
愚かな乙女は、地獄の夫の乱暴で野蛮な側面に触れた後、今度は、優しい側面も数え上げる。
« Parfois il parle, en une façon de patois attendri, de la mort qui fait repentir, des malheureux qui existent certainement, des travaux pénibles, des départs qui déchirent les cœurs. Dans les bouges où nous nous enivrions, il pleurait en considérant ceux qui nous entouraient, bétail de la misère. Il relevait les ivrognes dans les rues noires. Il avait la pitié d’une mère méchante pour les petits enfants. ― Il s’en allait avec des gentillesses de petite fille au catéchisme. ― Il feignait d’être éclairé sur tout, commerce, art, médecine. ― je le suivais, il le faut !
「時々、あの人は穏やかな方言みたいな言い方で話すことがあります、死は悔いを引き起こすとか、不幸な人達が本当にいるんだとか、辛い仕事のこととか、旅立ちは心を引き裂くとか。安い酒場で私たちが酔っ払う度に、あの人は泣きました、周りにいる人達を惨めな家畜みたいにじろじろ見ながらです。真っ暗な通りでは、酔っ払いたちを起こしてあげたりもしました。あの人、幼い子供に対する意地悪な母親の同情心を持っていたんです。ーー 立ち去る時には、教会に信者のお勤めを教わりに行く女の子みたいな良い子の様子をしていたものでした。ーー どんなことでも知っている振りをしていました、商売も、芸術も、医学も。ーー 私はあの人の後をついていきました。それしかないんです!

地獄の夫の話し方が、穏やか(attendri)ということから、話の内容が話し方に対応していることが予想される。
(patoisは方言とかある一定の地域で話される言葉といった意味。もしかすると、ランボーが穏やかに話す時、ヴェルレールはランボーの故郷であるアルデンヌ地方の話し方をおっとりしているように感じたのかもしれない。)
地獄の夫の話したことは、惨めさの家畜(bétail de la misère)という表現に象徴される惨めな人々の惨めな境遇のことが多かった。そうした人々に涙し、時には道に倒れている酔っぱらいを起こしてあげたりもした。
しかし、どこか不自然なところがある。
幼い子供たちに対する同情心(la pitié)は、意地悪な母親(une mère méchante)のもの。
酔っ払いを助け起こした(Il relevait les ivrognes)後、そこから立ち去っていく(il s’an allait)様子は、キリスト教の教理問答(cathécisme)を教わるために教会に行く女の子(petite fille)のよう。
彼はどんなことでも知っている振りをしていた(Il feignait)と付け加えられることで、すべてが「振り」ではないかという疑いが生じる。
それでも、「私」=愚かな乙女は、地獄の夫について行った( je le suivais)。
il le faut(そうするしかない)の時制が現在なのは、この告白をしている今もそうとしか思えないことを示している。
次に続く言葉は、ランボーの考える詩がどのようなものかを伝えている。その根本は、現実と空想との関係である。
« Je voyais tout le décor dont, en esprit, il s’entourait ; vêtements, draps, meubles : je lui prêtais des armes, une autre figure. Je voyais tout ce qui le touchait, comme il aurait voulu le créer pour lui. Quand il me semblait avoir l’esprit inerte, je le suivais, moi, dans des actions étranges et compliquées, loin, bonnes ou mauvaises : j’étais sûre de ne jamais entrer dans son monde. À côté de son cher corps endormi, que d’heures des nuits j’ai veillé, cherchant pourquoi il voulait tant s’évader de la réalité. Jamais homme n’eut pareil vœu.
私には舞台装置全体が見えていました。あの人が心の中で自分の周りを囲ったもの、服もシーツも家具もです。私はあの人に紋章を貸してあげました。今とは違う図のです。あの人に触れるものはみんな、私に見えていました。たぶんあの人が自分のためにそれを作りたいと思ったようにです。あの人の心が不活発だと思えた時にも、私はついていったのです。あの人の奇妙で複雑な行動の良し悪しはわかませんが、彼に遠くまでついていきました。確かだと思っていたのは、絶対にあの人の世界には入らない、ということでした。眠っているあの人の愛しい体の横で、夜の間どれだけ長い間、目を覚ましていたことでしょう、あの人がどうしてこれほどまでに現実から逃げだそうとするのか考えていたのです。決して、そんな願いを持った人間は、他にいませんでした。
「私」にはすべてが見えていたというのだが、見えるものは、地獄の夫が「心の中(en esprit)」で自分の周りにあると思い描いている、服やシーツや家具。
つまり、1人が空想しているものを、もう1人が目で見ていることになる。

