ils)」とだけ呼び、決して名指すことはない。
そのことは、詩人の怒りの大きさを示している。彼らは口に出したくもない奴らなのだ。

V
Ils vous ont fait payer le pain
Le ciel la terre l’eau le sommeil
Et la misère
De votre vie

VI
Ils disaient désirer la bonne intelligence
Ils rationnaient les forts jugeaient les fous
Faisaient l’aumône partageaient un sou en deux
Ils saluaient les cadavres
Ils s’accablaient de politesses

VII
Ils persévèrent ils exagèrent ils ne sont pas de notre monde

V
彼らは あなた方に支払わせる パンを
空を 大地を 水を 眠りを
そして、悲惨を
あなた方の生活の

VI
彼らは言っていた 善良な知性を望むと
彼らは 強者たちに配給をしていた 狂人たちを裁いていた
施しを行っていた 小銭を二つに分けて与えていた
彼らは 遺体に敬礼をしていた
彼らは 儀礼に押しつぶされていた

VII
彼らは執拗に続ける 彼らは誇張する  彼らは私たちの世界に属していない。

支払わせる(faire payer)というのは、ここでは、住民たちから奪ってしまった、ということを意味する。
食べるものや住むところだけではなく、睡眠も、日々の惨めな生活さえも。

第6詩節では、彼らの建前が憎々しげに数え上げられる。
知性(intelligence)を望むとか、強い者(les forts)、つまり爆撃をした側に味方する者たちには配給を配る(rationnier)とか、施し(aumône)をするとか、死体(cadavres)に対して敬礼する(saluer)とか。

エリュアールは、彼らのそうした行動の対して、小銭(un sou)をさらに半分にして分け与えるといったけちくささや、礼儀正しい行動(politesses)をしようと無理をすることに重圧を感じてしまうといった情けない姿を描き、皮肉をぶつけている。

第7詩節の最後になると、そんな奴らは、私たちとは住む世界が違うのだと断言する。


第8−10詩節では、女性と子どもに焦点が当てられる。その際、エリュアールはとりわけ目(yeux)に注目する。

VIII
Les femmes les enfants ont le même trésor
De feuilles vertes de printemps et de lait pur
Et de durée
Dans leurs yeux purs

IX
Les femmes les enfants ont le même trésor
Dans les yeux
Les hommes le défendent comme ils peuvent

X
Les femmes les enfants ont les mêmes roses rouges
Dans les yeux
Chacun montre son sang

VIII
女たち 子どもたちは 同じ宝を持っている
春の緑の葉の 純粋な乳の
生命の持続の
純粋な目の中に

IX
女たち 子どもたちは 同じ宝を持っている
目の中に
男たちはその宝を守る できる限りの力で

X
女たち 子どもたちは 同じ赤いバラの花々を持っている
目の中に
一人一人が自らの血を見せる

第8詩節と第9詩節ではは、女性や子供が目の中に同じ宝(le même trésor)を持っているという詩句が反復され、「彼ら(ils)」の爆撃によって引き起こされた犠牲の大きさが強く印象付けられる。

宝とは、女性や子供たちの純粋な目の中に映っていた光景。
春の緑の葉(feuilles vertes de printemps)=青春、純粋なミルク(lait pur)=母性、時間の持続(durée)=生命。

男たちは、そうした宝を、力の限り(comme ils peuvent)守ろうとしている。

しかし、第9詩節になると、純粋だった目に映るものが、以前と同じ赤いバラの花々(les mêmes roses rouges)ではありながら、しかし、赤は血(sang)の赤になってしまう。
そうした表現によって、爆撃が美しいバラの赤を血の赤に変えてしまったことが暗示される。


第11詩節では、現実と非現実、意識と無意識といった相容れない次元を統合した「超現実」を根底にしたシュルレアリスムの芸術原理が、簡潔な詩句で表現される。

XI
La peur et le courage de vivre et de mourir
La mort si difficile et si facile

XI
恐れ 勇気 生きることの 死ぬことの
死 ひどく難しく ひどくやさしい

恐れ(peur)、勇気(courage)、生きる(vivre)、死ぬ(mourir)は、かなり自由に組み合わせることができ、夢の世界のような自由さを持つ。

a. 生きる恐れと死ぬ勇気
b. 死ぬ恐れと生きる勇気
c. 生きることと死ぬことの恐れと勇気

死(la mort)については、第4詩節で、ひっくり返された心(cœur renversé)と同格に置かれていた。それがここでは、難しさ(difficile)と容易さ(facile)という矛盾する要素が共存する撞着語法によって特徴付けられる。
そのようにして、恐れや勇気も含め、矛盾した状態や感情が混在することが、まさに戦争の現実に他ならないことが示される。

この第11詩節は、意味がはっきりと解釈できないかもしれないが、それが魅力でもある、シュルレアリスムの詩句の典型だと考えてもいいだろう。


死を甘受することは、難しくもあり、容易でもある。そうした現実を前にして、詩人は、女性や子供の宝を守ると決意した男性たちに向かい、共に未来を切り開こうと呼びかける。

