シュルレアリスムは、20世紀前半、文学、絵画、演劇、映画などの分野で展開された芸術運動。日本で最もよく知られているシュルレアリスムの絵画は、サルヴァトール・ダリの「記憶の固執」だろう。

現実にはありえない事物や光景が描かれ、何を意味しているのかわからないが、そこに魅力を感じることもある、というのが、シュルレアリスム絵画の一般的な印象だと思われる。
しかし、絵画に関する書籍やネット上の解説等を見ると、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』に依拠したシュルレアリスムの定義は一致していても、具体的な絵画表現や、取り上げられる画家がまちまちで、調べれば調べるほどわからなくなってくる。


例えば、ピカソのシュルレアリスム時代とそうでない時代の絵画。両者とも写実的ではないが、何が描かれているかある程度わかるという点では共通している。
では、一方がシュルレアリスム絵画とみなされ、他方はその分類に属さないと考えられるのはなぜか? それほど明確な答えは得られない(と私には思われる)。
20世紀前半の絵画の潮流は多様で、フォビスム、ドイツ表現主義、キュビスム、素朴派、ナビ派、エコール・ド・パリ、未来派、ダダイスム、抽象絵画などが混在し、一人の画家がいくつかの表現様式を使い分けるということもあった。
そうした中で、シュルレアリスム絵画をどのようなものと考えたらいいのか? ここでは、原理的な側面と実際の表現に関して、少しだけ探ってみよう。
シュルレアリスムの創造原理
シュルレアリスム運動の主導者であるアンドレ・ブルトンは、1928年に発表した絵画論の最初に、「目は野生の状態で存在する。(L’œil existe à l’état sauvage)」と記した。
この言葉は様々に理解されるが、ここでは、「目」を「精神」と、「野生」を「文明」と対立させて考えてみよう。
私たちは、一本の鉛筆を見ると、それが鉛筆だと自然にわかる(と思っている)。しかし、身体の器官としての「目」が、ある物を視覚的に捉え、その瞬間に「鉛筆」だと認識する際、そこにはすでに「AをBとみなす」という「精神」の働きがある。
さらに、「鉛筆」とは文字を書くための道具という役割が、私たちの意識の中にすでに存在している。
「文明」とは、そうした認識と意識の網から成り立っている。
ブルトンの主張は、見ることを精神の働きから切り離し、規制の認識を停止し、「目」に見えるまま(=野生の状態)を表現することにあったと考えていいだろう。

その主張の先駆的な表現として、マルセル・デュシャンが1917年に、「ニューヨーク・アンデパンダン」展に出品しようとした「Fountain(泉)」という作品がある。
「見ればわかるように」、それはただの男性用の便器にすぎない。用途は決まっている、と誰もが考える。
デシャンはその磁器の既製品に対して、リシャード・マットという作者名と「Fountain」という題名を付し、美術展に「芸術作品」として展示する試みを行ったのだった。
「精神」あるいは「意識」の次元では、便器はトイレに置かれ、排便の道具と決まっている。そうした「文明」の既成概念を除去し、ブルトンの表現に従えば、「目」がそれを「野生状態」で捉え、別の場所に別の用途で用いる。
また、既製品を用いることは、芸術家が理性に基づき、あるいは天才的な発想で構想を巡らし、精密な技術(テクニック)によってその構想を実現するという、伝統的な芸術観を転換することにもつながる。
そこでは、芸術家の役割は、物体を選択し、題名を付け、展示するというだけに留まる。

アンドレ・ブルトンは、1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』の中で、フロイトの精神分析理論に言及し、人間の行動は意識によってコントロールされるだけではなく、意識されない情動によって動かされるという説を認め、意識の領域と無意識の領域がともに「生(vie)」の構成要素であると主張した。
比喩的に言えば、夢は覚醒時の生(せい)に対してカッコに入れられるものではなく、覚醒時と連続した「生(vie)」の流れなのだ。
その思想を芸術創造に適応した場合、芸術作品は、それまで信じられてきたような「人間の制作」(意識)によるだけではなく、人間には明確に理解できない「自然の生成」(無意識)も働くということになる。
(参照:アンドレ・ブルトン シュルレアリスム宣言)