そのことは、現実の問い直しにつながる。
一般的には、手で触れ目で見ることができるのが現実であり、見えているように思いながら、他の人たちからは存在しないと思われるものは、空想に属する。
それに対して、「私」(=愚かな乙女)は、地獄の夫が心の中で思い描くものが見える。
そのことが何を意味するのか?
見えているものをすべて現実と考えれば、視覚と想像力の区別がなくなり、空想も現実の一つになる。
そうした世界観の中では、いわゆる現実という枠組みに縛られることなく、想像と現実とは同一レベルに置かれる。
夢想での旅も、詩の中での旅も、実際に旅するのと同じことになる。

愚かな乙女はそうした世界観を受け入れ、地獄の夫に空想の材料を与えようとしたこともあった。
彼女が貸す「紋章(armes = armoiries)」は、彼のものとは別の図(une autre figure)のものであり、そのことで夫の想像世界に新たな糧を与えることを期待したのだろう。
また、「私」に見える夫関係の全てのものは、夫が自分自身のためにそのように作りたい(comme il aurait voulu le créer pour lui)姿をしているように思う。
夫の精神がどんよりとして動きが鈍いと思われた時、奇妙で複雑な行動(des actions étranges et compliquées)を取ることがあり、それがいいことでもあれば、悪事であることもあるが、「私」はそれでも遠くまで(loin)彼についていった(je le suivais)。
そうした時には、ついて行くというよりも、むしろ急きたてたといった方がいいかもしれない。
このように「私」は夫の”現実”を見、共に生きるように思われるのだが、しかし、「私」の醒めた意識は、もう一つの側面も見ている。
それは、地獄の夫が心の中に思い描く世界を見ることはできるが、しかし決して入ることはない(ne jamais entrer dans son monde)、ということ。
実際、1人の人間が想像する世界、夢の世界に、別の人間が入り込むことはできない。隣で空想するだけだ。
従って、「私」には見えていた(Je voyais)というのも、実は「私」自身の想像力の働きによって形作られた映像を見ていたことになる。
つまり、彼女も夫と同じ行動をしているのだ。

地獄の夫が現実からは逃れ(s’évader de la réalité)ようとするのはなぜかと、「私」は自問する。
その際、彼が逃れようとする現実とは普通に言われる現実であり、そこに留まることは想像力が産み出す新たな世界を非現実として排除することになる。
彼が生き、「私」が付き従うのは、想像と現実を区別しない一元的な世界なのだ。
ランボーの詩の中で展開するのはまさにそうした世界であり、言葉が現実を生み出す。
私たち読者は、愚かな乙女と同じように、詩人の言葉が作り出す世界を想像し、それを「見る」ことで、ランボーの詩的行為を追体験することができるのだ。
Je reconnaissais, ― sans craindre pour lui, ― qu’il pouvait être un sérieux danger dans la société. ― Il a peut-être des secrets pour changer la vie ? Non, il ne fait qu’en chercher, me répliquais-je. Enfin sa charité est ensorcelée, et j’en suis la prisonnière. Aucune autre âme n’aurait assez de force, ― force de désespoir ! ― pour la supporter, ― pour être protégée et aimée par lui.
私には分かっていました、ーー あの人のために恐れていたわけではありませんが、ーー あの人は社会にとって深刻な危難になる可能性がありました。ーー たぶん、「生を変えてしまう」秘密を握っているのでしょうか? いいえ、その秘密を探しているだけかもしれない、と思い直したりもしました。要するに、あの人の慈悲の心が魔法にかかっていて、私はそれに囚われた女です。ほかのどんな魂も十分な力を持ちはしないでしょう、 ーー 絶望する力! ーー あの慈悲を受け止めるための、ーー あの人によって守られ愛されるためのです。
地獄の夫が社会にとって深刻な危険(un sérieux danger)であるのは、「生(la vie)」を変えてしまう可能性があるから。
「生を変える」とは、上に見てきたような現実意識の変更だと考えていいだろう。
一般的に現実とみなされるものだけが現実ではなく、想像力が作り出す世界をも現実と認め、それらに区別を設けない。それは危険なことなのだ。