XII
Hommes pour qui ce trésor fut chanté
Hommes pour qui ce trésor fut gâché

XIII
Hommes réels pour qui le désespoir
Alimente le feu dévorant de l’espoir
Ouvrons ensemble le dernier bourgeon de l’avenir

XII
男たちよ 君たちのために その宝が歌われた
男たちよ 君たちのために その宝が台無しにされた

XIII
本当の男たちよ 君たちのために 絶望が
養うのだ 希望を貪欲に求める火を
ともに開こう 未来の最後の蕾を

第12詩節では、男たちに過去を思い出させる。かつて宝が歌われた(fut chanté)が、その宝がダメにされた(fut gâché)のだと。
その際、動詞が単純過去で書かれていることで、そうしたことがすでに歴史的な過去に位置づけられ、現在からは切り離されている事柄だという印象を作り出している。

第13詩節では、男たち(hommes)に対して、現実の、真の、本当の(vrais)という形容詞が付けられ、彼らの士気を鼓舞する表現が、最後の「ともに開こう(ouvrons ensemble)」という呼びかけに力強さを加える役割を果たしている。

その呼びかけに際して、絶望(désespoir)が希望の炎(feu de l’espoir)を養う(alimente)のだと言われるが、今度は動詞は現在形に置かれ、今まさに絶望を希望に変えるのだという強い望みが伝えられる。

この部分は、シュルレアリストと呼ばれる芸術家たちが、積極的に政治に参加したことを示す詩句になっている。


「ゲルニカの勝利」の最後は、敵を罵倒し、自分たちの勝利を予告する詩句で締めくくられる。

XIV
Parias la mort la terre et la hideur
De nos ennemis ont la couleur
Monotone de notre nuit
Nous en aurons raison.

XIV
人間のくずたちよ 私たちの敵(であるお前たち)の
死 大地 おぞましさは 持っている 色を
私たちの夜の単調な
私たちは 勝利するだろう

爆撃を実行した軍人や、彼らの後ろにいるナチス・ドイツ、ヒトラーと共闘したスペインのフランコ政権とナショナリスト派の軍隊を全て私たちの敵(nos ennemis)と考え、彼らに対して人間のくず(parias)という言葉を投げつける。

彼らには死(mort)と墓地のある大地(terre)が相応しく、彼らはおぞましい(hideur)。
そのために、詩人は、彼らは、今私たちが包まれているのと同じ真っ暗な夜の単調な色を持つのだと言う。その色は、彼らが爆撃し、町を破壊し、人々を殺害したとしても、決して勝利することはない象徴だといえる。

最後に勝利するのは(avoir raison de )、私たちなのだ。
そのように宣言して、ポール・エリュアールは、ゲルニカの人々への共感と、スペインでフランコに対抗する共和国政府への連帯を呼びかけたのだった。


Picasso Tête qui pleure

ピカソの「ゲルニカ」にしても、エリュアールの「ゲルニカの勝利」にしても、無差別攻撃で破壊されたゲルニカや被害にあった住民たちへの共感に基づき、爆撃に対する憤りから出発しているとしても、反戦を呼びかけているわけではない。
二人は、反ナチス、反フランコであって、「スペインを苦悩と死に沈めた軍隊に対する憎悪を表現した」というピカソの言葉からも推測できるように、敵に対する憎しみに基づき、エリュアールの詩の最後で明らかにされているように、自分たちの側が戦いに勝利することを望んだのだった。

そうした二人の反応は、戦争に直面した時の、ごく普通の感情から生まれたものだと考えてもいいだろう。


詩の理解には直接関係ないが、もし反戦や平和を訴えるのであれば、勝ち負けではなく、一人一人の人間を個人として認識する視点が必要になる。
兵士として駆り出され攻撃する側の人間も、防御する側の人間も、一人の個人として名前を持つ。親がいて、友人がいて、子供がいるかもしれない。そのことを考えたら、どちらの側に立っても、兵器を持って闘うことは、殺人を犯すことになる。

柄谷行人は、固有名の問題を論にながら、次のように記したことがある。

牛を固有名で呼んでいる者にとっては、それを殺すことは困難であろう。これは”ヒューマニズム”の問題ではない。彼は、兵士としては、平気で人間を殺すことができるだろう。なぜなら、敵の兵隊は敵という集合の一人であり、固有名を持たないからである。いいかえると、これは個体としての対象が「何であるか」とは関係がない。つまり、人間であろうと牛であろうと関係がない。さらにいえば、固有名で呼ばれるものが個人であろうと集団であろうと、関係がない。肝腎なのは「誰であるか」だ。(『探求 II』)

相手が誰であるか知れば、恨みのない人間を殺すことは難しいだろう。
不戦の誓いは、勝敗ではなく、一人一人の人間を個人として捉える視点から出発するしかないだろう。

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