こうしたブルトンのシュルレアリスム理論を端的に絵画に応用した一人が、マックス・エルンスト。
エルンストは、木の葉や石など表面がでこぼこした物の上に紙を置き、上から鉛筆などでこすることで紙面にイメージや図柄を写し取る「フロッタージュ」という技法を生み出した。
エルンストの言葉によれば、すでに存在する形状を写し取る「フロッタージュ」は、「理性、趣味、道徳といった意識的な精神の手引きを排除し」、「これまで作品の”作者”と呼ばれてきた存在の積極的な役割を最小限に引き下げる」ことになる。
その結果、「作者は”観客”として自分の作品の誕生に出会い、その発展の諸相を観察する。」(『絵画の彼岸』)
芸術家は、作品を作り出す存在でありながら、「最初の鑑賞者」になる。その鑑賞者にとっても、創造の過程は未知のものであり、自然の生み出す世界に立ち会う時と同様の驚きや感動があるかもしれない。
その視点から見ると、シュルレアリスムの創造原理は、建築のような「人間の制作」に、「自然の生成」という不可知な側面を導入し、意識と無意識、覚醒時の生(せい)と夢を総合した、「生(vie)」全体を表現しようとしたものだと考えることができる。
シュルレアリスム絵画の表現方法
シュルレアリスム絵画の表現方法(技法)として、オートマティスム、オブジェ、フロッタージュ、デカルコマニー、コラージュ、デペイズマン、トロンプ・ルイユなどが挙げられることがある。
そうした技法の存在は、シュルレアリスム絵画が画家の無意識や夢や狂気によるものではなく、意識的な制作活動に基づいていることを示している。
それに加えて、人間の意識的な活動を超えた「自然の生成」を思わせる驚異、驚き、不思議さ、非日常性を発生させることが目指される。
(1)オートマティスム
オートマティスムは、シュルレアリスム芸術の最も基本的な原理に基づき、意識の活動を排除し、思いつくままを自動的に文字にしたり(文学)、絵にしたり(絵画)する技法。
「人間の制作」を最小限にし、作家や芸術家があたかも自然になったかのように、何かが「生成」することを目指す。
アンドレ・マッソン「オートマティック・ドローイング」は、題名がオートマティスムであることを明示している。
ジョアン・ミロの「世界の誕生」もオートマティスムの代表的な作品として挙げられる。


この2枚の絵画では、何が描かれているのかよくわからない。
シュルレアリスム絵画は具象的であり、抽象絵画とは違うという解説を見かけることがあるが、分類はそれほど明確でないと考えた方がいいだろう。
(2)オブジェ
オブジェ(objet)は、主体(sujet)に対する「客体」「対象」「物体」を意味する。
すでに見たマルセル・デュシャンの「Fountain」はその先駆的な作品であり、シュルレアリスムの用語としては、普段目にする物に備わっているとされる意味、機能、用途などを奪い、「もの」そのものの存在を際立たせることを目指す技法。
その意味で、オブジェも、オートマティスムと同様、芸術家の意識の介入を最小限に抑え、意図せず、偶然、自然に生成する何かを期待する創作法だといえる。
マン・レイが1923年に発表した「破壊されるべきオブジェ」は、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』(1924年)以前の作品であるためにシュルレアリスムには属さないといった解説がなされることがある。
しかし、既製のメトロノームと女性の目の白黒写真をの組み合わせだけで作られたその作品は、オブジェの典型だといっていい。
アルベルト・ジャコメッティの「吊るされた球」は、四角い枠組みの中にクロワッサンと丸い玉が吊されたもの。


(3)フロッタージュとデカルコマニー
フロッタージュはフランス語の動詞「擦る(frotter)」から来ている用語で、すでに紹介したように、木の葉や石などの上に紙を置き、上から鉛筆などで擦り、紙面にイメージや図柄を写し取る技法。
デカルコマニーは、フランス語の動詞「転写する(décalguer)」から作られた用語で、ガラスなどスベスベした平面の上に絵具をたっぷりと塗り、その上に紙を重ねることで、偶然できる不定型な模様を写し取る技法。
マックス・エルネストの「森と太陽」では、フロッタージュによって、元の素材の質感がはっきりと感じられる。
また、同じエルネストの「貝殻の花」になると、偶然に出来上がった絵具の形が花にも貝殻にも見え、デカルコマニーによる生成の効果が見事に活かされている。