その世界において、地獄の夫からの慈悲(charité)は、魔法にかかっている(ensorcelée)。そのために、
彼に守られ愛される(être protégée et aimée)ことは、悲惨な生活の中で絶望を感じる結果になり、共に地獄を生きなければならない。
その絶望する力(force de désespoir)を持つ人(une âme)は、「私」=愚かな乙女以外には誰もいない。
そこで、「私」は地獄の夫が他の魂(une autre âme=他の人)と一緒にいるところを想像することはなかったと、以下の文で続けれる。
D’ailleurs, je ne me le figurais pas avec une autre âme : on voit son Ange, jamais l’Ange d’un autre ― je crois. J’étais dans son âme comme dans un palais qu’on a vidé pour ne pas voir une personne si peu noble que vous : voilà tout.
それに、あの人が他の魂と一緒にいるところを想像することはありませんでした。自分の「天使」は見えますが、他の人の「天使」は見えません、 ーー そう思います。私はあの人の魂の中にいました。ちょうど、内部を空っぽされた宮殿にいるみたいです。ひどく品位に欠ける人を見ないようにするためです。あなただけは見えますが。それが全てです。
ここでなぜ突然「天使(Ange)」を話題にするのかも、その後の展開も、正直に言えば、よくわからないと言わざるをえない。
(解釈の不確定性については、この項目の最後に(注)を付け、簡単に検討することにする。)
まず、天使に関しては、on voitとあり、一般論が語られていることがわかる。
その内容は、自分の「天使」は目に入る(on voit son Ange)が、他人の「天使」(l’Ange d’un autre)は見えないとということ。
ここでの問題は、見える、見えないということになる。

次に、愚かな乙女の過去の体験に戻り、彼女は「彼の魂の中にいた(J’étais dans son âme)」のだと言う。
その魂は、内部を空っぽにされた宮殿(un palais qu’on a vidé)のように感じられる。
そして、内部が空にされたた(on a vidé)のは、品位にかける人(une personne si peu noble)を見ないように(pour ne pas voir)するためだとされる。
ここでは見ないこと(ne pas voir)が問題になり、天使に関する一般論と対応する。
愚かな乙女が地獄の夫の魂の中にいるということは、彼と一体化していたと考えてもいいだろう。すると、品位に欠ける人間=地獄の夫は見えることになる。
そして、彼女の考えでは、見えないようにするためには、どのような理由かはわからないが、宮殿(=夫の魂?)を空にすることだったのかもしれない。
もう一つの大きな問題は、une personne si peu nobleの後ろにque vousが続き、文法的にはsi(=aussi)…queと考えるのが自然であり、そうした場合、「あなたと同じように高貴さに欠ける人」という意味になる。

しかし、vousは、愚かな乙女が告白=懺悔をしている相手、つまり神である。
とすると、aussi…queという理解は、神も高貴さに欠ける存在であるという誹謗の表現になってしまう。
地獄の夫の言葉であればそれは考えられるが、愚かな乙女の口からそうした言葉が出てくるとは考えにくい。
そこで、文法的とは言えないが、 ne…que vousと考え、「あなたしか見ない」と考えてみたい。
地獄の夫の魂を空っぽにすることで、品位に欠ける人間は見えなくなり、神だけが見える。
愚かな乙女は、心の底ではそのように望んでいたと。
以下の一節で、現実には地獄の夫に頼り切っていたということが明かされる。Hélas はそのことを嘆く感嘆詞ではないだろうか。
Hélas ! je dépendais bien de lui. Mais que voulait-il avec mon existence terne et lâche ? Il ne me rendait pas meilleure, s’il ne me faisait pas mourir ! Tristement dépitée, je lui dis quelquefois : « je te comprends. » Il haussait les épaules.
なんて悲しいこと! 私は完全にあの人に頼っていました。でも、あの人は、私の色あせて弱虫な生き方に、何を望んでいたのでしょう? あの人は私をもっとましな人間にしませんでした。死なせもしませんでしたが! 悲しくて悔しいので、時々私はあの人に言ってやりました、「あんたのことなんてわかってる」って。 あの人は肩をすくめたものです。