(4)デペイズマン
デペイズマン(dépaysement)とは、本来は、自分の国や地方から別の国や地方に移るという意味であり、そこから派生して、異国で違和感を感じたり、あるいは気分転換をしたりすることを意味する。
「目は野生の状態で存在する」というブルトンの言葉に従って考えると、精神によって予め規制されている認識を壊し、物と物とを新しい関係に置くことで、非日常性、意外性、驚き、不思議さなどを生み出す技法だといえる。
デペイズマンの表現として、19世紀後半の詩人ロートレアモンの次の詩句がしばしば引用される。
「手術台の上でのミシンと傘の偶然の出会いのように美しい。(Beau comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d’une machine à coudre et d’un parapluie.)」
シュルレアリスム絵画の多くは、描かれているものが何かはわかるが、それらの関係が日常的な次元とはかけ離れているために、意味不明だと感じられる。それはまさにデペイズマンの効果に他ならない。
日本でも人気が高いルネ・マグリットの絵画の面白さは、そうして生まれる意外性から来ている。



(5)トロンプ・ルイユ(だまし絵)

実物そっくりと思わせる「だまし絵」は中世から存在していたが、シュルレアリスムの「トロンプ・ルイユ」は、現実を歪めた夢幻的、幻想的な雰囲気の中で、細部には精密でリアルな表現を用い、超現実の世界にリアリティを与える。
ルネ・マグリットの「赤いモデル」は、過去のだまし絵を思わせながら、シュルレアリスムの核となる現実性と非現実性を合わせ持ち、その不自然で不思議なイメージが、見る者を驚かせ、不安な気持ちにさせる。

サルバドール・ダリの目は、何かを見つめていると、別の物体が変形したり、二重化して現れてくるのが見えたのだという。
そうしたイメージは一種の妄想(パラノイア)ではあるが、それを批判的に、つまり理性的な判断を通して認識することで、非合理的な世界を「色彩を使って手で描いた写真」として提示する。
例えば、最初に見た「記憶の固執」の中で描かれた、溶け出したような時計だけを見ると、文字盤の文字をはっきりと読み取ることができるし、丸い外周の変形の仕方が現実味を帯びていることに気づく。
そのようにして描かれたダリの絵画は、超現実世界がリアルなものであると感じさせる力を持っている。


現実から出発して、それが変形していく様子は、ジョアン・ミロの「オランダのインテリア 1」を見るとよくわかる。
この絵は、へンドリック・ソルフの「リュートを弾き」(1661)からインスピレーションを得て描かれたもの。二つの絵画を見比べると、ソルフの描いた室内の光景が、ミロの視線の下でどのように姿を変え、明確な色彩と形態によって定着されたのか、はっきりと見て取ることができる。


超現実世界への様々な扉
シュルレアリスムの創作原理は、「人間の制作」と「自然の生成」という意識と無意識あるいは偶然を二重化したものであり、芸術家は創造者でありながら、全てを把握しているわけではなく、最初の鑑賞者でもある。
従って、作品の解釈は芸術家によって予め定められいるではなく、一人一人の鑑賞者が自由に感じ、考え、読み取り、味わうことができる。というか、そのように求められている。
『モモ』や『はてしない物語』で知られるドイツの作家ミヒャエル・エンデの父親エドガー・エンデは、自分の作品について説明を求められることも、美術批評家が解釈することもひどく嫌ったという。
その姿勢は、無意識の活動に重点を置くシュルレアリスムの画家として当然のことだろう。


ポール・デルヴォーの超現実世界には、エンデの世界とは異なる物語性が感じられる。


イヴ・タンギーの超現実世界は、エンデやデルヴォーと比べると、かなり無機質な空間の広がりが感じられ、そこにある事物も物質性が強い。


タンギーの影響を強く受けたロベルト・マッタは、自分の作品を「心理学的形態学」あるいは「インスケープ(心象風景)」と呼んだが、彼の超現実空間からは具象性が減少し、抽象絵画を思わせる。


画家が「最初の鑑賞者」であるとしたら、私たちは画家に続く多数の鑑賞者の一人であり、それぞれの超現実空間の中で何を感じ、何を理解するかは、私たち自身に委ねられている。
シュルレアリスム絵画の扉は広く開かれているのであり、鑑賞者はその中で、自分の意識しない未知の自分と出会うかもしれない。
ブルトンに倣って言えば、シュルレアリスム絵画を見ることで、私たちの目も野生の状態になる。