地獄の夫といるかぎり、愚かな乙女の存在(mon existence)は、色あせ(terne)、弱虫(lâche)でしかない。まっとうな(meilleure)人間にもなれい。
愚かな「私」は悔しさ(dépité)を晴らすために、夫のことをわかっているなどと言うのだが、まったく相手にされず、彼は肩をすくめるだけだった。
(注)
J’étais dans son âme comme dans un palais qu’on a vidé pour ne pas voir une personne si peu noble que vous.
この文は解釈が難しく、既存の日本語訳を見ても、まったく違う理解がなされている。

(1)
わたくしはその”天使”の魂のなかに棲んでいたのです。まるであまり品のよくないひとには会わずにすむようにと、とくに場所を空けてもらった宮殿のなかにいるかのように。(宇佐見斉訳、ちくま文庫)

(2)
あなたのように気高さに欠ける人間を見なくても済むように人払いをした宮殿のなかにいるような心もちで、私はあの人の魂の中にいました。(中地義和訳、岩波文庫)
A. son âme
宇佐見訳では、son âmeは、前の文に出てきた”天使”の魂とされ、中地訳では、あの人の魂、つまり地獄の夫の魂とされている。
私は、中地氏と同じように、地獄の夫の魂と考えたい。
その理由は、天使について語った部分は現在形が使われ、天使が見える、見えないという一般論が語られたのに対して、「彼の魂の中にいた」という時には、過去時制であり、「私は彼が他の魂(人)と一緒にいる姿を想像しなかった(je ne me le figurais pas avec une autre âme)」という体験談に話が戻るからである。
B. une personne si peu noble que vous
宇佐見氏は、que vousの部分は訳さず、単に「あまり品のよくないひと」としている。
それに対して中地氏は、「あなたのように気高さに欠ける人間」とし、あなた=神も気高さに欠けるという解釈をし、次の注で意図を説明している。
「愚かな乙女は、神に向かって告解をしている状況をしばしば失念し、身近なだれかに言葉を差し向けているつもりになる。二人きりの世界への閉塞願望はヴェルレーヌ的志向のパロディ。」
宇佐見氏が「あなた」をあえて訳さなかったのは、神に対する冒瀆の言葉を愚かな乙女がしたという印象を避けるためではないかと推測される。
中地氏は、注の中で、愚かな乙女は告白の相手が神であることを時々忘れるために、冒瀆の言葉を口にすることがあるという解釈。
私は宇佐見氏と同様に、愚かな乙女がvous(神)に対する冒瀆の言葉を発することは、ランボーの意図に反すると考えたい。そのために文法的な自然さを無視し、ne voir… que vousと考え、「あなただけは見える」と解釈した。
もう一つ、小林秀雄の訳も見ておこう。

妾が”あれ”の心の中におりますようのは、あなた様のようにあまり品のよくない人には誰にも出会うことがないようにと空っぽにしてしまった宮殿の中にいるようなものなのです。(小林秀雄、岩波文庫)
un palais qu’on a vidéを、宇佐見氏と同様に、「空にされた宮殿」と解釈し、中地氏の「人払いした宮殿」とはやや違っている。
違いは、vider(空にする)内容が、宮殿内の物なのか人なのかによる。
中地氏は、「気高さに欠ける人間」との関係で、誰もいない宮殿をイメージしたのかもしれない。
。。。。。。。。。
宇佐見氏は京都大学で、中地氏は東京大学で、長くランボーの研究に携わった方々であり、どの解釈が正しいといったことを私が言うことはできない。
ここであえて解釈の違いに言及したのは、詩だけではなく、言葉を読む作業においては解釈の違いが専門的な研究者の間にも生まれ、翻訳はそうした解釈の違いを反映することを示すためである。